3

 お昼ごはんを食べたあと、南海さんはエコバッグと小さめの箒とチリトリを準備した。


「荷物持つよ」


 両手いっぱいの南海さんを見て、ナミが申し出た。

 かさばる箒とチリトリを受け取ろうとして、一瞬考えたあと、エコバックに手をかけた。


「こっち持つよ」

 パッと南海さんの腕から手先に持っていたチリトリごとエコバックの取っ手を抜き取り、そのまま両方持って、屋外に向かう。

「ナミくん、そんなにいいよ」

 南海さんは慌ててナミを追いかける。

 エコバックには、2リットルのペットボトルが入っていて、見た目より重いのだ。


「大丈夫、大丈夫。で、どこに行くの?」

 先導して外に出たものの、まだ行き先は聞いていない。

「あ、うん。あのね、巾着町のお稲荷さん」


 巾着町と聞いて、ナミが一瞬眉をひそめた。

 七日町商店街の裏側、子供は近付いちゃいけないと言われている、いわゆる歓楽街である。


「うん、あ、でも、入ってすぐのところだから。前にも通ったこと、あったよね? まだ、昼間だし」

「……うん、まあ、大丈夫かな」

 ナミも全く足を踏み入れていないわけではない。入り組んだ小路は、かくれんぼの好スポットだし、車も少なくて、子供にとってはちょっとした遊び場だ。

 いけないと言われている、それすら冒険心を掻き立てるスパイスで。

 件のお稲荷さんは、前に南海さんと通りかかった近道にある祠だろう。


 七日町商店街の表通りから、ほんの少し入ると、もう巾着町である。

 目的のお稲荷さんの祠にも、すぐにたどり着いた。


 夜の街である巾着町は、昼下がりの今はまだ閉まっている店がほとんどで、人通りもない。


「これ、どうするの?」

 一応質問したが、なんとなくナミには答えが分かっていた。

 お稲荷さんの周囲は、ゴミが散らばり、古びたお稲荷さんも、以前は古いなりに浄められていたが、今は薄汚れて……良く見ると落書きもされている。


「この間、気になったんだよね。なんだか前より、汚れていて」

「この間?」

「うん、この間……事故にあった日」


 七日町商店街で起きた、ワゴン車の事故。

 南海さんの目の前で空き店舗のシャッターに突っ込み、ぺしゃんこになったワゴン車。

 あと一歩早ければ、南海さん自身がぺしゃんこにされていたのかもしれない、事故。


「あの時ね、ここでお詣りしたの。多分、1分か、もう少し長く。……その時間で、助かったんだと思う」

「そっか……。何をお願いしたの?」

「何にも。ひいおばあちゃんが、神様はお願いしなくても、ちゃんとみんなを守るために働いていなさるんだから、お詣りはそのお礼のためにするんだよ、って言ってたから。……たまには、ちょっとお願いしちゃうこともあるけど。あの時は、ただ、何となく」

「そうなんだ。でも、ちゃんと、南海ちゃんを守ってくれたんだ。よかった」

「うん。だから、今日は、お礼。本当は、すぐに来たかったんだけど……来れなくて」


 来れない理由を言いよどむ南海さんには追及せず、ナミはエコバックの口を大きく開けて南海さんに向ける。

「これ、お供え?」

「うん、お稲荷さんなら、油揚げかな、って」

 そう言うと、南海さんはエコバッグから油揚げの5枚入りパックを取り出して、袋のままお稲荷さんにお供えする。

「袋、開けなくていいの?」

「うん。持ち帰るから。お供え、そのままにしちゃいけないんだって」

「ああ。カラスの問題か」

「それもあるけど、神様の前に悪くなった食べ物を置きっぱなしはいけないって。お供えしたあと、今度はいただいて帰るの」

 当たり前のように神様への礼法を語る南海さんを、ナミはちょっとまぶしいものを見るように目を細めた。

 いつの間にか、静かにお稲荷さんに手を合わせてうつむいていた南海さんの横顔は、とってもきれいで。


 ナミの亡き母、美晴さんの実家も神社の流れを汲む家柄で、大伯父さんは現職の神職だけど、年末年始の挨拶に行くくらいなので、そこまで詳しい話を聞いたことがない。

 長兄のハルは、亡きひいおばあさまに可愛がられていたので実家にもよく遊びに行っていたみたいだが、ナミが産まれる前に亡くなってしまったので、写真でしか知らない。

 お詣りする南海さんを、じっとみているのが恥ずかしくて、帰ったらハルに聞いてみようかな、なんて意識を反らす。

 それから、ナミも南海さんに倣って、手を合わせた。


「ナミくん、何かお願いしたの?」

 目を閉じて、熱心にお詣りしていたナミが顔を上げると、南海さんがちょっとからかうような笑顔で尋ねた。

「うん。南海ちゃんを守って下さってありがとうございますって。あと、これからもどうか見守って下さいって」


 これからは、自分も南海さんを守りたいので、よろしくお願いします、というのは、口にしないで。


「そうなんだ、ありがとう。一緒にお礼をしてくれて。……お掃除も、手伝ってもらえる?」

「うん、もちろん」


 エコバッグには、水の入ったペットボトルの他に、ビニール袋に包まれたこま切れのスポンジと大きなゴミ袋が入っていた。

「お母さんに言ったら、ペンキなら普通に擦っても落ちないかも知れないって」

 油揚げを回収し、周囲を掃き浄めると、使い捨てのメラミンスポンジに水をかけて絞る。そして、お稲荷さんにも水をかけて擦り始める。

 まだ新しい落書きは、なかなか落ちないが、少しだけ薄くなった。

 周りがぼやけているので、ペンキではなく、スプレー塗料だと思う。

「これ、いいな。今度買おうかな。シンクに良さそう」

 落書きは完全に落ちないが、周囲の汚れはかなりマシになった。よく汚れが落ちる、と宣伝されていてナミも気になっていたが、なるほどな効果である。

「余ったの、あげるよ。……あんまり擦ってもいけないから、このくらいかな」

 お稲荷さん全体は水をかけたこともあって、キラキラしている。古い石像なので、確かに力を入れすぎると壊れてしまうそうで怖い。

 まだ背の低いナミや南海さんでも充分に手が届く小さな石像のお稲荷さんは、何となく微笑んでいる感じがした。

 

「よかった。お稲荷さん、きれいになって」

 南海さんは柔らかく微笑んで、そういった後、ナミを見つめた。

「ありがとう。ナミくん。本当に」

「お掃除くらい、いつでも手伝うよ」

「うん。あと、……ずっと、ありがとう」

 微笑みながら、南海さんの目から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。

「ずっと、あの事故から、ずっと、守ってくれていて。何にも訊かないで、そばにいてくれて。本当に、嬉しかったの……」

「僕はただ、……南海ちゃんに元のように笑ってもらいたかっただけだから。南海ちゃんの、笑顔が見たかっただけ、だから。それに、何て言っていいか、よく分かんなくて」

「うん、でも、何にも言わず、そばにいてくれたことが、嬉しかったの。……何かを言われたり、訊かれることが、……苦しかったの」

「……」

 ポロポロと溢れてくる涙に戸惑って、ナミは黙ってポケットからハンカチを取り出して、南海さんの頬っぺたをぬぐった。

 そのハンカチを南海さんに手渡す。

 ありがとう、と小さく呟いて、南海さんは自分で涙をぬぐう。

「みんなが、本当に心配してくれていることは分かっていたし、興味津々なのも、分かるの。私だって、誰かが同じ目にあったって聞いたら、話を聞きたいって思うだろうし。でも、……思い出すのも、苦しくて。もしかしたら、死んじゃっていたのかも、もうみんなと、……ナミくんと会えなくなっていたのかもって。怖くて、怖くて」

「うん」

「それに、もしかしたら、この道を通っていたことが、いけないことしたから、あんな目にあったのかもって。そう思ったら、お稲荷さんにも怒られそうで、お礼にも来れなくて」

「学校帰りに、ひとりでここを通ったのは、いけないことだと思うよ。でも、それはお稲荷さんのばちなんかじゃないと思うよ」

「うん、神様は、罰なんて当てないもん。でも、私の行いが、わざわいを呼び込んだのかも、って」

「あのね、あの事故は、南海ちゃんのせいじゃ、まったく無いからね。あの場面に出くわしたのは、南海ちゃんのせいじゃないから。タイミングが悪ければ、僕だったのかもしれない。他のクラスメートだったのかもしれない。でも、誰のせいでもないよ。強いて言うなら、エンジンをかけっぱなしにしておいた大人のせい。ほんのちょっとの時間だから、エアコンを切るのが暑くて嫌だからって、安全を怠った結果で。これは、故意じゃないにしても、危機管理がなっていないけどね」

「……おこた……危機……って、ナミくん、難しい言葉知ってるね」

 小難しい言葉を並べてもっともらしく語るナミが可笑しくて、南海さんの涙は引っ込み、フフフ、と笑いだした。


「この間、大兄……ハル兄ちゃんが、独り言言いながらレポート書いていたから覚えちゃった。……あのさ、神様って、罰当てないの?」

 泣きながらも言い切っていた南海さんの言葉が気になって、ナミは尋ねた。

「うん。神様は、特定の人にお恵みも与えないし、罰も当てないって。そんな余裕、ないから」

「ないの?」

「ひいおばあちゃんが言ってた。そうじゃなくても、この道を通る人や住んでる人、みんなを守らないといけないんだよ? それだけでものすごい大変なんだって。それでも全ての人を守り切れなくて、でも、神様も一生懸命で。だから、人は神様が少しでもそれに集中できるように、その心を煩わすことがないように、日々を穏やかに、人や自分に誠実に、心を込めて生きることが大切なんだって。そうすると、神様は嬉しくて、その嬉しい気持ちがほんの少し、お恵みになって降り注ぐんだって」

「そうなんだ……」


 南海さんのひいおばあちゃんの教えは、ちょっと変わっていると思ったけれど、こうやって聞くと、何となく納得できた。結局、その人本人がきちんと生きていないで、困った時だけ神様に助けてもらうなんて出来ない相談ってことなんだな、と。


「だから罰も、当てないの?」

「うん。でも、人間が悪いことをして、心が荒んでいくと、神様は悲しいんだって。そうすると、神様の力が弱って、その隙から禍が入り込むんだって」


 なるほど、だからさっき、『いけないことをしたから、禍を呼び込んだ』って言っていたのか。

 南海さんの言葉の意味に得心がいって、それから、ナミは真面目な顔を南海さんに向け。


「今回は守ってもらえたけど、今度はそうとは限らないからね。神様に負担をかけないように、もうここに1人で来ちゃダメだよ」

「え?」

「昼間でも、こんな人目につかないところ、学校帰りじゃなくても1人で通っちゃダメだよ。お詣りは、僕が一緒にするから」

「……うん。分かった」


 泣いて赤くなった目元が隠れるほど、顔を赤らめた南海さんを見て、何となく自分も顔を赤くするナミ。


 それから、ゴミ袋と、その他諸々を手分けして持ち、その場を後にしようとし。


 何となく気になって、ナミは道を振り返った。


 南海さんときれいに浄めたお稲荷さんは、ともかく。


 道端も建物も、以前よりも、どこか荒んでいて。


 以前、と言ってもかなり前のことだし、記憶も曖昧だけど。


 ナミには、瑛比古さんやハルのような不可思議な力はない。

 けれど、感じる、嫌な空気。


 浄めたお稲荷さんを遠巻きに、じわじわ近付いてくるような、薄暗さ。


 空は青く、陽光が煌めいているのに。

 

 何となく寒気がして、ナミは無言で南海さんの手を握ると、足早に表通りに向かった。

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