17.糾弾

「しばらくは来なくていいと言ったはずだが?」

「はい。ですが伯爵にお話がありまして」

「私は特にない」


 そう言って彼の後を通り過ぎようとしたが、存外強い力で腕を掴まれた。


「どうか少しの時間でいいのです。私の話を聞いて下さい」


 立場が下というのにずいぶん強気な態度だ。ダヴィドは腹立たしくもあったが、彼の有無を言わせぬ視線に何も言えなかった。


「……場所を変える」


 ついて来いと腕を払って先を行くと、シエルも礼を言ってついてきた。長い廊下を歩く間、二人は一言も話さなった。沈黙が、ダヴィドの心を重くする。一体彼は何を言い出すのか。ある程度、予想はつく。そしてそのことを考えると、さらに気分が悪くなった。


 それでも、今やどこにも自分の逃げ場はなかった。


「――イレーナ様とマリアンヌ様をどうなさるおつもりですか」


 書斎に案内するなり、シエルはそう切り出した。彼がイレーナの名を出すことについては予想通りであったが、マリアンヌのことまで触れるとは思わなかった。


 書き物をする机の椅子にダヴィドは座り、シエルは来客用の長椅子に腰を下ろしていた。見上げるようにして物申す青年の顔を、伯爵はじっと見つめた。


「ダヴィド様」


 何も言わぬ自分に、シエルは答えるよう名を呼んだ。彼の目はどこまでも透き通っており、汚れない正しさがあった。まるで自分の罪を咎められているようで、ダヴィドは息苦しさを感じる。彼から視線を逃れるように机の書類へ目をやった。


「どうもしないさ。彼女は私の妻だ。今は嫌がっているが、いずれは子を産んでもらう」

「ではマリアンヌ様とは別れて下さい」


 まるであらかじめ答えを用意していたかのようにシエルはきっぱりと言った。彼の答えにダヴィドは瞠目し、動揺する。


「マリアンヌと別れる?」

「そうです。彼女をこの敷地内から追い出し、どこか遠い地で暮らしてもらうのです」

「だが子どもは……」

「もちろんノエル様も一緒にです」


 当たり前じゃないかというシエルの言い草。ダヴィドはそれはあまりにも可哀想ではないかとマリアンヌに同情した。


「酷いという顔をしていますね。ですが伯爵は、今やマリアンヌ様を疎ましく思っているように見えます」


 そう。疎ましかった。彼女さえいなければイレーナを愛せるのにと、つい今しがた思っていたことだった。だからシエルの指摘は正しい。彼の言う通りにすればいい。だが――


「何も……遠い地にやらずともいいではないか。彼女には、私しかいないのだぞ」


 マリアンヌに頼れる親類はいない。彼女はすべてを捨てて、自分を選んでくれたのだ。それなのにこの敷地内から追い出し、いきなり一人で生きろと命じるのは、あまりにも酷だ。


 今は憎く思えても、かつてはすべてを投げ打ってまで一緒になりたいと思った相手。切っても切り捨てられぬ情が残っていた。


「それにマリアンヌとノエルを追い出せば、今度こそ私はイレーナに嫌われてしまうさ」


 だからできないとダヴィドはお道化るように笑った。けれどシエルはその笑いにつられてはくれなかった。


「ではイレーナ様と離縁して下さい」

「なんだと?」


 マリアンヌと別れるのが無理だと言えば、今度はイレーナと離縁しろだと? ダヴィドにはシエルの考えていることがさっぱり理解できなかった。そんなダヴィドの内心を見透かしたようにシエルは微笑む。


「ダヴィド様。私はそんなにおかしなことを言っているのでしょうか? マリアンヌ様とイレーナ様のお二人を手元に置き、二人が苦しみ続けても、それを知らぬ顔のまま過ごすという今のあなたさまの状況の方が、よっぽどおかしなことではないのですか」


 ――ああ。この青年は怒っているのだ。マリアンヌもイレーナのどちらも手放そうとしない自分に。一人を選べと図々しくも意見しているのだ。


 決して目を逸らさぬ青年の眼差しに、ダヴィドは腹の底からふつふつとした苛立ちがこみ上げてくる。


「……きみはずいぶんと偉くなったみたいだな」


 シエルと知り合ったのは、彼の父親が手を出した事業で失敗したことが原因だった。もともと生粋の貴族である。彼らを唆した成り上がりの商売人とはわけが違う。上手くいくはずがなかった。増えていくばかりの借金と失われていく人脈にシエルの家は没落寸前であった。


 そんな中、ダヴィドが資金の援助と優秀なコンサルタントを紹介したのは、彼が若い頃シエルの父親によくしてもらったからだった。シエルの一家はダヴィドに感謝し、事業はなんとか破産せずに済んだ。それから見直しと改善を繰り返し、ダヴィドもまた深く関わるようになっていった。今ではダヴィドがその経営の一端を担っていると言っても過言ではない。


 ――ダヴィド。本当にきみのおかげだ。


 シエルの家は、子爵は、ダヴィドに深く感謝した。もしダヴィドが困っていたら、必ず力になることを約束してくれた。


「きみは本当にできた子だった。まだ若いのに自ら私の仕事を手伝いたいと申し出てくれて、一生懸命私の言うことを聞いてくれた」


 それなのに今さら歯向かうというのか。今までの恩を仇で返すというのか。


「イレーナを愛するがあまり、自分の立場を忘れたのか?」

「ダヴィド様」


 ダヴィドの言葉を遮るように、シエルが名を呼んだ。それもまた、伯爵の癇に障った。


「ああ、図星だったか。なにせ途中からイレーナに本気で惚れた……」


 だが今度はダヴィドが自分の言葉を途切れさせた。


 シエルは事実を指摘されても、狼狽えたりしなかった。脅すように家のことをけし掛けても、怯むことはなかった。ただ悲しげな目でダヴィドを見ていた。その憐れみとも言える態度がダヴィドの頬をかっと熱くさせた。


「なんだその表情はっ……!」

「あなたは変わった」


 そこで初めてシエルの視線がダヴィドから逸れた。彼はじっとテーブルの木目を見るようにして語り始めた。


「……私はダヴィド様のことを尊敬しておりました。窮地であった我が家を救い、幼かった私のことも何かと気にかけて下さった。私があなたの仕事を手伝いたいと申し出た時も、嫌な顔一つせず、未熟な私に指南して下さった」


 在りし日を思い出すかのように彼の口調は静かであった。ダヴィドもまた、その日々を思い出す。そう。ダヴィドにとっても、尊敬の眼差しで自分を慕うシエルの存在は心地よいものだった。


「血は繋がっていませんが、もう一人の兄のように私はあなたのことを慕っていました。愛情深く、決して間違いなどしない人だろうと。だからこそ……イレーナ様との仲も、いつかよくなるだろうと信じていました」


 ですが、とダヴィドを見上げる目は厳しかった。


「あなたはイレーナ様を傷つけた。そしてこれからも、傷つけようとしている」


 許せないと、青年は訴えていた。


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