彼女の心を盗んだ男
1
「
顧客からの電話に対応し終えた直後、いつになくテンションの低い女性の呼びかけに、瑛比古さんは首を傾げた。
この日は珍しく、朝から出勤して、所長の奥様の花代さんのお手伝いをして過ごした瑛比古さん。
夏休みに入ったハルとナミがメイちゃんの保育園の送り迎えや洗濯などの家事を請け負ってくれたので、基本の始業時刻から出勤していた。
急ぎの案件もなく、エアコンの効いた涼しい室内での作業とあって、抜ける手と気は容赦なく抜きまくる瑛比古さんも、真面目に業務に勤しんだ。
『夏休みは僕がちゃんと家のことやるから、仕事行きなよ』
『普段、迷惑かけているんだから、俺がいる時くらいちゃんと働けよ』
最近、ますます小うるさく——もとい、細かいところにまで気が回るようになったナミに加え、来春の就職を控え職業人意識が芽生えつつあるハルまで援護射撃をして、追い出されるように出勤した、というのが本音ではあるが。
キリも夏休みには入っているが、今日は全校一斉の模擬試験のため登校している。
朝、一緒に家を出たが、朝練がある時に比べて沈鬱な面持ちだった。
自分の将来に必要だと思う努力をしていれば成果はどうあれ特に干渉する気がない、というのが瑛比古さんの教育方針である。
なので、成績に関してうるさく言った覚えはない。
もっとも亡き妻・美晴さんは、最低限行わなければならない宿題や予習復習を習慣づけるよう心を砕いていた。
長男のハルは、その教えを素直に守り、もともとコツコツ真面目に取り組む性格もあってか、飛び抜けて優秀ということはないものの、平均的に中の上程度、科目によっては上位の成績を維持していた。
一方次男のキリは、勉強するよりも体を動かす方に重きを置いて、ギリギリまで宿題には手を付けず、予習復習も後回しにしがちではあったが、ギリギリではあってもソツなく宿題はこなし、気が付けばそこそこの成績を維持している。
ちなみに、小学校低学年のうちに美晴さんが天に召されてしまったナミは、しかしそのしたたかさで兄二人の様子をしっかり観察し、自分に合った方法で問題なく成績を維持している。
さて、そんなわけで、キリの暗い表情は成績へのプレッシャーなどではなく、単に部活動に当てたい時間を模擬試験に奪われることへの欲求不満であると、瑛比古さんは見当をつけていた。
今夜は久しぶりに、外食してもいいな。キリも、今日は部活はないって言っていたし、せっかく家族そろって夕飯を食べられるタイミングだし。
昼休み、夕食についてナミにも伝えてもらうようにハルにメールをしておき、さきほど了承の返信が来ていた。
『明知屋か、みかん亭がいい。キリにも夕方連絡しておく』という追伸付きで。
明知屋の大二郎シェフは、腰痛が多少改善し、一応職場復帰しているが、現在は予約制の夜営業のみで様子を見ている。
今日の今日では迷惑だろうし、そうなると選択肢は「みかん亭」一択である。
今夜は、「みかん亭」で夕食!
思わず口ずさみそうになるほどウキウキして、瑛比古さんは残りの就業時間を精力的にこなし。
あと、もう小一時間で終業! という、その時に、投げかけられたのが、花代さんの不穏な声だった。
「はい、どうしました?」
ついてきて、という無言の眼差しに、同じく眼だけうなづき、応接室に招き入れられる。
探偵事務所とは別の、行政書士事務所の顧客用の応接室は、その片隅にパーテーションで目隠しした花代さんの事務机も置いてある、いわば探偵事務所内の行政書士事務所スペースのようなものだった。
瑛比古さんは探偵事務所スペースの自分の机で事務作業しているので、仕事を請け負う時か接客時のみ出入りする程度だ。
本体の探偵事務所とは違い、整然と整えられた、花代さんの性格をそのまま映したような室内は、けれど、どちらかと言えばガサツな小太郎所長を許容するそのおおらかな懐の広さをも表し、優しい色づかいのインテリアなどの工夫で程よい安心感を与えてくれる。
(つまり、本体の探偵事務所、および所長専用の事務室は……言わずもがな、結構雑然としている)
当の花代さんも、きっちりとした性格で仕事も家事も万全にこなしながら、所員に対しても穏やかに接する、正直小太郎所長にはもったいないほど出来た女性で。
なので、こんな風に顔をしかめている時は、自分が何かしでかしてしまったのかも、と不安に駆られてしまう。
今日の仕事、何か不備があったかな? いやいや、それはないはず。あ、この間、割と強行軍で県外まで調査に出かけた時に、新幹線使ったことかな? 経費使い過ぎ、とか?
事務仕事に関しては一応一定水準に仕上げられるという自負がある瑛比古さん、どちらかと言えば大雑把な小太郎所長をうまく転がして経費をせしめたことに負い目があるので、そちらに思考が行く。
「今、警察から連絡が来てね……」
「え? 丸さんから?」
戦々恐々としながら、花代さんの言葉を待っていた瑛比古さんは、思わず食い気味に返答してしまう。
「丸田さんじゃないわ。交通安全課の、片桐さん」
「かたぎり……ああ、所長の秘蔵っ子の」
かつて教育係として指導したと、酒の席で紹介された、同年代の警察官の顔を思い浮かべる。
一時期遠方に移動して、この春にまたこちらに配属になったという。
この間も、商店街のワゴン車の事故の件で、注意喚起のお知らせ、と言いながら顔を出していた。
「その片桐さんが、何か?」
「今日ね、また事故があったらしいの。商店街で。それでね、キリくんが……」
「……キリ? まさか?」
「大丈夫。大きなケガはないって。同級生の女の子をかばおうとして、転んで擦り剥いたみたいだけど、本人は大丈夫って言ってるけど、念のため……って」
瑛比古さんが電話対応している間に、概要を確認しておいてくれたらしい。本来は家族に直接伝えるべき内容なのだろうが、明知夫妻が瑛比古さんにとっては親代わりの家族同然と知っている片桐は、孫の安否を知らせる気持ちで花代さんに話したのだろう。
「今日はもういいから、仕事上がって? 若いから平気って思っているかもしれないけど、スポーツマンなんだし、万が一のことがあったらいけない……いえ、ないと思う。けど、一応ね。念のため、よ」
不吉な言葉をひるがえすように、花代さんは何度も否定の言葉を重ねる。
その能力故に、
そこにある花代さんのキリに対する愛情を感じ取り、「大丈夫ですよ、あいつは鍛えているし」と安心させるように瑛比古さんは断言した。
花代さんの好意に甘え早々に仕事を切り上げると、瑛比古さんは足早に事務所を飛び出したところで、スマートフォンを取り出した。
特に、着信や通知はない。
と、確認した瞬間。
『メールが来てまーしゅ』
愛娘の声が、メール受信を伝える。
その愛らしさに一瞬和みそうになりながらも、慌てて瑛比古さんはメール受信のポップアップをタッチした。
『キリが変。帰ってきて、外食のこと話しても、夕飯いらないって、部屋にこもってる』
ハルから短文のメッセージ。
その短さに、ハルの慌てぶりを感じた。
それに。
あの、キリが?!
食べ盛りとは言え、最近は野球か食べ物の話しかしない、あのキリが?!
夕飯、いらないって?!
まるで天変地異の前触れのような出来事に、瑛比古さんは今まで以上の焦燥を覚え、猛ダッシュで家に向かったのだった。
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