第5話 生意気な顔の、絵画の少女
動き出す絵画におののいていると、人ってだんだんと、慣れてくるものなんですね、額縁の中の少女と男性が、それ以上の動きを見せないからでしょう、無害っぽいのがわかってくると、少しだけ余裕も生まれてくるというものです。その余裕を、何に使うかは人それぞれですね。私は、彼らを見上げて眺める時間に費やしました。意識してのことではありません、恐怖心を克服しようと、本能的に調べようとしたんだと思います。いわゆる、怖いもの見たさという状態ですね。
この女の子は、目の色が毒々しい赤色をしていました。よく熟れたイチゴも、熟しすぎるとどことなく不穏な見た目になるのと似ています。赤は女の子に似合う色のはずなのに、ここだとそのイチゴのようなんです。人肉を食べる双子が住む屋敷だからとも言えますよね。描かれた眼とは思えないほど、みずみずしくうるんでいて、私の姿も映り込むのではないかと疑うほどでした。唇もふっくらしていて、大変柔らかそうなんです。今にも、絵画から出てきそうで……それはそれで怖いですね、この大きさの女の子が登場したら、ラズ君もロゼ君も逃げだしそうです。
それにしても、可愛い女の子ですね~。
こんなに豪華な色彩で描かれるくらいですもの、裕福な家庭の両親から溺愛されていたに違いありません。なのに、それなのに、どうしてこんな見下したような顔ができるんでしょう、腹が立ってきました。手をたたけば使用人が甘いお菓子を持ってきてくれるような家庭環境で、何が不満なのでしょうか、こんなに美しく描いてもらっても、まだ他人の愛が信用ならないと言うのですか? お金目当てに言い寄ってくる人も多いでしょうが、芸術は愛がなければ続けていけない職業なんです。あなたをモデルに選んで、じっくり時間を掛けて筆を取った画家さんは、たしかにあなたを愛し、あなたの魅力を己の技術をもってして最上級に描いてくださったはずです。後世にまでこの絵が大事にされてきたということは、あなたの生きた歴史、痕跡、それらを保持するために人生をかけて修繕に励んだ人達がいたからですよ? その前にまず、ご両親が後生大事に保管していらっしゃったんでしょうね。あなたは愛され過ぎていますよ。それなのに、なんですか、そのお顔は。全ての他人を見下したような、そのお顔は。ずっとそのお顔で画家さんを眺めていたとしたら、最初からモデルなんてやめてしまいなさいと、言えたらいいんですけどね~。
一般家庭の子が、幸せに胡坐を掻いてグレてるのを見るのは、大変腹立たしいことでした。塾をさぼって、酒にタバコに、無免許で先輩のバイク乗り回したり、そのためのガソリン買ったり、そんなもの買うお金があれば、私にくださいよって、いつも思っていました。私なんてお弁当もなければ、学食のパンを買うお金だって、厳しいやりくりの中で捻出しているのに。参考書の一冊も買えないのに。勉強はもっぱら、頭の良い子から教えてもらってばかりで、たぶんクラスメイトからは私はものすごく頭の悪い子なんだと思われていました。
……他人を妬んだって恨んだって、あの家で耐えて生きてゆくことを選んできたのは、この私。それがわかっていたから、どんなに腹が立ったって、おくびにも出しませんでした。嫌ならやめればいいんです、あんな生活。でも、どうしても一歩踏み出せなかった。
そして私は、死にました。
がんばっていたのに、耐えていたのに、一生懸命家事をしていたのに。親から全く愛されない日々は、すごく、悔しかった……です。今思えば、意地になっていたんだと思います。いつか私に感謝してくれる日が来るはずだって、思い込んでいたんです。
はぁ~、こんなことを考えながら芸術を鑑賞するのは画家さんに失礼ですね。何を思おうがお客の自由でしょうが、画家さんはこの子を愛していたのですから、嫌な感情を抱かれるのは不本意でしょう。
この絵の女の子だって、奇妙な経緯をたどってミミックに生まれ変わった女の子が、ご自分の絵をイライラしながら観覧するだなんて、夢にも思わなかったでしょうね。
なんだか、目線が高くなってきたのは、私の気のせいでしょうか? 床すれすれまで小さかった私の目線が、ゆるやかに昇ってゆくのです。また魂が抜けていっているのでしょうか。絵を眺めながらの絶命は、どのような死因に当てはまるのでしょうか。
なんて冗談をかまして現実逃避している場合ではありません。これ以上の身の異変に対応する気が、完全に消滅しているのですが、そんな己に鞭打って、私は自身の確認をと体を見下ろしました。
これは……? 首から下が、薄地の白のワンピースを着た女性の体になっています。どういう、ことでしょうか。肩からさらりと流れる髪の色は、雪のようです。
こんな下着みたいな恰好で、人様のおうちをうろつく趣味はありません。どうしましょう、ここには洋服の納まっていそうなタンスもありませんし、それどころか家具がありませんし、いったんこの部屋を出ましょうか。ああ、でも、廊下に出ると悪食ラズ君と遭遇してしまう恐れが――
「…………」
ちょうど扉に振り向いた私と、音も気配もなく扉に隙間を作って覗き見ていたラズ君は、しばし見つめ合いました。
お互いに固まって、それはそれで何かの現代アートのような数秒間を過ごしたのち、ラズ君が扉を押し開けて、中に入ってきました。とことこと、歩み寄ってきます……怖いもの知らずですね、そんなきみが一番怖いです。
彼は私よりも頭二つ分、背が低くなっていました。地面から見上げていたときよりも、彼の全体像がずいぶん見やすくなっています。身長差のために一生懸命に上向くその顔は、本当に邪気の一片もなく幼く見えて、中学生ぐらいですかね、十五歳前後に見えます。外人さんは大人っぽく見えますから、案外十歳前後なのかもしれませんが。
「聖女様?」
ラズ君が小首を傾げながら、尋ねました。
聖女様って、誰でしょう。私は背後を振り向きましたが、誰も立っていませんでした。どうやら、私の今の姿を見て、そう発言したようです。
でも、私は聖女様なんて知りませんし、そもそも別人ですし、どう返事をしたものか。
「えっとー、おはようございます聖女様! え、なんでなんでー? 聖女様、ここに住んでんの?」
「え? 住んでるって、私がですか?」
「うん。だって、ここにいるじゃん。俺、ここが誰の家かわかんなくてさー、勝手に入ってたんだよな。だからー、ごめんなさい?」
困り顔で謝罪を口にするラズ君。これでいいのかどうかと、私の反応をうかがっている様子でした。この子、何が悪いことで、何が大丈夫なことなのか、あんまりわかっていない感じがしますね。無邪気そうな雰囲気に見えるのは、そこからくる言動から漂っているのかもしれません。
この子の服装も、じっくり上から観察できました。子供サイズの上着にベストに、短パンの下には黒のソックスガーターが。いかにも西洋のお坊ちゃまって感じの服装です。服の生地は、ぼろぼろですけど。
「あ、そうだ! なあ聖女様、ここにミミックの赤ちゃんが来なかった? 茹でて食べようと思ってたんだけど、逃げちゃってさ。見つけてくれたら、聖女様の分も分けてあげるよ」
そのミミックが今、目の前にいますよ。
「なあ、見なかったか?」
「……え、えっと……はい、見ませんでした。それと、モンスターは食べないほうがいいですよ。お腹を壊してしまうかもしれませんから」
「お腹って壊れるの?」
「ええ。お腹を下したことはありませんか?」
「いつもだよ? そっかー、俺モンスターを食べてたから、お腹下ってたんだー」
……どうやら、ゲテモノ食いの経験が豊富なようですね。
「じゃあ人間の聖女様は、食べても大丈夫なんだな」
「え?」
「ミミックの赤ちゃんより食べるとこ多そうだし、ロゼも何日も何も食べてないんだよなー、あいつにはいつも助けられてばかりだから、俺よりもたくさん食わしてやりたいんだ」
説明口調で、とんでもないことを。
さらに上着に隠れていたベルトに挟んでいた刃物を、なんの躊躇も見せずにすっぱ抜き、音高く斜めに切り上げてきました! びっくりして後ろに飛びのく私に、ラズ君の追跡が距離を詰めます。
「ちょ、ちょっと! 何するんですか! やめてくださいって!」
「何するって、殺して食うんだよ?」
「そんなことはわかってますよ! それを踏まえた上で、人として何をしているのかって尋ねているんです!」
「何するって、だからー、殺して食うんだよ?」
うわっ、腕をかすった! ガスッと不穏な振動が腕に走ります。本当に固いですね、今の私。でも体に響く衝撃が、なかなかに不快です。そりゃあそうですよね、これは私を傷つけるために振るわれた暴力です。心地良いわけがありません。
ゲフゥッ!
ラズ君の回し蹴りが、もろに横っ面に入ってしまった! よろけた私にさらに跳び蹴りの追い打ちが。真後ろに転倒した私に馬乗りになったラズ君が、容赦なく刃物を眼球めがけて突き立ててきました。
ガスンガスンッと弾かれる刃に、ラズ君がきょとんとして手を止めます。
「あれ~? 刺さらないぞ? 聖女様って硬いんだな~」
また振り上げようとしてくる刃物を、手首ごと掴んで止めました。
「いいかげんにしてください! あなたのやっていることは殺人ですよ!」
「え? 生きてんじゃーん」
「じゃあ殺人未遂容疑です! このクソガキ重いんだよ下りろ!」
えー? と、ごねる空腹のラズ君の顔面に、今度は私の拳が飛びます。しかし、軽く小首を傾げる動作でかわされてしまいました。ぐぬぬぬぬ~!!
「ラズ! どうしたんデスカ!」
扉が元気よく蹴り開けられて、ロゼ君が飛び込んできました。そして目の前の現状に、フリーズしたのか目が点に。
「ハイ……?」
「なあロゼも手伝ってくれよ。この聖女様、硬くてさ~」
「聖女とは、その人のことデスカ?」
会話してないで助けてロゼ君! もうやだ~この双子~!
「ラズ、聖女様から下りマショウ。この人は食用デキナイお肉ナノデス。刃物が通らないデショウ? 食べられない証拠デスヨ」
「そっかぁ。まだまだ俺の知らない肉がたくさんあるんだな~」
ラズ君が立ち上がって、どいてくれました。ああ、怖かった……暴力を受けたことは多々ありましたが、こんなもの慣れるほうがおかしいですよ。
「大丈夫デスカ? どうして、逃げなかったのデスカ?」
ん?
「ラズ、この人はここへ迷いこんだお客様デス。お疲れのようですカラ、僕がお部屋まで案内してキマス」
「おう、任せた。あ、でもー、お腹すいたなー」
「干し肉なら、少しアリマス」
「でもそれ、ロゼのだろ?」
「僕はさっき食べましたカラ、これはラズの分デス」
「そっか? じゃあ、遠慮なくー。ありがとなロゼ!」
まるでお菓子を分け合う小さな子供……スルメでも食べるかのように干し肉をかじりだすラズ君は、さっきまで人の眼球を刺そうとしていたとは思えないあどけなさです。
私はロゼ君に手を引っ張ってもらって、起き上がり、立ち上がりました。自分でも情けないほど、腰が抜けてしまっていて……ロゼ君がお部屋に案内すると言うので、私はとにかくラズ君から距離を取りたい一心で、ロゼ君に付き従いました。何も深く考えられる状況ではなかったのです。混乱した頭を、少し冷ます時間が欲しかったんです。
部屋を出る際に、なんとなしに見上げると、あの少女の絵が、綺麗さっぱり消えて真っ白になっていました。キャプションボードには『聖女の封印』と……いったい、何が起こっているんですか~!??
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