第50話「おれは戦いたくない」

「目を覚ませ! 篠崎!」


 喜十郎が一喝すると、篠崎祐馬は雷に打たれたかのように身体を震わせて、棒立ちになった。


「板野さん?」

「戻ってこい、篠崎。はお前のいる場所じゃない」

「しかし……」


 篠崎の持つ刀の剣先が地面に垂れた。激しく迷っている心のうちが手にとるように分かった。


「本当はこんなことしたくないんだろう。戻ってこい。さもないと本物の『裏切り者』になってしまうぞ!」


 距離をおいて喜十郎が覗きこんでいる篠崎の瞳が揺れた。「裏切り者」という言葉に激しく動揺している。もうひと推しで篠崎はこちらへ帰ってくる。喜十郎は声に力を込めた。


「篠崎――」

「茶番はそれまでだ!」


 戦意を失った篠崎を突き飛ばして巨漢の剣士が喜十郎の前に現れた。


「篠崎、お前に帰るところなんかない! どこまでもおれたちといくのさ! この男を斬ってからな」


 そういって剣士は喜十郎に向き直った。夜目にも白白と頬の刀傷が浮かんでいる。徳應寺の元締めから聞き込んだ男だ。篠崎を連れ去っ男であり、帰城の途中、橘家老を襲撃した浪人に違いない。しかし――


「板野喜十郎だな? おれは土佐雷蔵とさらいぞうだ。こんなところで会えるとは思っていなかったぞ、兄の仇め。おれと撃ち合え! 勝負しろ!」


 喜十郎にとっては、意外なことを口にして刀を抜いた。男の殺気がさらに膨れ上がった。土佐雷蔵? 兄の仇?


「忘れたのなら思い出させてやろう。去年の冬。攘夷実行を翌日に控えた我らの同志三名が橘厳慎の奸計に落ちて捕らえられ、一名がその場で討たれた」


 冬――外国商館。攘夷。不逞浪人。土佐某……。思い出した。たしかに橘厳慎の命令で京から流れてきた不逞浪人のひとりを斬った。戦い慣れた暗殺者だった。それが――。


「討たれた同志。それが土佐耀蔵とさようぞう――おれの兄だ。兄の仇、板野喜十郎、覚悟!」


 殺到する気迫。きらめく光跡。ふたつの刀が打ち合わされて赤い火花が散った。


「ま、まて。話を……」


 旋風のような土佐斬り込みをすんでのところでかわす。打ち込みに隙がない。強敵だ。しかし――。


「篠崎を取り戻せばいい。戦いたくない」

「笑止!」


 土佐の顔は憤怒の表情に赤暗く染まっている。


「臆病者が! おれは仇を前にしてひるがえす刀など持っておらぬ! 世迷言はおれを倒してからにするんだな!」


 大男である土佐の繰り出す打ち込みは、風を巻き起こして喜十郎に襲いかかる。土佐の怒りと怨念がこもった攻撃だ。土佐と戦うことは避けられない。避けられないのであれば……。


 喜十郎は大きく退いた。土佐とのあいだに間合いを取ると刀を鞘に収めた。


「おとなしく首を差し出す……か?」


 もちろんそうでないことは土佐にもすぐに分かった。間合いを切って尚、喜十郎の闘志が充実してくることが感じられたからだ。深く腰を割って目を伏せる。勝負を諦めたわけではない。むしろ……。


 土佐は容易に間合いを詰められないと考えた。安易に踏み込めば相手の抜き打ちがくる。どうする? 進むか待つか、土佐は迷った。迷ってしまった。迷いは隙に繋がる。


 わずかの隙もいまの喜十郎は見逃さない。土佐がそう考えたか考えないかのうちに、喜十郎の足が地面を蹴っていた。電光石火の早技である。一瞬のうちに、一間はゆうに離れていたふたりの距離が失くなった。


 気がつけば喜十郎の刀は鞘から抜き放たれ、土佐の右肘から右胸かけてを深々と切り裂いていた。刀はきらりと一度だけ閃いただけだった。


「ぐっ」


 身体を逸らせ、たたらを踏んだ土佐の左腕を今度は刃を返して峰打ちである。堪らず刀を取り落としてうずくまった土佐を喜十郎が見下ろす形になった。


「こ、殺せ……」

「もう一度いう。おれは


 跪いた土佐を、成り行きを見守っていた駕籠の護衛たちが寄ってたかって取り押さえた。喜十郎が周囲を見回すと、他の襲撃者らとともに篠崎祐馬の姿が消えている。土佐との斬り合いのあいだに立ち去ってしまったようだ。追わなければ。追ってあいつを取り戻すのだ。


「手当を」


 それだけ言い残して、喜十郎は篠崎が消えていった夜の道を辿って駆け出した。その背中を土佐のむせび泣く声が追ってくる。白い月がいままさに中天を過ぎようとしていた。

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