第30話 苦しみの十字架は奇跡を起こす!

 今日も俺は船に乗ろうとしている。


 日銭稼ぎの労働。


 ストレスはない。


 あの腐った会社組織と違い、漁場は至ってシンプルであり、そこに忖度や保身はない。


 船を出し、網を出し、汗を出し、その日を終え、収穫物を銭に交換するだけの純粋な世界である。


 でも、何故か心は晴れない。


 何故か哀しくなる。


 純粋に哀しい。


 季節的に秋口ということもあるのか…


 未だに忘れられないものがある…


「高貴の微笑み」と恨みはしているが、本当の彼女を俺は知らない。


 何故、彼女は俺から去ったのか…


今でも自問自答が続く。


 俺は鬱な気持ちのまま、船を海上に滑らせた。


 陸上より海上の方が、はるかに季節が移り変わっているように思える。


 風の色


 海面の色


 確実に変わっている。


 いつもの防波堤が右手に見える。


 防波堤先の灯台に家族連れが釣りをしている。


 父親が竿を出し、子供と妻らしき女性が座っている。


 秋口のアオリイカを狙っての夜釣りから朝まずめ狙いか…


 その光景を見て、俺の心は益々、哀しくなった。


 あんな幸せ、彼女と共にしたかった…


 そう思わずにはいられなかった。


 何の因果か知らないが、こんなことになっちまった。


 身体中、満身創痍で心も病み、片脚は無くし、社会から逃げるように船に乗り…


 かつ、一番大切な人を恨み続ける人生を選んだ愚か者…


 視界から家族連れの光景が消えるにつれ、俺は自然と空を見上げた。


 あの長崎の青い空と同じくらい、ここの空も凄く青く、とても哀しい色をしていた。


 あの長崎の青い空…


 長崎での俺の生活は平穏であった。


 仕事は何も大きなプロジェクトはなく、至って、安定的なものであった。


 人間関係も順調であり、今までのように誰かと敵対するような事は無かった。


 長崎の初日に神と俺の弱い心に楔を打ち込んでから、俺の精神は良くも悪くも安定はしていた。


 そんな感じで、長崎に赴任してから早くも1か月が経ち、5月の連休を迎えた。


 俺は家族の居る福岡には帰らず、長崎に留まっていた。


 その理由には、特段のものはないが…


 何故か、そろそろ、「高貴の微笑み」が訪れるような気がしていたからだ…


 恨んでいても、何故か逢いたい…


 複雑な心境であった。


 熊本の最後の日、あの水前寺駅で見た、ずぶ濡れの学生カップル。


 神と弱い俺の心に楔は打ったが、まだ、釈然とはしていなかった。


 何故、あのような幻影を見たのか…


 俺はその訳を「高貴の微笑み」に聞きたいと思っていたのだ。


 連休の初日、俺は平戸の潜伏キリシタン遺跡を見るため、車を走らせた。


 長崎市から西にひたすら向かい、車で2時間は掛かった。


 平戸大橋を渡り、俺は最果てまで行きたい願望に駆られた。


 平戸の町から更に西に向かい、生月島に渡り、陸上の最西端である大バエ灯台に着いた。


 俺は灯台下に降りて、岸壁の縁に立ち、霞んで見える対馬列島を見やった。


 全く何もない、何も生まれない、「無」の世界のように感じられた。


 俺は次に生月島のガスペルの墓を目指した。


 ガスペルは、江戸時代初期、隠れキリシタンのリーダーとして、この地に生き、そして、見せしめとして幕府に斬首された。


 ガスペルらの潜伏キリシタンの遺跡群は、この生月島から平戸、長崎市西部にかけ点在している。


 俺はガスペルを選んだ。


 何故ならば、最も残虐に死刑を被った隠れキリシタンであったからだ。


 俺はガスペルの墓のある黒瀬の辻に着き、中江島の見える崖に車を止めた。


 山田教会堂に立ち寄ってから、ガスペルの墓に歩いて向かった。


 崖縁の竹藪の中に十字架が見えた。


 それがガスペルの墓であった。


 最近、建立されたみたいであった。


 鋼の十字架は、威厳を満ちて、聳えていた。


 その墓から、中江島が見渡せた。


 キリストを慕い、命を棄ててまで信仰を貫いた人々。


 あの中江島の沖で、生きたまま檻に入れられ、海中に沈められた人々。


 何故、そこまで神を信じるのか。


 俺はそれを今日、このガスペルに聞きに来たのだ。


 俺はガスペルの十字架を睨み、こう問うた。


「お前は何を祈ったのか?そして、神は何と答えたのか?」


「死の直前の苦しみに何を見たのか?そして、神は見えたのか?」


「お前は愛する者が犠牲になっても、信仰を捨てないのか?そして、それを神は許したのか?」


 俺はこう問うて、ガスペルの十字架をじっと睨み続けた。


 潮風が吹き抜け、墓の上の栗の木を揺らし、緑の葉が数枚舞い降りたが、それは音のない静寂の中での映像であった。


 付近の里道を自家用車が通って行ったが、それも音のない静寂の映像であった。


 どれだけ時間が過ぎたであろうか。


 俺はふとガスペルの十字架から目を逸らし、中江島が見える崖の方を見遣った。


 竹藪の切れ目の間、約1メートルの空間に中江島の海が見える。


 今立っているガスペルの墓から何メートルもない距離であった。


 潮風が止んだ。


 栗の木が枝を動かすのをやめた。


 その時、俺には聞こえた。


 確かに聞こえた。


「もう、苦しまないで…」


「苦しまないで…」


 そう聞こえた。


 彼女の声。


 確かに聞こえた。


 俺は急いで声がした、竹藪の切れ目に走り、その先を見た。


 脚がすくんだ。


 崖縁であった。


 その先は空間と海原だけであった。


 すると、白い蝶々が飛んで行った。


 潮風に靡きながら、ゆらゆらと何もない彼方へ、飛んで行っていた。


 何もない彼方…


 俺は何かを感じた。


 彼女が俺に何かを伝えようとしている。


 そう感じた。


 俺はガスペルの墓に戻り、その鋼の十字架に十字を切って形ばかりお礼をした。


 俺は何かに急かされるよう車に乗り込み、平戸のザビエル記念教会に向かった。


 その時、俺は観光案内図を見る事なく、行先が見えていた。


 俺の今日の目的。


 インスピレーションはその成果を得ていた。


 その成果を確信に変えるため、俺は向かった。


 ザビエル記念教会の駐車場に車を止めた。


 俺は車から降りると教会と木が重ねて見える景色を探した。


 奇しくも西陽が眩しく教会を照らしていた。


 俺は車に戻りサングラスを掛けて、また、西陽の中の教会を見遣った。


 見えた。


 森の木々の上から教会天守の白銀の十字架が!


 哀しい青い空に、その十字を突き立てるかのように聳えて見えた。


 俺は確信した。


 あの浦上天守堂の天守の十字架とは違った。


 哀しい青空と同化している十字架とは違った。


 この十字架は、哀しい青空に反発している。


 ガスペルの十字架もそうだ!

 威風堂々と威厳に満ちていた!


 ザビエル記念教会の十字架も青空を突き刺している。決して、同化などしていない!


 その時、一瞬、俺の脳裏に因果の列車が突き抜けるように走り出した。


「俺は長崎に来るべくして来たのだ。熊本の次はこの長崎と定められていたのだ。」


「何のために」


「全ての過去を見るためさ」


「やっと見えるのか」


「見えやしない。でも、明らかになる。」


「見えなくても分かるのか?」


「教えてくれる。」


「聞こえるのか?」


「さっきの蝶々と同じさ」


「分かった。」


 俺は教会天守の白銀の十字架に向かって、誰となく話していた。


 俺には、この時、一瞬でも、「掛け替えの無い感性」、「見えない最大の友」、「俺と彼女の最大の味方」が間近に居るよう感じ取れていた。


 そして、俺はその友に念を押した。


「お前が神などとは、俺は思わぬ。

 そんな事どうでも良い。

 早く「高貴の微笑み」を遣わせろ。

 そしたら奇跡は信じてやる。」と

 

 


 

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