2017.12.6 糸と神権と蓄音機械②






 俺のような人間は、自分の気持ちをしょっちゅう忘れる。



 自分が実際何を思っていたのか、何を考えていたのか——本当はどんな言葉を書き留めたかったのか。

 そんなことに比べたら、周りの平和や他人の幸福の方が、よほど重要で。だから、言いたかった言葉を即座に引っ込めて、笑顔を作り、時には何てことのないジョークまで飛ばす。そうしているうちに、気づけば、本当の気持ちを忘れている。「そんなにすぐには忘れないだろう」と言う人もいるかもしれないが、意外とあっさり忘れてしまえるものなのだ。人というのは。嘘だと思うなら、実際にやってみたらいい。何年も何年も、他人の顔色ばかり窺って、心にもないことを言い続けているうちに、いつしか忘れるまでもなく、最初から何も思わなくなる。


 人はそれを、優しさだという。


 それが思いやりというものであり、実に人らしい、素晴らしい機構なのだという。


 だから俺も、少なからずなんだと思って生きてきた。自分はそれなりに心優しい、人間味のある男なんだろうと。でも違う。そんなわけがなかった。それは自分が一番よくわかっていたはずなのに、どうして気づかなかったのだろう。忘れていたのだろう。


 いや……きっと、だけ。なんだろうな。






 ……館へは、タクシーを使った。


 まあタクシーの人は、一時避難のつもりでホテルの駐車場に停めていただけなのだろうけど、俺が財布から溢れんばかりの万札(数日前に黒いカードで引き落としておいた残り)を出して見せると、訝りつつも車を出してくれた。

「あそこは火に近いから、立ち入れないと思うよ? 消防車もいるだろうし」

 ため息混じりに首を振る運転手に、俺は静かに前へ体を乗り出して言った。

「じゃあ買う」

「え?」

「買いますよ、この車」

 何言ってんだこいつ、という顔で運転手がこちらを向く。俺は包丁を、その脇腹に突きつけた。

「あんたの命で足りるかな」

 ひっと息を呑むのが聞こえたかと思うと、なんと運転手は眠るように気を失ってしまった。元々緊張しいか、刃物恐怖症だったのかもしれない。見た目は結構男らしかったのにね。とにかく俺は慌ててハンドルを掴み、湖に転落しないように必死に抑えた。免許なんて持ってない。が、やるしかない。


 運転手をなんとか退けて、運転席に座った。


 ドライビングテクについてはもう散々で、特段後世に書き残すこともない。もっと人の運転してるところを見ておけば良かったと後悔したほどだ。でも道自体は、もうあらかたの避難が済んでいたからか、車も人も少なく、こんな俺でもなんとか事故らず走ることができた。あとはいつ通行止めされるかだけが不安だったが、火のすぐそば……館のすぐ前まで来ても、結局、一台の消防車も見当たらなかった。サイレンの音はあれほど鳴り響いていたっていうのに。

 まあ、何にせよ、俺には好都合だったことに変わりはない。


 赤い烈火は、館の袂まで迫っていた。


 信者たちが丹念に設えていたであろう英国風の庭は燃え盛り、まるで火の海のように、うねりながら全てを飲み込んでいく。その様は恐ろしくも美しく、灼けて黒く灰になる花と荊が、雪のように舞い散った。その中に、人影が、ゆらりと見えた。


 それは、あのいなくなったゴリラ先輩だった。


 俺は急いでタクシーから降りると、館を取り囲む庭園の入り口へと駆け寄った。今にも折れてしまいそうな細身の体が、逃げる素振りすら見せぬまま、紅蓮の中にうずくまっていた。その姿はさながら繭のようだった——何も知らずに微睡の中、外側から焼き殺される、蛹の蝶。そしてそれは、前に読んだ■■教のパンフレットで見た修行者の格好と同じであることに、俺は気がついた。気がついて心底ゾッとした。浄化の名の下に鎖で拘束され、どろどろの皮膚に塗れたその姿に、言いようのない憐憫と後悔が込み上げて、泣きながらその場に頽れた。


 きっとこの人は……嘘がつけなかったのだ。

 根っからの悪人でも、殺人狂でもなく。ただただ、そういう人、というだけだったのだ。


 だからこそ俺のことを、最初からあんなにも嫌った。嘘ばかりついている俺を。嘘をついていることに慣れすぎた俺を。先輩は、おそらく初めて顔を合わせた時、察したのだろう。俺の欺瞞を。そして気づいたのだろう。これまで俺が愛やら優しさやら思いやりやら、体のいい名前でラッピングして振り撒いてきたものが、単なる嘆願でしかなかったことに。


 君を愛するからどうか虐げないでくれと——こいねがうだけのものだったことに。




「先輩、」




 身体中の皮膚を焦がし尽くさんばかりの、狂気的な熱風の中で、俺は叫んだ。なのにいくら叫んでも声が出ない。それでも、柵と炎の隙間から手を伸ばしながら、謝った。「ごめんなさい」。「俺のせいで」。もう遅すぎる謝罪の言葉を、先輩の爛れた耳が聞いていたのかはわからない。でも俺の目には、その唇が溶け落ちる前、灰の中で確かにこう言ったように、見えた。


 「先に行ってる」。












 ……忘れて、しまうんだろうか? 




 



 紙も機械も、石の板さえ朽ちるほど、長い年月が経ったとして。俺は忘れてしまうんだろうか。あの人を。俺が居場所を奪い、狂気の人々に肉も骨も焼かれたあの人のことを。だとしたら、記録に、記載に、蓄音に、一体何の意味がある。あの時思ったことを、忘れて、忘れたことさえ忘れて、それでも残るただの音に、何の価値があるというんだ。


 ……忘れたくない。


 別に、好きだったわけじゃない。愛してたわけじゃない。でも、あの人を忘れたら、俺はまた同じようなことを繰り返すのだろう。そう思うと、どうしようもなく恐ろしい。あの人の過去は最後まで知らないままだったけれど、彼は死に場所を探していたのかもしれないと、そんな風に思う。


 自分で意識していたかはわからない。

 でも、他者の命を事務的に刈り取りながら、あの人は自分の命を落とすに値する場所を——人生の幕を引くに相応しい場所を、ずっと探して、探し続けていたのかもしれない。


 ほんの僅かな間の付き合いだった。自惚れた考えかもしれない。でももしそれを、俺のところに選んでくれたというのなら……いや、やっぱり、納得いかない。どうして俺なんだ。なんでいつも俺なんだよ。逃げようと思えば、生きようと思えば生きられたくせに。あんなに手際良く人を殺してたじゃないか。あんたは奪う側になれたのに。その気になりさえすれば。


 ああ。でも本当は全部わかってるんだ。


 だから、もうこれ以上は、書くことがないよ。





 





 

 涙は一瞬で蒸発して、顔は裂けそうに痛い。


 そんな酷い有様の中で、泣き疲れた餓鬼みたいに呆けていた俺は、ふと何かが聞こえた気がして、館の方に目を向けた。奇妙な音だった。真逆の音を強引に合わせたような。齧る音と啜る音。歓笑と嘲笑。福音の囁きと呪言の轟き。

 

 正面扉が、ひとりでに開いた。


 あたかも「おいで」と言わんばかりに。その時にはもうすっかり陽が暮れて、西の空には星が出ていた。夜が来ていた。あの日と同じ。呆れ返るほど豪奢ないえに、相も変わらぬ田舎の街。ここには何もかもがあり、何もかもがない。


 


 

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