第9話

 景色はしだいに夜へと変わっていく。

 少年武官は、その様子をじっと見つめていた。まもなく、陰陽師による儀式が始まる。表情は、明るいとは言い難い。しかし、それも無理はなかった。このところ、宮中に流れる空気は暗い。吸っていれば、誰もが暗い表情になるのは当然のことである。

「始まるな」

「はい」

 中将は、少年武官へ微笑みかけた。

「終われば、やっと安心できる」

「そう、ですね」

「お前も、恐ろしいのだろう? 顔を見ていれば分かる」

「いえ、そんなことは……」

「無理をする必要はない。恐ろしい時は、恐ろしいでいい」

 少年武官は、口を開くことなく頭を下げる。

「しかしあの陰陽師、顔は綺麗だが、どうにも鼻に付く性格をしておったな。なあ、そう思うだろう?」

「私は、遠くから見ただけですので」

「そうか。なら、話してみると分かるだろう。きっと、お前のような優しい人間とは合わん」

「そうでしょうか……」

 その時だった。

「きゃあああああ!」

 女の叫び声が、辺り一帯に響き渡った。少年武官は瞬時に立ち上がると、中将を置いてその声が聞こえた場所へと走り向かう。

 そこにいたのは、一人の女房だった。相良の君である。尻餅を付いた状態で、身体を震わせている。少年武官に気付くと、やっと振り向いた。声も出せない様子である。

「いったい、何が……」

 少年武官が呟いたところで、声を聞いた他の人間たちも集まって来る。その中には、陰陽師も混ざっていた。

「どうしたんですか?」

「まさか、また事件が」

 人々の表情は不安に満ちている。

 少年武官の手を借りた相良の君は、顔面蒼白な様子であったが、やがて意を決したように立ち上がった。

「鬼を見たのよ!」

 相模の君は、そう叫んだ。

「大きな身体で、鋭い牙を持っていたんです! あれが、女房たちを食ったのよ!」

 強い表情とは裏腹に、哀れな様子で身体は震えている。

 集まった人間たちの顔色が、さっと変わった。

「なんて恐ろしい」

「この近くに鬼がいるってこと?」

「はやく退治して!」

 この場にいる女房たちは恐怖で身体を縮み上がらせている。男たちも動揺した様子で、鬼を追おうなどと言い出す人間は、一人もいなかった。

 少年武官は相良の君の身体を支えるようにして、優しく声をかけている。その声に、相良の君は頷くばかりであった。顔を伏せ、手をぐっと握りしめている。

 ただ一人、緊迫した空気からほど遠い場所にいるのは、陰陽師である。眉間に皺を寄せ、口をへの字にして、首を傾げている。

「そんなはずありません。見間違いでは?」

 相良の君はすぐさま反論した。

「私、本当に見たんです!」

 陰陽師は鋭い視線で辺りを見渡すと、「何も感じませんがねえ」と面倒そうに言うばかりである。

「そこのお美しい方。落ち着いて、深呼吸でもされてはどうでしょう? ほら、よく思い出してみて下さい。見たのは、いったい何ですか? 髭面のおっさんじゃないですか? それか、酒臭いおっさん?」

「鬼です。私が見たのは、鬼なんです……」

 今にも泣き出しそうな声を出す相良の君に、同情が寄せられる。

「かわいそうに、あんなに震えて」

「疑うなんて」

「よほど恐ろしい思いをしたんだわ」

 ちくちくとした視線が、陰陽師へ突き刺さる。「いやでもなあ」と言いかけた陰陽師は、近くにいた武士に止められ、それ以降口を噤むことになった。

「相良の君は、早く休まれた方がいいだろうな」

「それでは私がお連れします」

 少年武官はそう名乗り出ると、相良の君へ肩を差し出す。相良の君は、少年武官の肩を借りながら、ゆっくりと歩いて行った。その後ろ姿を眺め、陰陽師は口を尖らせた。

「分かりました。とにかく、儀式を終わらせてしまいますから、皆さんどうぞ邪魔しないで下さい。終われば、鬼なんてさっさと出ていきますよ。本当に鬼を見たんだとして、まだ近くにいるのなら、さっさと出て行ってもらいたいでしょう? ほらほら、怖いのなら全員で固まってればいいんです。すぐに終わりますから」

 その場にいた人々は、陰陽師の言葉に頷く。女は女同士、男は男同士で固まって夜を過ごすようだ。陰陽師は頷いた。

「それがいいでしょう。まあ、本当に鬼が来れば、全員いっぺんに食べられちゃうかもしれませんが」

「陰陽師殿は、どうされるのですか……?」

 女房の一人が訊くと、陰陽師は「儀式をしますけど」と答える。

「私のことは、どうぞお構いなく」

 陰陽師は、儀式のために用意された部屋へ入り、ぴしゃりと襖を閉める。

 人々は固まって、長い長い時間、眠ることも出来ないまま過ごしていた。中で何が行われているのか、誰にも分からなかった。

 その後、襖が開けられたのは、すっかり夜が明けた頃だった。

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