第46話 誘う女
紫煙の籠った屋敷の賭場へやってきて三日が経った。しかし、すでに篠崎に時間の感覚はなくなっていた。ずっと賭場に居続けである。自分が勝っているのか、負けているのかもあやふやで、いつ食事をとったのか、きちんと眠れているのかすら、どうでよくなってしまっていた。
ばくちには勝っているのかもしれないが、手に入れた金はすべて阿片に消えた。喫ってしまえば消えてゆく。また買う。金がなくなれば、金を借りて阿片を買う。賭場の金貸しは景気良く貸してくれた。
次第にばくちのことなどどうでもよくなってしまう。その頃には部屋にいる人数のうち、ばくちを打っているのはほんの数人だと気づいていた。大半の人間はここへ阿片を喫いにやってきているのだ。
阿片はなにもかも忘れさせてくれる。家のこと、兄のこと、将来の不安や打ち込んできた剣術のこと、すべてが濃い霧の向こうに沈んで、自分自身は霧の上を揺蕩うのだ。一切の不安や不満は消え失せて篠崎は幸福感に満たされていた。
「篠崎さま、もう一服いかが」
長煙管に詰めた阿片を勧めてくれるのは、
「ひとつ……もらおう」
白磁のような腕が伸びて、煙管に火を入れる仕草は妖艶で、やってきた当初は激しく伽耶に欲情したが、いまではただ美しいなと思うばかりである。
「どうぞ……」
咥えさせてもらった煙管から深く息を吸い込むと、甘い香りが肺を満たしていった。
――ああ。
至福のなか目を閉じた。そして、それきり篠崎は深い昏睡に陥っていった。
目を覚ますと、ひどい頭痛と吐き気に襲われた。暗い。ひりつく喉の乾き。どこだか知らないところだった。冷たい板の間に篠崎は突っ伏していた。ここはどこだ――と言ったつもりだったが声は出なかった。ただ、喉がヒューヒュー鳴るだけである。激しく頭が痛んだ。
「やっと目を覚ましたか」
「……」
「ゆくぞ」
やがて聞こえてきたのは土佐雷蔵の声だった。何者かに両脇を抱えられ、引きずられるようにして篠崎はその部屋を出た。朦朧としたまま、いくつかの廊下と土間を渡りついで、小さな部屋に連れていかれた。
座って待つように言われ、しばらく畳にうずくまっているとひとりの男が土佐雷蔵を引き連れて現れた。目つきが鋭く痩せた男だった。身体を折り曲げて畳に這いつくばる篠崎を見ても眉ひとつ動かさない。
「……み、水……」
「篠崎祐馬」
氷のような声だった。
喉の渇きが耐えられない。頭が痛く気が変になりそうだった。
「単刀直入にいう。おれのために働け。働けば金も阿片もくれてやる」
「……水」
「水もやる。返事を聞こう」
「……み……ず……」
バシャ。
顔に水が掛けられた。土佐雷蔵が持っていた手桶の水を篠崎にぶちまけたのだ。「それ飲め」手桶が畳に落ちて弾んだ。なんという屈辱か。しかし。篠崎の武士としての怒りも矜持も、阿片の霧の向こうに沈んみ浮かび上がってこなかった。頬を伝う僅かな水を
痩せた男が立ったまま、一通の手紙を篠崎の足元に放って寄越した。
「おまえにやってもらうことは、そこに書いたとおりだ。よく読め」
震える手で手紙を開くと、紙一面にびっしりと指示が書いてある。目を通す篠崎の顔から血の気が引いて紙よりも白くなってゆく。
「こ、これは……!」
篠崎は手紙を鷲掴みにしたまま絶句した。細かい字でびっしりと書き連ねられていたのは、青海藩筆頭家老、橘厳慎の暗殺手順書だったからだ。
「おれのために働け。否か応か、返事を聞こう」
痩せた男が問い詰める。男のすぐ脇では土佐が刀の鯉口を切っていた。篠崎に「否」の返事は許されていなかった。
「しょ、承知……した」
そう返事をした瞬間、篠崎祐馬は地獄に落ちた。
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