思わぬ収穫 1

 マシロがいなくなってから三日経ち、週が明けた。僕は、幾度となく繰り返しケージを見ては、干し草だけの中身に肩を落としていた。


 破れた網戸は、健さんのところを訪ねた翌日に、早速張り直してもらえた。食いちぎられた網戸の様子と、部屋の隅に置かれた空っぽのケージを見た健さんが、慰めるように僕の肩をタンタンと叩く。


「また、何かあったらいつでも言えよ」


 修理道具を片手にした健さんは、キッチンに置いてあるピーファルの鍋とフライパンを見て満足そうな顔をしてから帰っていった。


 実家よりもずっと狭い部屋は、自分以外の気配がないととても広く思えて寂しさが膨れ上がっていく。翌日もテンションの上がらないまま、ゆるゆると会社へ行く準備をした。


 真新しいスーツに真新しい革靴。中学や高校に上がるとき、父親に買ってもらった制服を思い出す。硬い鎧か何かでも着たように体になじまず、何度も窮屈な首元に手をやっていた。本当だったら、同じ制服を一輝も着るはずだったんだと思うと、買ってくれた父の目を見ることができなかった。


 必要だろうと、このスーツも父が買ってくれた。就職活動のために揃えたリクルートスーツに加えてもう一着。革靴を一足。ネクタイは二本。ワイシャツを三枚。それにビジネスバッグ。ネクタイは、買ったもの以外に父が持っていた若者が着けても違和感のないものを三本ほど貰った。


「給料が入ったら少しずつ返すよ」


 若者向けのスーツショップでぼそりと零す僕に、父は気にするなと笑っていた。


 母は、どうしているだろう。祖母の田舎に行ってしまってから、僕は母と話すことがなかった。父は時々様子を窺うために電話をしているようだけれど、母が電話口に出ることは少ない。多分、無理をさせないために祖母が代わりに近況を説明してくれているのだろう。僕はその説明を父から聞くくらいだけれど、母の心が回復している気配はないように思えた。もしもあの時、一輝ではなく僕があの大きな木に登っていたら、あんなことにはならなかっただろうし。仮に僕が足を滑らせていたとしても、やんちゃだった僕なら、それほどひどい怪我にもならずに済んだ気がする。


 何かちょっと嫌なことや落ち込むことがあるたびに、僕はあの日の出来事を思い出し、たらればばかりを考え後悔の渦に飲み込まれていた。どんなに後悔したところで、現実が変わることはないというのに、どうしても考えずにはいられなかった。どれほど後悔し続けたら、この暗い暗幕のような世界から出られるのか解らないけれど、僕は尽きることなく薄暗い殻の中に閉じこもってしまう。


 エントランスから数歩出た先で東の方角を眺め、大きく息を吸い吐き出した。そうしながら、ネクタイの締まる首元に手をやり、少しだけ引っ張り窮屈さを緩和する。今ある全ての感情から逃れたくてする行為のようだった。


 マンションから駅までの短い距離を歩く。僕の胸のうちに広がる暗い色とは対照的に、空は無駄に青く快晴だった。眩しすぎる太陽の光を浴びている自分は異物のようで、真っ暗な場所へと逃げ込みたくなる。


 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。


 あの夏。心の中で謝罪の言葉を繰り返すことしかできなかった僕は、今になっても尚、何度も何度も謝り続けている。口にも出せない謝罪の言葉に、何の意味があるのか。言葉で伝えられない思いを抱えながら、僕は今も家族の目を真っすぐに見ることができない。家族に責められるかも知れないと思うと、怖くてたまらなくて。僕は目を逸らし続けていた。




「おはようございます」


 フロアに入って挨拶をしながら自席に向かうと、既に結城が来ていた。

 飲み潰れた歓迎会あとの週明け。先輩たちの目を盗みながら、僕たちはこそこそというように顔を突き合わせる。


「おっす。歓迎会のあとって、どうだったよ」


 結城は苦笑いのように顔を歪めながら小さな声で僕に訊ねると、途中で買ってきたであろう栄養補助食品のゼリーを勢い良く吸った。


 どうよ。と問われた飲み会後のことについて散々だった僕は、マシロが失踪したこともあり言葉を濁した。ゼリーのパックを握りつぶすようにして飲み切った結城は「暫く酒は飲みたくないよな」と先輩たちに聞こえないように囁いた。僕同様、結城も散々だったのかもしれない。


 僕たち新入社員は、目まぐるしい毎日を過ごしていた。今のところ、新入社員同士が組んで仕事をすることはなく。出社して直ぐ、バラバラに行動している。それぞれが初めてのことに対応するのに必死で、歓迎会のことについて長々と触れる時間もない。


「深沢。行くぞ」


 椅子に座ったかと思ったら、同じ営業一課の新田先輩から声がかかった。入社したばかりの僕たちは、少しの間先輩営業マンに同行し、仕事のノウハウを覚えることになっている。


 僕が大学を卒業し就職した会社は、某文房具メーカーだ。子供向けの物から大人向けのものまで扱い、自社工場を持っている割と大手のメーカーだ。本当はデザインの仕事をしたかったけれど、配属されたのは営業一課だった。思っていた部署ではないし。自分が人と関わり、自社商品を売り込むことができるのか、どう考えても不安しかない。自分から行動を起こしたり、中心になって物事を進めたりといったことが苦手な僕は、所謂コミュ障というやつなのだろう。できれば相手から話しかけて欲しいし、何も言わなくても誘ってくれたらいいなと他力本願な思考が先走る。そんな自分が営業に不向きなのは明らかで肩を落としたものの、好きな文具に関わる仕事なのだからと自分を慰めた。


 僕のいる営業一課は、大人向けの文房具を担当している。営業二課というのもあって、そちらでは子供向けのものを扱っていた。


 そう言えば、営業二課には面白い女性社員たちがいると聞いた。数字の7と9を似たように書くとんでもない子や(そのおかげで先輩が大変な目にあったらしい)。同期の男性と張り合うほどやたらと仕事のできる女性は、その割に普段はどこか抜けていて楽しい人らしい。それから結婚間近で破談になった女性もいるらしいけれど、流石にそれは笑えない。顔すら知らない相手だけれど、大丈夫なのだろうかとこちらが心配になってしまう。なんにしてもバラエティにとんだ人たちがいる営業二課の方が楽しそうに思えるのは、隣の芝生というものだろうか。


 さっき僕を呼んだ新田先輩は、僕の教育係だ。営業のモットーは、ハキハキとした受け答えと笑顔だと、体育会系のノリで豪快に言うのが癖のような人物だ。


「結城。またあとでな」


 出社するや否や外回りに連れ出される僕に対して、結城は担当の先輩と共にデザイン課と打ち合わせらしい。教育係に付く先輩によって、仕事の進め方が違うのは当然だけれど、僕も早くデザイン関係のことを知りたい。


 デザイン課のフロアはガラス張りの個室になっていて、働いている人たちはみんなスタイリッシュだ。スーツや革靴。ビジネスバッグやヘアスタイル。使っているノートブックに至るまで、どれも個性的でカッコイイ。フロアの傍を通るたびに、ああ、この部署がよかったとしみじみ思う。


 デザイン課のスタイリッシュさとは程遠い営業は、兎に角あちこち動き回る。新田先輩に連れられた僕は、ほぼ一日中得意先回りをしていた。新田先輩の声はやたらと大きくて、路上で話しかけられるとビクッとするほどだ。ついでに言えば、すれ違う人たちも驚いてこちらに視線を向けることもある。


「深沢は、笑顔が足りないんだ。もっとこう無駄に口角を上げてだな、ハキハキと言葉を口にしろ」


 新田先輩はスタスタと営業先に向かいながら、普段から暗い雰囲気の僕に対して明るさを求める。わかっているけれど、性格というものはそうすぐに変えられるものではない。


 それよりも、あちこち歩き過ぎて革靴が鉛のようにずっしりと足にくる。靴底に重りが仕込まれているんじゃないだろうか。踵がすり減ってしまうのは解っても、長い時間歩き続けているとうまく足が上がらず、つい引き摺るような歩みになっていった。


 昼飯は新田先輩に連れられて、途中の立ち食い蕎麦屋でたぬき蕎麦をかき込んだ。奢って貰えたのは嬉しいけど、昼飯の時くらい椅子に座りたかったとは言えず。食べながら営業に関する説明などをされとにかく相槌を打っていた。内心では、足が辛すぎてそれどころではなかったのだろけれど。得意先回り以外には、工場に向かって生産ラインを確認し、工場長と打ち合わせをする新田先輩の横で、支給されたタブレットにひたすらメモを取っていた。


 その後、まだ廻るところがあるという新田先輩から、先に社へ戻り上がるよう指示されほっとする。新田先輩に付き合って、この後も各社を廻ることになっていたら、疲れすぎてゾンビのようになっていたかもしれない。営業はきついだろうと漠然と考えてはいたけれど、こんなに辛いとは思わなかった。それでも、いつかはこの辛さにも慣れていくのだろう。


 すぐそばにあった命を目の前で見捨てたというのに、僕はこの程度の疲れにさえ頭の中で愚痴を漏らしてばかりいた。


 ズリズリと革靴を引きずるようにして歩き、やっぱりデザイン課に行きたかったと溜息を吐きながら社のフロアに入る。自席に戻ったが隣に結城の姿はなかった。まだ営業廻りが続いているのだろうか。


 パソコンを立ち上げてメールの確認をしていると、結城からスマホにLINEが入った。


「俺、このまま直帰なんだ。どっかで落ち合って飯食わねぇか?」


 スマホの上部にある時刻を確認すると、すでに定時を過ぎていた。帰ってから晩飯のことを考えるのも億劫だったから丁度いい。


「了解」


 場所と時間を決めて、僕は自社をあとにした。




 サラリーマンが集う居酒屋のテーブル席で向かい合い、ジョッキのビールを前にため息を吐きつつ結城が項垂れた。


「やっぱ、商社を受けるべきだったかなー」


 つい今朝方、酒はしばらくいいと言っていたばかりなのに、結城はビールに喉を鳴らしてうまそうに顔を歪めている。僕と同じように学習能力のない結城を前に頬が緩んだ。


 晩飯も兼ねた居酒屋のテーブルには、ポテサラやメンチカツに唐揚げと。安くても腹に溜まるものが並んでいた。新卒の給料なんてたかが知れているのだ。

 結城とは別の大学だったけれど、先日の飲み会でやたらと馬が合い、席も隣同士になったせいもあって話すようになっていた。


「つーか。うちの部署、女の子少ないよな」


 結城は、不満そうに唇を尖らせる。


「営業二課は、多いみたいだよ」

「そうか。子供向けの方か。失敗したな、そっちに希望を出すべきだった」


 女の子が大好きな結城は、くっそう、なんて半ば本気で悔しがっている。明るくて話の上手い結城のことだから、女性に苦労したことはないように思えるけれど、どうやら今は彼女募集中のようだ。


「そもそも、俺。特に文房具が好きなわけでもないしな」


 ポテサラを摘まみ飲み込むと、結城は小さく息を吐く。どうやら、女の子の話から商社の話に戻ったようだ。


「けど、英語はあまり得意じゃないんだろ?」


 結城は歓迎会の席で、英語がペラペラだったら、人生違っただろうなぁ、と愚痴をこぼしていた。


「そうっ。そこなんだよっ」


 目の前の俺に指を突き付けて、結城はまた項垂れる。


「日常会話くらいなら問題ないけど、ビジネス英語となると訳が違うからな。深沢は、希望の会社だもんなぁ。羨ましいよ」

「まぁ、僕も希望はデザイン課だったから、微妙だけどね」


 パンパンになっているふくらはぎや、足の裏の痛みに苦笑いがもれる。

 僕と同じように、就職を機に結城も一人暮らしを始めていた。同じ沿線で僕の住む最寄り駅より二つほど先らしい。


「なんつーかさ。同じバリバリ働くんでも、商社の方がカッコいいじゃん」

「見た目かよ」


 クツクツと笑う僕を見て、給料だって段違いだと結城は再び唇を尖らせた。


 確かに、商社の方が給料は遥かに上だろう。ただ、あまり忙しすぎるのは僕の性に合わない。メーカーの営業でさえ足を棒のようにしているのに、商社なんかで働いたら体が持たない気がする。


 昔は運動が得意だった。一日中駆けずり回って遊んだって、体力はあり余っていたし、かけっこも速かった。グラウンドにある鉄棒やのぼり棒なんかの遊具は、まるで体の一部みたいにどんなことでもできた。けれどあの日を境に、僕は活動的な子供ではなくなった。外で遊ぶよりも、家にいることの方が増えて。身体を動かすよりも、本を読んでいることの方が多くなった。すっかり落ち込んでしまった母の様子をビクビクと窺っては、一輝が好きだった本を手にするために図書館で一人静かに過ごすことを選んでいた。そして、気がつけば「俺」と言っていたはずの名詞は、一輝と同じ「僕」に変わっていた。


 泣いてばかりいる母のために、僕はずっと心の中で自分が一輝になれたらと思っていた。代わりになんてなれないとわかっていても、そうすることしか僕にはできなかったんだ。同じ顔を持つ双子の僕が、いなくなってしまった一輝の代わりをすれば、母だっていつかは元気になる。そう思っていたし、そう信じたかった。けれど、母は未だに心を病んだままで、一緒に暮らすことさえ叶っていない。ずっと祖母のいる田舎の家に引っ込んだまま、あの日から時間を止めて生きている。父だって僕の前では笑ってくれているけれど、深夜に悲しげな表情で酒を飲んでいる姿を幾度となく見てきた。全て、あの日僕が一輝を助けられなかったせいで壊れてしまったんだ。全部、僕のせいなんだ。マシロが行方不明になってしまったのだって、こんなどうしようもない人間の傍にいることが嫌になったのかもしれない。


「なぁ。うさぎって、どのくらいの生命力があるんだろう」


 マシロがいなくなって、三日経つ。あんなに小さな生き物が、外で長く生きられるかなんて、少し考えればわかることだった。それをわざわざ訊ねたのは、ほんの少しでもいいから希望が欲しかったからだ。いくら僕のそばにいることが嫌になったとしても、せめて生きていて欲しい。これ以上、命が消えるのは辛すぎる。都合の良すぎる考えだけれど、そう願わずにはいられない。


「は? なんだよ、急に。動物学者にでも転向しようってのか?」


 酔ってきた結城は、僕に希望なんて与えることもなく、質問を笑い飛ばしてジョッキを傾けた。


 動物学者なら、もっとちゃんと面倒を見ただろうし。酔ってケージのドアなんて開けっ放しになどしなかっただろう。


 都会の空の下、小動物がいつまでも元気でいるとは考えにくい。けれど、最悪の事態はできるだけ想像したくない。最悪な事態は、もう、たくさんだ。

 いつかひょっこりと帰ってこないだろうかと、能天気な考えを無理やり引っ張り出し思ってさえいた。


 希望を見いだせないまま、ジョッキのビールを二杯ずつと、テーブルにあった食べ物をすべて完食しお開きとなった。始まって間もない社会人生活に対し、結城は既に嫌気がさしているのか「明日も仕事かよっ」と愚痴っている。そんな結城の肩を叩きながら駅前で別れ、僕は自宅マンションへ向かった。


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