風聞
生物学者のマリアン・ルーザリアは、フォーレナという小さな村で知り合ったベルカ・ベリザルトンという、元ブロブハンターの女性を伴ってある町に来ていた。
まるで軍用車のような大型の四輪駆動のワゴンを走らせながら、ベルカがマリアンに話しかける。
「ここね。その変なブロブがいる森のある町ってのは」
「噂ではそういうことになってるわね」
「で、今回の仕事は、その噂が本当かどうかっていうのを確かめるってことでいいの?」
「うん。その噂が本当ならもっと詳しく調べたいところだけど、ガセっていう可能性も高いからね」
とマリアンが言うとおり、ブロブについては様々な風説が流されていた。人間を始めとしたいろいろな動物の姿に化けられるだの、空を飛んで人間を攫っていっただの、中にはビームを放って村を一つ焼き払ったという荒唐無稽なものまであった。
マリアンは、その噂話の一つ一つを丁寧に検証していたのだ。
だが、噂話を調べるほどに、それが本当に噂話に過ぎないのかどうか分からないものもあった。
その一つが、『人間を始めとしたいろいろな動物の姿に化けられる』というものだ。
マリアン自身はまだそれを自分で現認したことがないので事実だと断定はできないものの、ブロブが蓄えている遺伝情報をブロブ自身が再現しようと思えばできてしまうだけの能力を有してることは、解剖学的にも既に確認されていることである。ブロブの体組織は、それほどの能力を秘めているということだ。そしてこの噂話は目撃例も多い。単純にデマやガセだと決めつけることも現時点ではできなかった。
なので、『空を飛んで人間を攫っていった』というものについても、空を飛ぶ何らかの生物の形を再現すれば、幼児くらいなら攫うことだって不可能ではないかもしれない。
ただし、『ビームを放って村を一つ焼き払った』というものについてはさすがに有り得ないと結論付けることしかできないだろう。そういう器官を形成するだけの能力までは持っていないことが分かっている。そもそも、村一つが焼き払われたなどという事実が存在しない。入植が始まってまだ十年。開拓や開発については全てが把握されている。勝手にそれを行うことはできないのだ。
という訳で、その噂話については明確に否定されている。
ところで今回の件については、従来のブロブでは考えられないほどに狡猾かつ常識外れな攻撃でブロブハンターを翻弄する個体がいるらしいとの噂だった。この程度のなら十分に有り得る話だとマリアンは考えていた。何しろ彼女は、ブロブは人間が思っている以上に高い知能を持っているという説を取っているのだから。
そして以前、それを裏付けるような経験をしたことがある。ブロブの生態を調査する為にいつものようにフィールドワークを行っていた彼女は、倒れた木が朽ちて固い皮の部分だけが残ったところに土が薄くかぶさって自然の落とし穴のようになったクレバスに落ち、まったく身動きが取れずに命の危険すらあった時に、クレバスの中に潜んでいたブロブによって救われたことがあったのだ。
現在ではブロブは人間を襲う危険な害獣とされているし、入植当初には実際に開拓団の一つが全滅するほどの事態が起こったのも事実だが、それはもう過去の話になっている可能性が高いことを、マリアンは自らの経験で確信した。
その時に遭遇したブロブはクレバスに落ちて身動きが取れなくなっていたマリアンを押し上げた後ですぐにどこかに身を隠してしまったので詳しい調査はできず仕舞いだったのだが、自分が襲われなかったことに加え危機的状況を救ってくれたことが偶然であるとはとても言えないと、生物学者として確認していたのだった。
ならば今回のブロブにしても、実在する可能性は十分にある。ハンターを追い払う程に積極的に関わってくれるのなら、場合によってはある種のコミュニケーションだって可能かもしれない。ハンターを追い返すのは、相手がハンターだからと考えるのが自然だ。こちらに危害を加える意図がないことを伝えられれば、平和的に接触できる可能性は十分にある筈なのだ。
そのことを思い、とても三十二歳とは思えない幼い外見をしたマリアンは、ふんすふんすと鼻息を荒くして興奮を隠せない様子だった。
と、そんなマリアンを横目に見ながら、町を覆う塀の外側に沿ってベルカがワゴンを走らせ、森へとやってきた。それは、見るからにブロブが生息している可能性が高そうな森だった。鳥が多数住み、動体センサーを向けるだけでも動物が活動しているのが分かる。つまりはブロブの餌が豊富にあるということでもある。これで生息していないと考える方が無理があるというものだ。
「うん、今は大丈夫みたい」
ベルカがふんふんと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。彼女は、ブロブの匂いに対して敏感だという才能が有り、それを活かしてブロブハンターをしていたのだった。とは言え、好きでやっていた訳ではないので、今はフォーレナという村で畑仕事をするのが本業となっていたが。それでも、こうやってマリアンの護衛兼助手として調査に同行することもある。今回はフォーレナから自動車で十分に来られる距離ということでベルカが一緒なのだった。
ここは、開拓団二千人が全滅したという事件があったというウォレド市からは千キロほど離れているが、最大の被害が出たそこに次いで大きな被害が出た開拓団が担当していた地域からは三百キロほどの距離にある、標高千メートルほどの山岳地帯の中の町だった。
ここでも開発当初はブロブの被害が相次いだものの、もう六年ほど、町の住人には人的な被害は出ていない。その間のこの森での被害は全て、ブロブハンターか駆除業者であった。
にも拘らず、人間の手による殺人事件が何度かあったりもした。五年前には、こことはまた別の町で連続殺人を行ったらしい容疑者が現れ、女性一人が殺害され、当時五歳だった少女も一人、行方不明になっている。その少女のものと思しき大量の血痕が発見されており、その少女も犠牲になったものと思われていた。
ただ、不可解なことに、その少女の血痕が発見された現場では、容疑者自身も首の骨をはじめとして全身に何か所もの骨折の痕がある状態で死亡していたのが発見されたのだが、容疑者の首にブロブの体組織の一部が付着していたことから、少女を殺害しようとしたところに偶然ブロブが現れ、容疑者を殺害した上で少女を捕食したのだろうと推測されていた。
「さて、と、じゃあ行きますか」
ワゴンの荷台から大きなバッグを取り出し、そして胸のホルスターに拳銃を挿したベルカが声を発すると、マリアンは待ちきれないといった感じで森へと歩き出す。その後を、ベルカが木の幹に目印になる塗料を吹き付けながら続いた。簡単には消えないが、水溶性かつ紫外線によって分解される性質も持ち、雨に打たれたり日に晒され続ければ一ヶ月ほどで消える無害な塗料である。
するとベルカの目に、同じ塗料が吹き付けられた木がいくつか捉えられた。ハンターや駆除業者、ブロブに攫われた人間を捜索する為の捜索隊が使うものなので、そういう者達が割と最近にも何度も入ったということが分かる。
しかもその塗料の一つに、あまり目立たない茶系のものが混じっているのが分かった。それに気付いたベルカが不快そうに顔を歪める。
『まさか……あいつも来てたってこと…?』
ベルカの頭によぎった<あいつ>とは、同じブロブハンターなのだがどうにも好きになれない下衆い印象のある男で、そいつが好んで使うのが茶系の塗料なのだった。自分の存在を目立たなくしようとしてそういうのを使っているらしい。他のハンターを囮に使ったり、他のハンターが弱らせたものの連れ帰ることができなかったものを回収したり、大量発生したブロブを他のハンターに始末させて残ったのを拾っていったりと、とにかくやり方が小狡いのだ。だからハンター仲間からも嫌われているのだが、当人はどこ吹く風といった態度だった。しかも本当は腕もたつというのがまた憎らしい。
しかし、それを今、思い出してムカついていたところで意味がない。頭を振って追い払いつつ、ベルカはマリアンの姿を注視した。彼女は優秀な生物学者だがどうにも一つのことに集中すると周囲が見えなくなる傾向にあるらしく、見た目そのままに子供のように危なっかしいところがあったのだった。故に、そういう部分をフォローするのも彼女の役目だった。
と言ってる傍から木の根に蹴躓いて転びそうになる。それに手を伸ばして背負っているリュックを掴んで支える。
「ありがと」
とは言ってくれるのだが、果たして反省しているのかどうか。さりとて、この集中力が学者という仕事には必要なのかもしれないとベルカも半ば諦めていた。
一時間ほど歩くと、マリアンの様子が変わるのをベルカは感じ、周囲に意識を向けた。マリアンが気付いたことにベルカも気付く。
「グレネードが使われた痕だね」
木の枝が折れ、幹の表面に細かい傷が付いているのが分かった。それをナイフの先でこじると、中から細かい金属片が出てくる。間違いない、グレネードの破片だ。しかも一本の木に、黒いシミのようなものが見える。
「血痕だわ」
マリアンが呟いた通り、ベルカの目にも血痕に見えた。結構な量の出血だと感じた。
「ブロブに襲われた……っていうのじゃないよね……」
ベルカがそう言ったのは、ブロブは基本的に獲物を自らの体内に取り込んでそのまま消化する為、出血させることはまずない。それにこの状況から推察するに、グレネードの爆発に巻き込まれて怪我を負った何者かがいたと考えるのが自然だろう。
血痕が付いた木の皮を削り取り、それをマリアンが小さな機械に入れた。その画面に表示されたものを見て、固い声で言う。
「間違いない。人間の血だわ。しかもまだ数日しか経ってない。何があったのか知らないけど、よくこれで事件にならなかったものね…」
いずれにせよ少々厄介なことが起こっていたことは間違いないだろう。これほどの痕跡を残しながら事件化しなかったというのなら、それこそ事件にしたくなかったのだろうし。
そこからは、さすがのマリアンも緊張した面持ちで更に先に進むことになった。相手がブロブだけでなく人間が絡んでくる可能性があるとなると、浮かれてもいられないからだ。
また一時間ほど歩いたところで、今度はベルカが足を止めた。
「いる……ブロブが近い」
鼻を上げて周囲の匂いを窺う仕草を見せる彼女に、マリアンも頷いた。
「あなたが分かるくらいに近付いているのにブロブの方から反応がないところを見ると、どうやら敵対する意思はないみたいね。ハンター達はことごとく追い払われたっていうことらしいけど。でもまあ、その方が私には都合がいいわ」
いくら鼻が利くと言っても、ベルカが察知できる範囲はせいぜい数十メートルだ。それに対してブロブの方は数百メートル離れていても人間を察知できるとみられている。それで何の動きもないのだから、少なくとも攻撃の意思はない筈だ。
それでも念の為ということで、ベルカが肩に下げていたバッグの中身を取り出す。グレネードマシンガンだった。それを吊るすストラップを肩に掛け、右手には麻酔弾を装填した拳銃を構え、先を進むマリアンの後を警戒しながらついていった。マリアンの指示である。自分を囮にして後の先を取るという形だった。ただの生物学者でしかない筈のマリアンだが、危険な野生の生物を相手にフィールドワークを続けるくらいに覚悟は完了しているのだ。
いっそう慎重に歩を進めて、匂いが流れてくる方向に向かう。するとすぐに、洞窟があることに気付いた。匂いはどうやらそこからくるようだ。
「やっぱり動きが見られないわね。もしかして弱ってる…?」
ブロブの寿命は三年ほど。分裂によって更新されていくが、古い個体はそのまま動かずにやがて死を迎えることが多いことも分かっている。
敢えてマリアンが先に立ち、ベルカが警戒する。そっと洞窟を覗き込んだ時、マリアンが「あっ!」っと声を上げた。それに反応したベルカが拳銃を向ける。しかしマリアンはそれを制した。
「ダメ! 人間よ!! 子供がいるわ!!」
その言葉に、ベルカはさらに険しい顔になった。「子供!?」と思わず声を上げる。
だがそんな二人の前に現れた小さな人影は、縋るように声を上げた。五歳か六歳くらいと思しき男の子だった。
「お願い、ヌラッカを助けて…!」
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