「第5章 話すべきか話さないべきか」(3-2)
(3-2)
ザァーと、容赦のない雨が降り、窓に当たってパチパチと音がした。その代わりに昨日まで聴こえていた夏の虫の鳴き声がしなかった。
変化していく空気の流れを手でかき分けるように直哉は右手を前に出す。
「口で話すよりもこの方が早いと思うんだ」
差し出された彼の右手。二人の間で幾度となく行われてきたやり取りで手を繋ぐのは容易だ。しかし美結は、差し出された右手に自身の手を伸ばさなかった。
「ゴメン。今、私結構手汗かいてるから。佐伯くんに悪いや」
「分かった」
今まで一度も美結に拒否などされた事がなかった。初めての拒否を経て、直哉は考えていた疑問を確信へと変える。今は繋げない事が判明して、美結は止めていた動作を再開するように、靴を履き替えた。履き替えながら、こちらを見ずに提案してきた。
「ありがとう。でも私は全然、口で話してくれていいよ?」
「そう? 俺も口で話すのは問題ないんだけど、なら場所を変えない?」
「場所を変える? どこがいい?」
「今日はもう金曜日だし、グリーンドアは?」
グリーンドアなら美結も来てくれるだろう。そう考えての提案だったが、予想に反して美結は首を左右に振った。
「ゴメン……。今日は難しい。この後、お母さんと会う約束をしてるの」
「あ〜、そうなんだ」
美結に言われて司の顔が思い浮かぶ。おそらく美結は、直哉があれから二人で会った事実を知らない。なので、彼は最初に会った彼女のイメージを保ちながら、話を続けた。
「それなら明日は?」
「明日なら大丈夫」
再度の直哉の提案に美結が頷いて了承してくれた。この後の方向性が決まったので二人はやっと動き始める。傘立てに刺してあった各々の傘を取った。
バサッと傘が開く音がして、二人は校舎の外へ。窓に当たっていた雨音が傘に当たるポツポツという音へと変わった。裏門を出る時に直哉は口を開く。
「ゴメンね。今日話すって約束したのに。俺のワガママで」
「大丈夫。なんせ、金曜日まで待ってたからね。今更、一日ぐらい延びてもなんて事ないよ」
「そう言ってもらえると、正直助かる」
二人の前方に四人の集団が歩いているのが見えたが、雨音と広がった傘のおかげでプライバシーが守られていた。
「あーあ。明日は晴れてくれると良いんだけど」
「明日は晴れると思うよ。今朝のニュースでやってたから」
「本当? やった」
直哉がそう話すと、たったそれだけの事で美結の顔が明るくなった。
二人はその後も雨の中を歩いて最寄り駅まで到着した。最寄駅の床のタイルは、アスファルトと違って雨を吸い込めないので、雨水が薄く膜を張っていて滑りやすくなっていた。人に当たらないように傘を軽く振ってから、改札を抜ける。
ホームには傘を持った人で溢れていた。雨だけではなく傘のせいで、地下鉄のホームが湿気てる感覚があった。二人とも、特に会話らしい会話をせずiPhoneを触ったりしている。でも隣には並んでいた。心良い距離感を保っている。
やがて、ホームに地下鉄が到着した。他の乗客と一緒に乗り込む直哉。今日は混雑していたので、隣に座る事はなく、互いに空いているシートに腰を下ろした。
対面上に美結の姿は見えていたが、次々と人が乗るようになって、次第に彼女の姿は隠れて見えなくなった。
直哉は通学カバンから文庫本を取り出した。雨で濡れてしまわないように注意してページを開く。願い事の件が一時的に保留にはなったが、進んでいるので本のページも進める事が出来た。
一斉にホームに降りる乗客の隙間から美結の様子を窺ったが、彼女はiPhoneを触ってこちらを見ていなかった。一度そう確認したら、後はいつもの通勤時と同じように直哉は地下鉄の時間を過ごした。
次の駅が乗換駅に到着するアナウンスが車内に響く。直哉は文庫本を片付けて、傘を持って立ち上がる。彼が立ち上がると、前を立っていたサラリーマンが席に座った。もう直哉の席はなくなった。
立ち上がって視界が上がり、再度で美結の様子を見ると、彼女も立ち上がるところだった。十五分ぶりに彼女に近付く。
降りようとドア前に並ぶ乗客の列に並んでいると、直哉の隣に来た美結が口を開く。
「また明日。グリーンドアで」
「ああ、うん」
「時間は十三時ぐらいでいい?」
「いいよ。そのぐらいの時間に行くから」
「分かった」
地下鉄が乗換駅に到着して、ドアが開いた。二人は他の乗客と同じくホームへと降りる。ホームに降りると、改札までは方向は同じなのに美結は、直哉の前を歩く。この後、司と会うと言っていたので関係しているのだろう。
人流に乗って少しずつ離れていく美結の背中に直哉は、問いかける。
まだ、伸ばした手が届く範囲にいる内に。
「本当は“心読み”治ってないんでしょ?」
直哉が投げた言葉は美結の背中に当たった。だが、それに彼女は何も反応する事はなかった。振り返る事も立ち止まる事も一切しない。周囲の人間と変わらないようにスタスタと歩き、手が届かない範囲まで遠ざかった。
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