28.幸せ

「シエルがお兄様に言ってたことだけど……」


 帰り道、茜色に染まっていく風景に目をやりながらイレーナは目の前に座るシエルに話しかけた。


「どれのことですか」

「図太くないと、愛する人は守れないって言葉」

「あ、すみません。失礼でしたか?」

「ううん。違うの。本当に、そうだなって思って」


 今まで守るとは、ずっと身体を張って相手を危険から遠ざけることだと思っていた。もちろんそれも間違いではないだろう。


 でもそれだけじゃなくて、声に出して自分の考えを述べたり、力ある人間に手を貸してもらえるよう言葉で説得することも含まれるのだ。そこに遠慮とか、みっともないとか、外聞を気にしていたら守れるものも守れない。


「力のない人間は特にそうだなと思ったの」


 イレーナやマリアンヌのような女性は男性に頼らざるを得ないのが現実だ。不遇な状況下でも相手に逆らわず、流されるままだったら悲惨な末路が待っているだけだ。


「行き過ぎはよくありませんけどね」

「ええ。難しい所ね……」


 でも、と思う。


「あの子を守るためには、強くならなくちゃ」


 そんなイレーナをじっと見つめるシエルの視線に、以前もこんなことがあったなと思い出す。あの時の彼には婚約者がいて、イレーナはその人だけを愛して欲しいと彼に頼んだ。その男が今は――


「私はイレーナ様に頼まれれば、どんなことでもしますよ」

「ほんとう?」

「はい」


 なら……とイレーナは先ほどからずっと思っていたことを口にする。


「これからは敬語ではなく、普通に話してちょうだい」

「え」

「あと名前も様づけではなく、イレーナと呼び捨てで。あなたはこれから私の夫になるのだから」


 ね? とイレーナが微笑むと、シエルの顔はたちまち赤くなった。それを隠すように手を当てるのも、またいい。


「ふふ……」

「イレーナ様。揶揄うのはよして下さい」

「ほら。言ったそばから」


 やり直し、とイレーナは先生のように、けれど先生としてはあってはならない甘く優しい声でシエルを叱った。彼の耳はそれに呼応するかのように赤くなっていく。


「シエル。ほら」

「っ……卑怯です!」

「あら。また間違えましたね」


 いけない子、とイレーナがわざとらしく肩を竦めると、とうとうシエルにぐいっと腕を引っ張られ、彼の腕の中に閉じ込められてしまった。


 ――少し、揶揄いすぎたかしら。


 でもシエルの反応が可愛すぎるから悪いのだ。好きな子をいじめたくなる人間の気持ちがわかった気がする。なんてことを考えていると、ふっとイレーナの耳元に息が吹きかけられた。思わずぴくりと身体を揺らしてしまう。


「シエル?」

「――イレーナ」


 これまで自分のことを名前で呼ぶ人間はいた。家族はもちろん、夫であったダヴィドも。けれどシエルに呼ばれると、どうしてこんなにも特別に聴こえるのだろうか。


 頬が熱くなるのを感じながら、イレーナは努めて冷静に何かしらと返した。あくまでも自然に。恥ずかしがる必要なんてこれっぽっちもない。だってイレーナはシエルの妻だ。名前で呼ぶことくらい……


「イレーナ」


 もう一度、シエルは繰り返した。イレーナはまたもやびくっと震えた。背筋がぞくりとする。寒いのではなく、熱くて甘い痺れが駆けのぼってくる感じがした。


「イレーナ」

「も、もういいわ」


 離れようとするイレーナを引き寄せ、顔をこちらに向けさせるシエルに逆らうことはできなかった。空色の瞳がほんのすぐ近くで自分を見つめていた。


「どうして離れようとするんだい? あなたは私の奥さんだろう?」


 ――奥さん!


 何を当たり前のことを、と思うかもしれないが、愛する人に面と向かって言われてイレーナの心臓は嬉しさやら恥ずかしさやらで破裂しそうであった。


「イレーナ。私の妻。愛する人だ」


 妻の様子に夫はますます笑みを深め、甘い言葉を囁く。もうだめ、とイレーナはついに顔を覆った。


「あの、シエル。ごめんなさい。私が揶揄いすぎたわ」


 たしかにいきなり口調を変えるのは非常に危ない。これでは心臓がいくつあっても、足りない。


「少しずつ、少しずつにしましょう」

「ではイレーナ、と呼ぶのは許して下さいますか?」


 こくこくと頷く。だから早く、この近すぎる距離をどうにかして欲しい。すでに口づけまでしておきながら、イレーナはシエルとの甘い空気に耐えられなかった。


「イレーナ」


 ――まだ続けるの!?


 これ以上は無理だ! とイレーナが耐え切れず目を瞑ると、くすくすと笑う声がした。恐る恐る目を開けると、シエルが必死に笑いをかみ殺していた。


「シエル!」

「す、すみません。あまりにもイレーナが可愛いもので……」


 もう、とイレーナは怒ったものの、すぐにまあいいかとシエルに身を預けた。肩口に顔を埋め、シエルがそばにいるんだということを感じる。


「イレーナ?」

「シエル。私、嬉しい……」


 こんなふうに気軽に言いあえるなんて、彼を好きだと自覚した時には夢にも思わなかった。ダヴィドの妻である限り、シエルへの想いはずっと秘めておかなければならないものだった。けれど今は、その必要もない。


「シエル。私、あなたが好き」


 ずっとずっと言いたかったことをようやく伝えられる。顔を上げたイレーナは泣きそうで、シエルもまたくしゃりと顔を歪ませた。


「もっと、言って下さい」

「好き」

「もっと」

「大好き」


 もっと伝えたかったけれど、シエルがイレーナの口を塞いでしまったので、それ以上言うことはできなかった。


 行動は言葉よりもずっと素直だ。彼の好きだという気持ちがイレーナの心を満たしていき、きっとこれを幸せというのだろうと思った。


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