第8話
なっちゃんを見送ってから、僕はポカポカとした気持ちで歩いていた。
部活の見学をしたからいつもより遅くなった帰り道は、もう暗くなって肌寒いというのに、そんなこともまるで気にならない。
それだけ明日の事で頭がいっぱいだった。
なっちゃんから誘われたデート。
昔はよく二人で遊んでいたけれど、高校生になってからは初めてだ。
なっちゃんは小さい頃から面倒を見てくれていた優しいお姉ちゃんのような人で、僕にとっては家族のような感覚が近かったと思う。
けれど、この間なっちゃんに抱きしめられた時から、僕はなっちゃんを一人の異性として見てしまっている自分がいることに気が付いていた。
優しいお姉ちゃんではなく、魅力的な年上の女性。
そんななっちゃんとのデートは正直楽しみで仕方なかった。
デートの事で頭がいっぱいになった僕は浮かれていた。
だから、家の玄関前に、誰かが座り込んでいる事も直前までまったく気が付いていなかった。
間近まで来た時、ようやくその存在に気が付いた僕はその瞬間に慌てて駆け寄った。
「栞! どうしたの!? ここで何してるの!?」
「あ、真。帰って来てくれたんだ」
「し、栞?」
そこに座り込んでいたのは確かに栞なのに、まったく別人のように元気がなかった。
泣きはらしたのか充血して真っ赤になった目は腫れぼったい。
いつからここに座り込んでいたのか、身体もすっかりと冷え切ってしまっている。
覇気のないその表情は、まるで幼い頃の栞に戻ってしまったかのようだ。
「ごめん、ごめんね真。私、反省したから」
「ちょっ! 落ち着いて栞」
僕を見るとそのまま泣き出してしまう栞。
慰めても聞く耳持たず、顔をくしゃくしゃにして恥ずかしげもなく泣きじゃくる。
まるで予想もしていなかった出来事に、動揺して何もできないでいると、通りかかった人から不審な目を向けられてしまった。
見ようによっては、僕が女の子を泣かせているように見えるかもしれない。
「し、栞? お願いだから泣き止んで」
「ぅぅ、ごめ、ごめん、なさい。ごめんなさい」
けれどそんな状況に気が付いていない栞は構わず泣き続けてしまう。困った僕はとりあえずすぐ隣の栞の家まで何とか連れて帰る事にした。流石にこんな状態の栞を親がいる僕の家には連れていけなかったからだ。
その点、栞の両親はあまり家に帰ってこないから今だけは都合がいいと思った。僕の家の隣にある古びたアパートの一室が栞の家だ。
昔と比べて家庭環境が落ち着いたとはいえ、それは両親の喧嘩がなくなったというだけで、その代わりに栞の両親はどちらもあまり家に帰って来なくなった。
最低限は帰って来ているみたいだけど、栞は家ではいつも一人だった。
座り込んで泣き続ける栞に肩を貸して、なんとかアパートまで連れて行く。
栞の家に行くのは久しぶりで少し不安だったけれど、思っていたとおり家には誰もいなかった。
「ごめん、ごめんなさい。許して、もう無視しないで」
家に着いてからも、身体を震わせて泣き続けている栞。
僕と栞しかいない家に、悲しく泣く声が響く。
「大丈夫だから、もう落ち着いて栞」
「だって、だってぇ、真に嫌いになられたら」
僕は正直驚いていた。
だって栞の口からこんな言葉を聞けるだなんて、まったく考えてもいなかったのだ。
変わってしまった栞に、僕は財布のように扱われていた。だから無視なんてしたら、単に愛想をつかされてしまうだけなんじゃないかと怖かった。
それがどうだろう。栞は嫌いにならないでと泣きながら必死に許しを請うてくる。
なっちゃんの作戦通り、栞が反省してくれたというのだろうか。
そうだとするなら展開的には僕にとって大成功のはず。だというのに、僕は心が痛くて仕方なかった。
「嫌いになんてならないよ。だからもう謝らないで栞」
「嘘だよ。嫌いだから無視したんでしょ? お願い、嫌いにならないで! 反省したから、真のためなら何でもするから!」
栞は興奮したように叫ぶと、あろうことか急に制服を脱ぎ出した。
目の前で露わになる栞の透き通るような綺麗な素肌。
僕は自分の目の前で起きている事があまりにも現実離れしていいて、止めようとすら思えなかった。
「私をすきにしていいから、だからお願い、もう無視しないで」
気が付けば、目の前には下着姿になった煽情的な姿の栞がいて、少しでも手を伸ばせばその柔肌に触れる事だってできた。
思わず伸ばしかけていた手を止める。こんなことは良くないと思ったから。
けれど、栞は僕のその行動をよく思わなかった。
自ら近づいてきた栞に抱き着かれ、僕はそのまま床に押し倒された。
「ごめんね真。私、真に甘えてた。私が辛かった時ずっと一緒にいてくれた真なら、喩えどんな事をしても許してくれるって思ってた。罵り合ってた私の親と私たちは違うって証明したかったの。私がどんなに酷い事を言っても、どれだけ雑に扱っても真はずっと好きでいてくれるんだって、それが愛だと思ったから。だからそう思ってからはずっと真にわざと酷い事をしてた」
それは栞の本心なのだろうか。
好きだから虐める。愛しているから理不尽に酷い目に合わせる。それでも変わらずにいてくれるから相手からの愛を感じる。
普通の人が聞けば何を言っているんだと、頭か精神の異常を疑われそうな歪んだ考え方。
けれど、栞の過去を知っている僕は、そんな歪んだ思想を意外にもすんなりと受け入れる事ができた。
栞は小さい頃本当に寂しい生活を送っていた。両親はいつも喧嘩していて、家からは怒声が毎日響いていた。
そんな両親がまともに子育てをするわけもなく、栞は放っておかれる事がほとんどだった。
まともに手料理を食べた事もなければ、何かプレゼントを買ってもらった事もない。
そんな関係の親を見ていたら、栞がこんな歪んだ愛の形にたどり着いたとしても不思議じゃないのかもしれない。
小さい頃はおもちゃの指輪をプレゼントしただけで喜んでくれるような純粋な性格だったのに、もうあの頃の純粋な栞はどこにもいない。
栞がこんなにも歪んでしまったのは、愛のない環境のせいで、だからこそ栞は悪くない。
むしろ、今までの理不尽な扱いは僕が気付かなかっただけで、栞にとっての最大級の愛情表現だったのだ。
僕に愛されていると感じたいからこその理不尽な扱い。
栞は僕をいつでも心から頼ってくれていただけ、その証拠に、栞は僕以外の人には何かを買ってと頼むような事はなかったのだから。
「どんな無茶を言っても絶対に叶えようとしてくれるのが嬉しかったの。けど、私からも真に何かしてあげないといけないよね。だから、私の身体をすきにしていいから」
「……栞、ごめんね。もう無視しないから」
「……っ、本当?」
「本当だよ。僕が悪かったんだ。これからも栞なりの愛情表現をしてほしい。どんな形でも僕は受け入れるから、だからこんな事する必要はないよ」
「ダメ。私の気持ちは分かりにくいみたいだから、これからは何度でもこうして伝えるから、だから、普段の私も受け入れて」
それから、僕に覆いかぶさっていた栞が身体を落としてきた。
密着する僕たちの身体。
栞の肌と僕の身体がこすれ合う。
手を握られ、脚を絡ませてきた栞から、僕はもうどこにも逃げられない。
というより、元から逃げるつもりなんてない。
栞の本心を聞けた今、僕は栞の事ならどんな事でも受け入れたいと思った。
栞の顔がどんどんと近づいてくる。
お互いの唇が触れ合い、その瞬間には、僕の口内にぬめぬめとした温かい何かが侵入してきて、舐るように動き回る。
初めて感じるその快感に震えながら、僕はされるがままに全てを受け入れた。
翌日。
僕は栞と一緒に買い物に来ていた。
かねてから欲しがっていたあのトートバッグだ。栞がまだ取り扱っている店舗を見つけていたらしい。
僕たちは昨日仲直りして深い関係になった。だからというわけではないけれど、無視していたお詫びとして一緒に買いに行こうと僕が誘ったのだ。
昨日の事後。栞はまた普段通りに戻っていた。
それでも僕が不安になることはない。夜になればまた栞が愛をくれるのはなんとなく分かっていたから。
普段の様子に戻った栞はいつにも増して辛辣だった。けれど、それがより過激な愛の表現だと思うと、僕は理不尽な扱いにも嬉しさを感じた。
だからこそ、このデートは本当に楽しかった。
そんな楽しい時間に水を差すかのように、僕のスマホに今日何度目かの着信が入った。
朝から何度も無視しているのに、まったく諦める気配がない。
僕は栞に断って、渋々電話に出た。
「もしもし」
『あ! やっと出た。真、アンタ今どこにいるのよ。せっか家まで迎えに来たのに、今いないでしょ?』
電話の相手はなっちゃんだ。
今日はなんでこんなに電話をしてくるのかと思ったら、そう言えば昨日そんな約束をしていた事を思い出す。
すっかりと忘れてしまっていた。なっちゃんには悪いけれど、約束はなしにしてもらうしかない。
「なっちゃんごめん。今日はやっぱり無しにして欲しいんだ」
『え? な、なんでよ? 何かあったの?』
「えっと、今栞と出かけてるから、今日はなっちゃんとは遊べなくなったんだ」
『はぁああ? 何で栞と!? 無視しなさいって言ったでしょ!!』
思わず耳を離してしまう程の叫びだった。
傍にいた栞にも聞こえていたらしい。若干眉間に皺を寄せている。
「ごめんねなっちゃん。でも昨日栞が泣いててね、すごく反省してくれてたから」
『いやいや、そんなの演技に決まってるでしょ! なに普通に騙されてんのよ!』
「ごめんね、もう僕が耐えられなくて」
『……いい真、よく聞いて。栞は確かにいい子だったよ。でもそれは昔の話、今はもう栞は変わっちゃったの。現実を見て、今の真は頼られてるんじゃないの。いいように使われてるだけなのよ』
なっちゃんの声は優しく言い聞かせるような声だった。
その声を聞いて、少しだけ笑ってしまいそうになる。別に僕はなっちゃんに反発して頑なに言う事を聞かないわけじゃない。
ただ、なっちゃんには僕たちの形が理解できないだろうと、そう思っただけ。
きっと栞の想いをどれだけ丁寧に説明したところで、なっちゃんは聞く耳を持たないだろう。
今隣にいる栞は、買ってあげた真新しい鞄を嬉しそうに見ているわけではなく、スマホで違う商品のページを熱心に見つめている。
たぶん、次に僕が買わないといけないのは、今栞が見ている靴かもしれない。
栞は確かに変わった。いや、変わったと言うよりも歪んだという方が正しい。
そして僕は変われない。
栞がどんなに歪んだとしても、僕は変わらず栞から必要とされたいから。
昔から誰にも必要とされなかった僕を、一番最初に必要としてくれた栞。
あの時と今では、栞の愛情表現は変わったけれど、僕はどんな形でも栞から必要とされていると実感出来ればそれでよかった。
栞からずっと必要とされていたい。その想いは出会って初めて頼ってもらえた時からずっと変わらない。
昨日、僕はなっちゃんの事を昔から変わらないと思った。けれど実際にはきっとそんな事はないのだろう。
そして、本当に変われていないのは、僕の方だ。
「ねぇ真! これ見て!」
どうやら次の欲しい物が決まったらしい。
電話をしている最中である事もまるで気にしていないかのように、栞が服を引っ張って来る。
「ごめんなっちゃん、そろそろ切るね」
『ま、待ちなさいよ! 私なら栞なんかより真を大切にしてあげるのに! 私を選びなさいよ! なんで栞なのッ』
僕は最後まで聞かずに電話を切った。
栞に必要とされるためなら、僕はこの生き方を受け入れようと思う。
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