語られる過去の傷と思い遣り 2

「小学生のある日を境にしてから、中学に入るまでの早苗はとても無気力でね。あんなに元気に飛び跳ねていたのに、ピタリと静かになり、家に籠ることか多くなったんだ」


 そう切り出された瞬間に、梶さんが告白してくれたあの夏の日を思い出した。彼女が一輝と出会った日の遠い記憶。


 岸田君の事故があった夜。僕を必死に鼓舞した梶さんだけれど、一輝のことがあってから同じように殻に閉じこもってしまったのだろうか。彼女が落ち込んでいる姿は上手く想像ができなくて、僕はお兄さんの話を他人事みたいに聞いていた。


「僕は外に出るよりも家にいることが好きだったから、そんな早苗のそばにいることが多くなった。ただ、元気がなくなった早苗にどんな言葉をかけたらいいのか少しもわからなくてね。とにかく自分が興味を持っているものをどんどん勧めたんだ。入学祝に買ってもらった図鑑の全集を毎日一緒に見て、綺麗な花や不思議な虫について話したこともあるし。毎月一冊ずつ買って貰っていた絵本を、読み聞かせたこともあった。父に頼んで大きな図書館に行ったこともあったし、切手の博物館や郷土資料館にも行ったな。とにかく早苗が何かしらに興味を持って、以前のように明るく笑い、話をしてくれないかと必死だったよ。そのうちにポーランドで働いている叔母が、休みを利用して遊びに来ないかと声をかけてくれてね。海外に行くなんて思ってもみないことに、僕たちはとても不安になったし、両親から離れて遠く知らない地へ行くことが怖かったな。けれど、行ってしまえばとても楽しくてね。不安や恐怖を覚えていたことなんて、あっという間に忘れてしまったよ。見たことのない景色や、聞いたことのない言葉。馴染みのないクラシック音楽に口にしたことのない食べ物。それは、僕たち兄妹を一瞬で虜にしたんだ。僕も早苗も、ポーランドという国に一気に魅了された」


 お兄さんは世間話をするように、のんびりと昔話を語る。


 今の話から、あの夏の日を境に梶さんが落ち込んでしまったのだろうということは理解できた。お兄さんが梶さんを元気づけようとしていた努力も知った。でも、あの日彼女に何があったのか。どんな気持ちで僕の手を握り、慰めてくれたのかまでは聞いていないだろう。彼女のことを理解できるのは、あの日の出来事を共有し、涙を見せあった僕たちだけなんだ。どんなに血の繋がりがあって、お兄さんが梶さんのことを考え思っていたとしても、あの日抱えた言葉にできない感情を理解し合うことはできない。僕と梶さんの中に、入ってくることなんてできない。お兄さんが話す梶さんの過去は、正に過去の出来事でしかなくて。実際に一輝と過ごした梶さんと僕の気持ちなど、お兄さんにはわかるはずがない。


 梶さんが落ち込んでいた過去の出来事を穏やかな表情のまま話すお兄さんの言葉は、身内だからこその気遣いはあっても、それ以上踏み込むことのできない領域があることを知らない。そこには滑稽さがあると、僕は勝手に心の距離をおいていた。


 それよりも、兎に角梶さんを見つけ出し、彼女が日本を離れてしまう前にどうしても会って話したくて、少しずつ焦りと苛立ちが募っていた。


 僕の心境など知る由もないお兄さんは、淡々と話しを続ける。


「物静かになってしまった早苗が、ポーランドを訪れてからまた少しずつ快活になっていったんだ。日本に戻ってから図書館に行き、絵画展や写真展を観に行くこともあったけれど、それ以上に外に出て体を動かすことを好み始めた。一緒に居られる時間は減ったけれど、僕はとてもほっとしたよ。いつも元気に笑っていた早苗が、少しずつ戻って来てくれたことに、ほっとしていたんだ」


 梶さんの行方を知りたい僕は、お兄さんの話を聞きながらも視界に入る通りに視線を向けていた。もしかしたら、雑貨屋に顔を出しにくるかもしれない。このSAKURAにだってやってくるかもしれない。話半分のように昔語りを聞きながら、通りを気にしつつチラチラと自分の腕時計の時刻に視線をやっていた。


 こんな風にしている間にも、彼女はポーランドへ発つ準備をしているかもしれない。もしかしたら隣の部屋はすでに空っぽで、彼女自身も空港に向かっている途中なのかもしれない。そう考えると居てもたってもいられず、焦りばかりが募った。その焦りが膨れ上がり、昔話に付き合いきれないと思った時だった。


「あの夏のこと。僕も知っているよ」


 かけられた言葉に、心臓が大きく鼓動を打った。思いがけずドアを勢いよく開けられた時のように、驚き過ぎて時間が止まったようだった。


 完全に油断していた。突然の告白に、一瞬で嫌な汗が噴き出てくる。あの日のことを知っているのは、僕と梶さんと。そして、梶さんのお祖母ちゃんだけだと思っていた。理由もわからず殻に閉じこもってしまった梶さんが、立ち直るまでの昔話を聞かされているだけだと思い込んでいた。


 さっきまで穏やかに話していたお兄さんが、今どんな顔をして僕のことを見ているのか知ることが怖くて、腕時計に向けたままの視線を戻すことができない。梶さんが引きこもるようになった原因が、僕に関係があると責めている気がして顔を上げられない。


 お前のせいだ! 今にもそう罵声を浴びせられるんじゃないかと、僕はビクビクとしていた。あんなに誰も僕を責めずに辛いなんて零していながら、突然突き付けられた現実に、僕の心は震えあがっていた。誰も僕を責めなかったあの夏。僕自身が自分を責め、罪悪感に涙さえ流さなかったあの夏の出来事を、目の前のお兄さんも知っていた。


 ジワジワと追いつめられるような感覚が、僕を窮屈な狭い部屋へと閉じ込めようとする。今からでも遅くない。その身をもって責任をとれ! そう言われている気がして血の気が引いていく。


「君に会ったと聞いた時。僕は正直、とても動揺したよ」


 再び口を開いたお兄さんの声に、体がビクリと反応した。この世の終わりがきたように、逃げられない現実を突きつけられるのだと生きた心地がしない。呼吸がうまくできなくなりそうな中、お兄さんの話を黙って聞くしかできない。


「祖母から聞いていたあの夏の出来事をまた目の前に突きつけられて、すっかり消えたと思っていた傷からまた血を流してしまうんじゃないかって。あの頃の引きこもるように静かになってしまった早苗の姿が頭を過った僕は、すぐにでもポーランドから駆け付けようとしたくらいだ。けれど、早苗にも止められたし、理由をよく知らない叔母にも止められたよ。過保護すぎるって」


 お兄さんは息を小さく吐くようにして口元をほんの少し歪める。うまく視線を合わせられない僕の体は、凍えるような恐怖にカタカタと震えていた。


「早苗は根が真面目だから、とても周りに気を遣うんだ」


 一呼吸置くように一旦言葉を止めると、お兄さんは僕の名前を優しく呟いた。


「樹君」


 呟いた声は悲しげで、寂しそうで。さっきまで感じていた恐怖をやわらげた。僕は、ゆっくりと視線を上げる。


「君もきっと、そうなんだろうね」


 まるで自分があの時のあの場所にいたかのような、とてもつらそうな表情が僕のことを見ていた。


「再び君に会えたことで、早苗はまた変わったよ。周囲を気にかけるだけじゃなくて、ちゃんと自分のことにも気を遣い、優しくできるようになった。生傷になるどころか、骨折した箇所が強くなるみたいに、もっと前向きになったし。自分のことを好きになったみたいなんだ。自分を好きになり優しくできるっていうのは、とても大切なことだと思うんだよ。厳しくし過ぎているのを見ていると、いつかポキッと折れてしまうんじゃないかって、見ているこっちの方が辛くなってしまうからね」


 お兄さんは、とても穏やかな表情で僕を見ていた。そして、切なげだけれど、温かみのある優しい顔で言った。


「君も。ずっと肩に力を入れて、頑張って生きてきたんだね」


 瞬間、自分でも驚いたくらいに大きな涙が一粒零れ落ちた。テーブルを濡らした雫に慌てた僕は、近くにあった紙ナプキンを引き抜き、ゴシゴシとこする。何度も何度もこすり、そこに消せない汚れが付着したようにこすり続けた。


「君も、もういいんじゃないかな」


 かけられた言葉は、僕の中に長年絡み続け居座っていた呪縛を、丁寧に解いていくようだった。


「もう、いいんだよ」


 僕の涙は再びテーブルを濡らしたけれど、そのままでいいというように、お兄さんは僕に向かって優しく頷いた。


 こんな風に元気づけるよう諭されてしまうなんて思いもしなかった。僕の涙は、この兄妹に操られてでもいるみたいだ。


 子供みたいに袖口で涙を拭う僕を急かせるでもなく。お兄さんは、僕の気持ちが落ち着くまで、穏やかな空気を纏わせ待ってくれている。涙を止めようとすればするほど、次々とあふれてくる涙は、まるであの日に我慢してきた感情をここぞとばかりに流しているみたいだった。


 漸く気持ちが落ち着いてきた頃を見計らい、お兄さんはニコリと笑みを浮かべる。女性なら、一撃で恋に落ちてしまいそうな微笑みだ。


「長々と引き留めて悪かったね。早苗のことを探していたんだよね」


 訊ねられて、ゆるゆると頷いた。


「僕は、また日本に住むことになってね。今日早苗には、新しい部屋に必要な日用品を頼んであるんだ。多分、今頃は金物屋の健さんのところにいるんじゃないかな」

「えっ、健さんのところですか」


 ここへ来る途中声をかけられたあの時、店内には梶さんがいたということか。灯台下暗しじゃないか。


 驚きながらも慌てた僕が財布を取り出していると止められた。


「急いでるんだろ? 話しを聞いてくれたお礼に奢るよ」

「え、いや、でも」


 戸惑う僕に頷きを返すお兄さんに、恐縮ながら頭を下げた。


「あの日の早苗のことを知っている人がいて、よかった。樹君、ありがとう」


 ありがとうなんて、言われるのはおかしな話だ。けれど、お兄さんは僕の目を真っすぐ見たあと、この町に来てくれてありがとうと口にした。


 僕は深く深く頭を下げて、SAKURAをあとにした。


 SAKURAでひと休憩とったとはいえ、こうもずっと走り続けることなどないせいで、公園を抜けた頃にはすっかり息が上がっていた。健さんのところにいることは解っていても、焦る気持ちを止められず、とにかく足を前へ前へと繰り出し急ぐ。


 ゼイゼイと呼吸をし、健さんの店がある角を曲がったところでスピードを緩めた。呼吸の苦しさで胸に手をやりながら、いつもどおりの店構えをしている店内に入っていく。


「おっ。樹。急ぎの用事は済んだのか?」


 訊ねる健さんの後方に梶さんの姿を見つけ、コクコクと頷きを返しながらそちらへ向かった。


 自分の横を通り過ぎて梶さんのもとへ向かった僕を、健さんが視線で追ってくる。


「かっ、梶さん」

「あ。深沢樹」


 何故フルネームなんだという突っ込みよりも、眉間にシワも寄せず、普通に対応してくれたことの方に安堵した。


「あのっ。幸代さんに訊いてっ。僕――――」

「――――ストップ!」


 みなまで言い終わる前に、梶さんは右掌を思い切りこちらに向けて僕の言葉を遮った。


「健さん。これ、あとで取りにくるんで、預かっててよ」

「おう。いいよ。なんなら、優斗のところに届けても構わねぇし」

「そうしてもらえると助かる」


 勝手知ったる我が家というように、僕と健さんの会話よりも。梶さんと健さんの会話の方がずっとフランクで、長年の付き合いがあるんだと改めて感じた。


「じゃあ。よろしく」


 支払いを済ませた梶さんと共に健さんの店を出る。彼女は、さっき僕がきた道を再び辿りSAKURAへと導いた。


 Uzdrowionyの店先に居たお兄さんが、僕に向かって笑みを向けるからぺこりと頭を下げる。SAKURAのカウベルが鳴った。


「あら、いらっしゃい。今度は、早苗ちゃん?」


 櫻子さんの言葉に僕は苦笑いをし、彼女は小首をかしげた。しかも、梶さんが選んで座った席は、さっきお兄さんと話したテーブルと同じだから、ドッキリにでもかけられているんじゃないかと思えたほどだ。


「コーヒー二つ」


 お兄さんと違うのは、僕にメニューを勧めるどころか注文を自動的にされてしまうところで、梶さんらしいと口元が緩む。


「幸代さんから聞いたって。私がポーランドへ行くこと?」


 レモン水とおしぼりしがテーブルに届かないうちに、梶さんはさっさと話しを始める。前置きの長かったお兄さんとは本当に真逆だ。


「うん。お兄さんが戻って、店をやることや。代わりに、梶さんがポーランドへ行くことを聞いて、焦ってしまって」

「どうして君が焦るのよ」


 僕の想いなど知る由もない梶さんは、クスッと笑い届いたレモン水を口にした。そこへ、香り立つコーヒーが運ばれてくる。


「さっきのとは違う種類の豆にしたから」


 櫻子さんが気を利かせて一言添えると、梶さんが僕を見る。


「さっきって。今日ここに来るの二度目?」


 少しばかり目を丸くして訊ねた梶さんに頷くと、早く言ってよねと笑ってしまっている。


「ここのコーヒーは美味しいから。何度でも歓迎だよ」

「ありがとう。これサービス」


 櫻子さんは、テーブルに手作りのクッキーを置いていく。


「ここのアイスボックスクッキーも美味しいよ。レジ横に置いてあるから、気に入ったら買っていってよ。あ、ほら。あの彼にも勧めてみたら」

「結城?」

「そうそう。女の子受けするって言ったら、たくさん買ってくれそうじゃない」


 笑みを浮かべたあと、梶さんはクッキーを一つ摘まんで口に入れた。サクサクとしたいい音が聞こえてきて、僕も一つ戴く。


「うん。美味い」

「でしょ」


 まるで自分が作ったかのように自慢げな顔をする梶さんは、子供みたいで可愛らしい。


「で、さっきの話だけれど。幸代さんから聞いたとおりよ。兄が戻ってきて店を続けて、今度は私がポーランドに行く」


 淡々と告げられたことに、心臓がズキンと痛んだ。ドラキュラじゃないけれど、胸に太い杭でも刺されたみたいな鈍く重い痛みだ。


「叔母がね、私にももっとポーランドのことを知ってもらいたいし。たくさんのことを経験させたいって言ってくれてね。輸入雑貨の仕事を手伝いながら、勉強しに行こうと思って」


 もう決まったことだというように、さっぱりとした表情で語る梶さんに、ポーランド行きを覆す気など全くないことが分かった。


「どのくらい?」

「期間は、未定。気が済むまでって感じかな。兄も好きなだけ行ってくればいいって言ってるし。いつになるかわからないけれど、戻ったら戻ったで一緒にUzdrowionyを切り盛りするか、一人でやっていくか」


 行くこと自体は決定していても、いつ戻るのかも、戻ってからのことも明確に決めていないようだ。


「いつ発つの?」

「年明けを予定してる」


 年明けって、もう二ヶ月もないじゃないか。


 この町に住んでいる限り、梶さんの顔を見られなくなることなどないと考えていた。少しずつでも関係を近づけて、いつか彼女の一番近くに居られる存在になりたいと思っていた。僕が残念と言われるのは、こういうところなのだろう。自分ではなかなか行動せず、時間に任せていればどうにかなるだろうと他人事のように構えてしまう。けれど、そんな悠長なことを言ってる場合じゃなくなってしまった。自分の望む形があるのなら、何かアクションを起こさなければ、今あるものが変わることなんてないのだ。


「あのっ」


 自分の中で膨らんでいった感情のまま声を出したら、思いの外大きく店内に響き。目の前の梶さんだけじゃなく。櫻子さんも、近くに座っていた他のお客さんも、一瞬僕の方を注目した。


 以前の僕ならヘコヘコと頭を下げて、すみませんという態度を取り、背を丸め、口を閉ざしていたことだろう。だけど、それがダメなんだ。残念と言われてしまう所以なんだ。僕は残念な自分を振り払う。


「ポーランドへ行くまでの間。僕と会ってくれませんか。梶さんの時間を、僕に下さいっ」


 きっぱりと言い切ると、彼女はコーヒーカップを手にしたまま固まってしまった。


 空気が止まった。シンという音がしそうなくらいで、静かに流れていた音楽だけがこの空間を占めていた。


 数秒ののち、梶さんはゆっくりとコーヒーを一口飲み、静かにカップをテーブルに戻す。そして、僕の顔を見たまま応えた。


「行くまでの間、お店の手伝いは続けるのよ」


 そう切り出されて、ああ断られるんだと胸のうちで覚悟を決める。引っ越しの準備もあるだろうし。ウダウダとした情けない僕につきあっている暇などないのだろう。


 断られると思っても尚、未練がましい期待が心の隅に残っていて。祈るように彼女を見てしまう。


「仕事が終わるのが、毎日夜の九時過ぎ。休みは毎週水曜と隔週火曜。その空いている時間でいいなら」

「……え」


 言葉の意味を理解するのに手間取っていたら、イタズラに片方の口角を上げた梶さんが口を開いた。


「不満?」


 真顔で訊ねられて、僕は首が飛んで行くんじゃないかというほどに、ビュンビュンと横に降る。レジ横にいた櫻子さんが、口元に手をやり微笑みながら傍に来た。


「じゃあ。お互いの連絡先を交換しなくちゃね」


 僕にというよりも、梶さんに対して促すような笑みを向け、なんとなく不満な顔をしながらも彼女はスマホを取り出した。


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