第6話 亡くなった妻と、お茶を一緒に。4
「なぁ、お前は幽霊なのか?」
「うぅん、そうかな」
春香は伏し目がちに、湯飲みのふちを人差し指でゆっくりとなぞりながら、そう答えた。
「微笑む」ような、しかし、それとは少し違う、儚げな笑みをうっすらと浮かべて。
それに対して、俺も「そうか」と言っただけだった。
「そうかな」という、春香のはっきりとしない言葉が少し気になったが、大きな疑問が1つ解決した。では、その次は。
「どうして戻ってきたんだ? 戻ってきた、というのも、おかしな言い方なのかもしれないけど。やっぱり、何か気になること…… が」
言葉の途中で俺は口をつぐんだ。「何か気になることがあるのか?」と、最後まで問いかけることができなかったのだ。
「気になること」の質問に対して「あなたが自堕落な生活をしているから」や「あなたが情けない顔をしているから」などと言われることが怖かった。それなりに自覚があるからこそ、妻の口からは聞きたくない。
日々、気が抜けたように暮らしていても、どうやら男としてのプライドは残っていたようだ。妻の前では夫として、いい格好をしたいらしい。自分のそんな姿を心の中で嘲笑する。
(あとは、やっぱりあの言葉の続きだ……俺の生活云々よりも、その可能性のほうが高い)
聞きたい。しかし、聞いてしまった後は? 嫌な予感しかしないのだ。
「私が今、ここにいる理由?」
「そ、そう」
いつの間にか春香は顔を上げて、言葉の続きを紡がない俺の顔を、小首を傾げて眺めていた。
俺は慌てて、こくこくと頷いた。
「んん、秀志さんに会いたかった、から……?」
(何で疑問系なんだ)
「私もよく分からないの。いつの間にか、庭にいて」
「そう、なのか?」
庭で再会した時には、彼女は笑顔でゆったりと座っていた。だから、自分の意思でやってきたのだと思っていた。
それでも、実は最初から少しの違和感は感じていた。春香は生前、わりとハキハキと話すタイプだった。
しかし、今夜はずっと、のんびりとした口調で話している。
それこそ、夢を見ているような、寝起きのような様子だ。
春香は朝が弱かった。日中、掃除に洗濯、料理に庭仕事とパタパタと忙しなく働く彼女も、朝だけは動き出すまでに時間がかかった。
ようやく枕から頭を上げたかと思えば、ぼぅっと半分目を閉じたままで、しばらく布団の上に座り込んでいる。そして、そのまま放っておくと、カクンカクンと船を漕ぎ出す。
「おはよう」と声を掛けると「んん」と、彼女はネコのような間延びした返事をする。
これは子供の頃からの体質のようで、結婚しても、娘が生まれて母親になってからも、そして年齢を重ねても、あまり変わらなかった。
それでも、夜中に娘が泣けば授乳をし、寝付くまであやしていた。当然と言えばそこまでだが、母親とは偉大なものだ、と当時は感じていた。
その代わりといっては何だが、春香の電源が完全に入るまで、朝は俺が娘を抱いている時もあった。
出勤のために、Yシャツとスラックスに着替えてから娘を抱いていたため、よだれや何かで、何度か慌てて着替え直したこともある。
当時はまだ、あまり夫が子育てに介入しない時代だった。
そのぶん「うちの夫は、子育てに協力的だ」と、誇らしげに春香が話しているのを偶然聞いた時には、恥ずかしいような、くすぐったいような気持ちになった。
少し思い出に浸りすぎてしまった。
まぁ、何というか。今の春香は、まさしく寝起きの様子そのものといった感じだ。そんな口調や仕草が、もうすでに懐かしい。
(こんな当たり前の日常風景や思い出すら、俺は忘れていたのか……)
春香の、のんびりとした話し方を聞くことで、過去の嬉しかったことや、温かい日常が呼び起こされる。
この1年間は、悲しみや嘆きという負の感情だけが、心と生活に浸潤していた。
幸せだった情景が鮮やかに思い出されたことで、真綿で首を絞められるような息苦しさが少し緩まる。ホッと、久しぶりに呼吸ができたような感覚がした。
そして正直に白状すると、悲しみや苦しさが霧散しただけではなく、俺は浮かれていた。
春香の顔を見て、声を聞いて、会話をしている。
諦めながらも、ずっと望んでいたことが叶ったのだ。
そして、春香の口からも曖昧ではあったが「会いたかった」という言葉も聞けた。こんなに幸せなことはないだろう。
(この時間がずっと続けば良い。どうすれば、春香を繋ぎとめられる?)
彼女の「気になること」について、再度考えてみた。
幽霊とは心残りがあるから、この世に戻ってきたり、留まったりすると聞きかじったことがある。
だから俺も、きっと春香にも何かあるのだろうと思い込んでいた。
しかし「なぜ、ここにいるのか」という答えは、春香も正確には分からないらしい。
突然、自分がいるはずではない場所に身を置かれ、そして、その理由も分からない。
そんな状態は、さぞ不安なことだろうと、自分に置き換えて胸が痛くなった。
目を閉じて、計算式でも展開するように思考を広げていく。
春香がここにいる理由は、やはり彼女自身も気付いていないような潜在意識にある「気になること」だと仮定する。
そうであるならば、もし、彼女の「気がかり」や「心残り」が解消されなければ、ずっと自分のそばに留まらせることができるのではないか、という自分勝手で仄暗い答えを見出した。
それは決して、春香にとって幸せなことではないかもしれない。
しかし、自分の寿命が尽きるまで、幽霊のままで良いからそばにいてはくれないだろうか。
そして、こんなふうに毎日お茶を飲みながら、他愛もない話をして暮らすのだ。
きっとそれは、この上なく幸せな時間だろう。
春香の写真の隣に置かれた遺骨に、チラッと視線を向けた。
(俺は思っていたよりも、自分勝手で汚い人間なのかもしれない)
理性では、本当に妻を愛しているのなら、彼女の不安を取り除くことを最優先にするべきだと考えることができる。
しかし「このまま彼女を自分のそばに置きたい。逃したくない」という、どろりとした欲が、容易く理性を覆い隠していった。
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