14.拒絶

 ダヴィドはそれからもイレーナのもとへ現れ、イレーナをかき抱いた。そして荒々しい仕草で口づけするのだ。彼の唇が自分のと重なるたび、イレーナの心は軋んだ。そのまま粉々に砕け散ってしまいそうであった。それでもまだ何とか自分を保っていられたのは、ダヴィドと最後まで体を繋げていないからであった。


 ダヴィドとしては今すぐにでもイレーナを抱いてしまいたいのだろうが、いつもすぐにマリアンヌのからの呼び出しがかかり、子どものこともあってかダヴィドは彼女のもとへ行かざるを得ないのであった。


「マリアンヌは変わった」


 名残惜しそうにイレーナの耳元で伯爵が囁く。


「母になって気性が荒くなった。私のなすことに一々文句を言う」


 ため息交じりの、嘆き。


「以前は子どものように無邪気だと思っていた性格も、今ではただの我儘に思える。礼儀もなっていない。貴女と大違いだ」

「……マリアンヌ様はあなたにもう一度振り向いて欲しいのです。優しい言葉をかけて、慰めて欲しいのです」


 子を産んだばかりで、気が立っているのだろう。不安なのだろう。誰かに寄り添って欲しいのだ。その誰かはダヴィドでなければならないのだ。


 それを、ダヴィドは理解できていない。理解しようとしていない。女の苛立ちを、すべて自分への嫌悪だと思っている。


 イレーナはもどかしかった。彼女が必死に伝えようとすればするほど、ダヴィドはイレーナを優しい、マリアンヌとはまるで違うと褒め称え、ますます執着を示す。


「ああ、イレーナ。私はなぜあのような女を好きになったのだろう。初めから貴女だけを好きになればよかったのに」


 ――私は、間違っていたのだろうか。


 どんなに自分の選択に後悔はないと言い聞かせても、イレーナの心はぐらついた。


 ダヴィドとマリアンヌ。完成した関係に、自分が入り込むべきではなかった。


 ――けれど私はダヴィド様の妻でもある。


 もしマリアンヌがダヴィドの寵愛を受け続ければ、イレーナの立場は一気に危うくなり、屋敷から追い出される可能性すらあった。今まで貴族の令嬢として籠の鳥のような暮らしをしてきたイレーナには、外の世界で生きる術を知らない。修道院でその身を神に捧げるか、あるいは娼婦として生きるか。そこまでして、自分はダヴィドから逃げねばならないのか。


 ――いっそお兄様のもとへ行くか。


 できない、とすぐにその考えを打ち消す。兄もまた大変な状況に置かれているのに、イレーナが問題を持ち込むことはできなかった。


 ――ああ、私はどうすればいいのだろう。


 いっそダヴィドの子を産めばいいのか。本来はそれがイレーナの役目だ。だがマリアンヌはどう思うだろう。今度こそ、取り返しのつかないことになるのではないか。


 ダヴィドとマリアンヌ、その子ども。


 それぞれの立場を思いやろうとすればするほど、思考の渦に巻き込まれ、出口が見えない。イレーナは苦しかった。正解など、どこにもありはしない気がした。


 悩みで夜も眠れず、酷い頭痛のためにイレーナは昼間から長椅子にぐったりと横になっていた。目を閉じて、このまま一生覚めなければいいのにと願い始めてもいた。


 ――イレーナ様。


「……シエル」


 彼に会いたかった。彼の穏やかな声が聞きたかった。


 けれど彼が会いに来ることはない。ダヴィドに禁じられているのかある日を境にぴたりと訪問が止んだ。寂しかった。苦しかった。だが一方で会えない状況に安堵する自分もいた。


 ダヴィドに口づけされた自分を知られたくなかった。シエルは婚約者と別れを告げてまで自分のそばにいてくれたのに自分はダヴィドの妻であり、夫に従うしかない。彼のきれいな想いを踏みにじったような気がしたのだ。シエルと顔を合わせる勇気はイレーナにはなかった。


「イレーナ。どうした?」


 億劫に目を開けると、夫が心配した眼差しでこちらを見ていた。


「どこか具合が悪いのか? 医者を呼ぶか?」

「……いいえ。横になっていたので、もう大丈夫ですわ」


 起き上がり、イレーナはダヴィドに微笑んだ。


「今日は何のお話をしましょう」


 ダヴィドはイレーナをしばらくじっと見ていたが、彼女が弱音を吐くつもりがないと悟ると、そっと彼女の隣に腰を下ろした。そのまま彼女のほっそりとした手首を掴み、自分の太腿へと置いた。


「シエルが貴女の身を案じていた」


 たった今まで考えていた人の名を出され、イレーナは内心動揺する。そんな彼女を見透かすようにダヴィドは視線を向けた。


「シエルは気のいい青年だ」

「はい」

「そして若くて、美しい」

「……」

「私は彼ならば、貴女も気に入ってくれるだろうと思っていた」


 イレーナはわずかに眉をひそませた。伯爵がマリアンヌと愛を交わすために、シエルをイレーナのもとへやった。それをいざ彼の口から説明されると言いようのない不快感がこみ上げてきた。


「何が言いたいのですか」

「そのことをとても後悔している」


 イレーナの身体が押し倒された。のしかかるようにして見下ろす伯爵に、かつてない恐ろしさを感じた。


「ダヴィド様。落ち着いて下さい……!」

「シエルには、もう抱かれたのか?」


 かっとイレーナの頬が熱くなった。シエルと男女の仲になったのかと疑われたこと、それを夫である伯爵に指摘されたのは恥ずかしくもあり、また自分とシエルの関係を汚されたようにも感じた。許せなかった。


「彼とは何もしていません」


 恐怖も忘れ、イレーナは毅然とした態度でダヴィドを睨み上げた。妻の視線に夫は一瞬目を見開くも、すぐにまた無表情になった。


「けれど特別には想っているだろう」

「それは……」


 ほらみろ、と言わんばかりにダヴィドが嘲笑した。それにひどく傷つく。同時に怒りもわく。


 ――どうして私ばかりが責められなければならないの。


 たしかにシエルのことは好ましく想っている。でも先に他の女を好いたのはダヴィドだ。しかも妻である自分に浮気をしろと促したのは他ならぬ彼自身だ。咎められる筋合いが一体どこにある。


 ――ああ、こうやって歪な関係が出来上がっていくのかもしれない。


 結婚してから、貴族が愛人を持つことは珍しくない。なぜならお互い愛し合って結ばれた仲ではないからだ。家の都合で、大半が意に沿わぬ結婚をする。もちろん例外もあるが、夫婦仲が最初から冷え切ったのも少なくはなかった。


 だから彼らにとって結婚は建前だ。結婚してから、自分の本当の好きな人を探す。恋をする。そして相手は愛人となる。その過程で子どもができるかもしれないし、その子はどれだけのおこぼれをもらえることができるかの争いに巻き込まれていく。


 そんなことをずっと貴族である自分たちは繰り返してきたのだ。


 ――なんて醜いんだろう……。


 それでもイレーナはそんな彼らを非難することはできなかった。自分もまたシエルを愛してしまったから。不実な関係を結ぶ彼らの気持ちが、そうなる心の弱さが痛いほどわかってしまったから。


「人を好きになることなど絶対にないと思っていた貴女があの青年に狂わされたかと思うと私は腸が煮えくり返るような思いだ」


 ダヴィドのぎらぎらした目がイレーナを射貫き、唇を奪った。イレーナが涙で身をよじろうと、身体も力も圧倒的な彼に敵うはずはなかった。今までにはなかった激しい愛撫。彼の手が、イレーナにはどうしようもなく汚らわしかった。


「っ……」


 伯爵が目を大きく見開き、イレーナから身を離した。唇を拭う手には血がついていた。それを見て、反射的にイレーナは謝っていた。


「ダヴィド様。どうか、どうか許して下さい……」


 謝るのはシエルへの想いを認めるようなものだった。けれどイレーナは、どうしても伯爵を受け入れる気にはなれなかった。


「私にとって、シエルは初めて自分の存在を認めてくれた人間なのです」

「どういうことだ」

「……私の兄は正式な妻の子ではありません」


 ダヴィドが息を呑む。イレーナは震える声で、自分の過去を語った。苦痛でもあったが、彼を納得させるにはもうこれしかない気がした。


「――私がマリアンヌ様とノエル様を大切にして欲しいと思ったのは、そういうわけがあったのです。どうか、どうかわかって下さい」


 そして二人を大切にして欲しい。


 涙を流して懇願するイレーナに、伯爵はただ混乱しているようであった。愛人であった女から妻へと愛情を変える。それは正しいことのはずだ。本来あるべき姿であったはず。それなのにイレーナは拒んでいる。夫であるダヴィドには理解し難いことであった。


「だが……だがきみは私の妻だっ……」


 ダヴィドは己の迷いを振り払うかのようにイレーナを引き寄せた。乱暴に顎を掴み、彼女に口づけしようとする。身体さえ繋げてしまえば――


「ダヴィドさま……」


 イレーナは懇願するように、夫を見つめた。その目は涙で濡れて、ダヴィドの行いに絶望していた。


「……くそっ」


 ダヴィドはイレーナを突き飛ばすようにして身を起こした。イレーナを見ないように背を向け、そのまま部屋を出て行こうとする。


「今日のところはこれで失礼する。だが貴女がどんなに嫌だと思っても、どんな過去があろうと、私の妻であることは変わらない」


 また来る、と彼は乱暴に扉を閉めていった。イレーナは呆然としたまま、それを見ていた。髪も衣服もひどく乱れていた。けれど自身の貞操は守ることができた。


 ――あなたはとても強い人です。


 シエルはたしかに今イレーナのそばにいない。けれど彼がイレーナに与えてくれた言葉は、何よりもイレーナを守ってくれた。自分で自分の身を守れた。そのことにイレーナは安心し、今さらのように恐怖で涙があふれたのだった。


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