第26話 「高貴の微笑み」は「黒い影」に抱かれ続ける…
今朝は秋を感じた。
いつものとおり、午前5時に船泊の桟橋に着いたが、赤灯台の防波堤の向こうに見える高島の上には太陽はなく、白い月影が呑気に浮かんでいる。
波止場に吹く風が、昨日までの南寄りの風から、幾分か西寄りに方位を変えている。
軽トラの荷台から積荷を下ろし、リヤカーに載せ、船に積込み、杭からロープを外した。
浮輪を頼りに沈んでいくロープの先端から泡が浮かび、それにアオリイカの子供がまとわりついていた。
船を走らせ、防波堤の灯台を過ぎ、やっと、顔を出した太陽を右手に波のないベタ凪の海原を北東に進む。
確かに海面の色が緑から青に変わっている。
海水が冷たくなっているように思えた。
季節は確かに移り変わっていることを感じた。
今日は、この夏、最後のサワラ漁にすることに決めた。
船を1時間程走らせ、360度、海面以外何も見えない大海原に船を停止させ、錨を下ろし、帆を上げて、ゆっくり、風と潮の推進力に任せ、じわり、じわりと船を動かす。
そして、船尾に移り、仕掛けにヤリイカを付けて、海面を流す。
銀鱗に光るサワラの群が海面を覆い始める。
エサに食い付いたサワラが走った。
慌てない。
何本か食い付くのを待つ。
浮杭が悲鳴を上げるかのように、海面に擦れながら音を立てる。
そして、浮杭がサワラに引っ張られ、海面を後にした。
それを合図に、ウインチをオンにし、網を手繰る。
イカを丸呑みにし、目をひん剥いたサワラが続々と上がってくる。
夏の終わり、脂がのった丸々太ったサワラが船縁を騒がしく、飛び跳ねている。
こんな季節の変わり目を感じることが出来るなど、あの時、熊本時代は想像することなどできなかった。
震災復興、それを合言葉に国が県が市が動き始めた。
被害状況の把握に時間が掛かり、被災者支援は後手後手に回っている。
被災者は市役所に殺到する。
当該建物の公費解体申請に長蛇の列が現出した。
申請しても、いつ解体されるのか、その目安は何もない。
俺の会社の支援策、損保との連携による早期の保険金の支給も、それに伴い遅れがちとなった。
簡単にはいかない…
顧客から苦情が寄せられる。
いつになったら口座に金が入るのか?と
公費解体がされてからだと答えると、公費解体がいつになるか分からないのに、いい加減な事を言いやがってと怒鳴られる。
こちらもイライラの限界だ。
仕方ない事を言うな!と電話を切る!
余震が鳴り止んだ3か月後は、苦情電話がそれに代わり、社内に鳴り響いていた…
俺は思った。
「俺も被災者だ」と
被災者間に同盟関係は構築されない。
そこには、競争原理が発生していた。
解体が、仮設入居が、保険金の支給が、誰より早いか、遅いか…
決して、指を咥え、順番を待つ、のんびり屋は、存在しなかった。
そんな修羅場の被災地に職を賭し、来る日も来る日も、現地確認、本人確認、書類確認、電話確認、苦情対応…、その繰り返しの毎日だった。
本当に疲れた。
来季の当会社の営業利益は、創業以来、初めて赤字に転じた。
地震被害は、不動産会社の基盤、存在、それ自体を根底から揺るがす。
倒壊の理由が、違法建設だと宣う輩も登場して来た。
被災者は次第に凶暴化して来ている。
いつもいつも喧騒の中で息をしている。
春も夏も秋も感じない。
4月16日から季節は止まっている。
皆んな地団駄していた。
俺は仕事が終わり、ヨレヨレになり、社宅に戻る。
食欲などない。
毎日、コンビニの惣菜だ。
風呂に入る気力もない。
シャワーだけ取り敢えず浴びる。
風呂桶には、次の震災に備え、給水タンク代わりに水を張っている。
何日も代えてない風呂水にボウフラが沸いていた。
気色悪くも思えない。
衛生管理、清潔、掃除、震災はそれら行動を無駄な行為に降格させた。
ツマミの揚げ物で焼酎を呑む。
味わいなどしない。
寝るために呑む。
焼酎で眠たくなれば御の字だ。
やはり、今夜も焼酎では眼は閉じない。
ツマミのピーナッツの中に、薬袋から錠剤をばら撒く。
赤や緑や青の綺麗な錠剤の色合いが、ピーナッツ色に混じり込む。
塩味の抗うつ薬を飲んだことがあるかい?
塩味の睡眠薬を飲んだことがあるかい?
睡眠薬の味のするピーナッツを食べたことがあるかい?
だんだんとそれらツマミを指で摘むのが面倒臭くなる。
皿ごと口に流し込み、目一杯、噛み砕き、焼酎で胃に流し込む。
次第に意識が朦朧として来る。
此処からが、本番だ。
アイツが現れるのを警戒する。
布団に横になり、アイツが現れる、扉に視線を向ける。
拳を強く握りしめて…
この頃、殆ど毎晩、幻想、幻覚を見るようになっていた。
金縛りだ…
黒い影のような大きな塊が、台所の扉の隙間から、俺を見ているのだ。
何も言わずに、こちらを見ている。
そして、天井を向くと、あの「高貴の微笑み」を浮かべた、糞女が俺を見下している。
こいつは黒い影と違い物を申す。
俺が怒鳴る。
「また、上から見下してやがって!
憐れみは必要ない!
お前の望みどおりだ!
俺は不幸のどん底だ!
お前の望みどおりだ!
俺の人生は地獄だ!
お前が正しい!
俺を見捨てたお前が正しい!
だから、消えろ!
腐れ!」と
奴は微笑みながら、ゆっくりと宣う。
「見捨てた?私が?貴方を見捨てた?
勘違いしないでね。
私は貴方の前を何気なく通り過ぎただけなのよ。
そよ風と同じなの。
勘違いしないで!」と
俺はこの腐れ女を殴ろうと拳を振り上げようとするが、身体が動かない、金縛りだ…
声を上げようとするが、もう声が出ない。
黒い影を睨もうとするが、首が動かない。
俺は諦めて、腐れ女と黒い影に心でこう問う。
「そよ風のように過ぎて行ったのならば、何故、戻ってくる。何故、現れる。教えろ?」と
腐れ女は黒い影に抱き寄せられ、「高貴の微笑み」に、「淫靡な微笑み」を含みながら、黒い影と濃厚な接吻を行い、合間を見ながら、俺にゆっくりと答える。
「私達が戻って来たんじゃないわ。
貴方が覗き見してるのよ。
私達の愛を覗き見してるのよ。
貴方が私達を覗いている。
貴方が私達を妬んでる。
貴方が私達を邪魔してる。」と
俺は叫ぶ!
「邪魔などしてない!」
「邪魔などするか!」
俺の心の叫びは届かない…
「高貴の微笑み」の女は、黒い影の激しい愛撫、激しい性行に歓喜の笑みを浮かべ、涎を垂らしながら、身体を仰け反らせる。
その行為が永遠と続くかのように、何度も何度も逝き果てながら、逝き果てながら、黒い影に溶け込むように、身体を蕩けさせる。
俺の「怒り」の炎に、油を注ぎ、風で煽り、薪をくめる。
俺はやっと眼を閉じ、心に誓う。
いつか、必ず、貴様らをぶっ殺してやる、必ず、ぶっ殺してやる…と
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます