新撰組異聞篇

第34話 鼻つまみ新撰組

 鼻つまみ――。


 生前は、肉食妻帯など僧としてあるまじきことと当時の仏教界から批判されていた開祖、親鸞上人もこの匂いには閉口しているにちがいない。


 夏。京は下京、堀川通に面して続く西本願寺の境内には、豚を煮る匂いが立ち込めていた。


 ここはいわずとしれた浄土真宗本願寺派の本山であり、無闇な殺生は厳しく忌まれる聖域のはずである。慶応元年、この地に『新撰組』が屯所を移してくるまでは。


 いま、その西本願寺の境内を大股でゆくひとりの男がいる。隙のない足運びと頬に見える激しい面ずれ、両手の竹刀だこ。一目見て只者ではないと分かる侍ぶりだが、よく動く大きな両目には愛嬌がある。


「山崎さん」


 濃厚な香りを放つ鍋をかき回す5、6人若侍のうち、ひとりが男を呼び止めた。


「いまから豚鍋にするんです。一緒にやりませんか」

「やあ、それはうまそうだ。しかし――」

「隊にご用ですか。今日は宿直なんで、食い終わったら取り次ぎますよ」

「食っていきたいが、いまから副長に呼ばれてるんだ」

「げっ、土方さんに?」


 若い隊士は、大げさに首をすくめてみせると、それ以上、男を引き留めることなく、鍋の元へと戻っていった。


 ――やれやれ「鬼の副長」とは、こうも隊士たちから恐れられるものか。


 前方に黒々とそびえる隊舎の一番奥まった部屋に、その新撰組副長、土方歳三ひじかたとしぞうは待っているはずだった。


 隊舎に入り、黒光りする廊下をいくつも折れ曲がった先に副長室はある。のぞくと障子の戸は開いていて、土方は探索方のまとめた報告書を書見台に広げていた。左膝の前に串団子の乗った皿がひとつ。土方の好物、淡路屋のみつ団子だ。


「遅かったな」

「すみません。若い連中に呼び止められまして」

「また豚鍋か」


 ずいぶん離れたはずだが、酒を飲み、豚を食らって騒いでいる隊士たちの声は、この副長室にまで聞こえてくる。


「いくら精がつくからといってこう毎日じゃあ――本願寺から文句を聞かされるおれの身にもなってみろ。なあ山崎さん」

「まったくです」


 新撰組副長助勤、山崎丞やまざきすすむは、その大きな目をぐりぐりと動かして土方の言葉に賛意を表した。

 土方が書見台に広げている報告書は、山崎たち探索方の隊士がほうぼうで集めてきた最近の風聞をまとめたもので、昨日、山崎自身が土方に提出したものだった。


「報告書は読んだ。骨折りだった」

「いえ」


 土方の差し出した報告書を受け取った。命知らずの剣客集団として知られている新撰組のなかにあって、山崎たち探索方の任務は情報収集だ。

 一時、京の町を席巻した長州の勢力は退潮してきているとはいえ、過激な攘夷を唱えて無法を働く不逞の浪士たちは後を絶たない。幕府から京都治安の維持を任された新撰組にとって、不逞浪士の動向を探ることはその活動の生命線である。


 一般の隊士たちが市中の巡察に出かけたり、剣の稽古に励んだり、屯所で酒盛りしたりしているあいだも、探索方の隊士は市中の人ごみに紛れ、百姓・町人に身をやつして京都に集まる各藩、浪士の情報を集めているのだ。


「土佐の――」

「はい?」


 報告書を風呂敷に包んで目を上げた。土方は、開いた障子戸の向こう、境内を取り囲む塀の向こうに視線を遊ばせていた。豚鍋を楽しんでいる隊士たちのにぎやかな声が遠く聞こえる。


「武市が死んだようだな」


 慶応元年閏5月、幕末の京都を席巻した尊王攘夷志士の巨魁、武市半平太たけちはんぺいたが郷里の土佐で切腹した。藩の内外で引き起こした過激な攘夷活動の責任を藩の上層部から問われた、事実上の処刑だった。


「一度だけ、武市とやりあったことがある」

「え」


 初耳だった。武市は京で続発した「天誅」騒ぎの黒幕として知らぬもののない男。捕縛名簿の筆頭に挙げるべき人物だが、新撰組が武市半平太逮捕に動いたという話はこれまで聞いたことがない。


「恐ろしい男だよ、武市っていうのは。周りにいる奴らは皆、あいつの重力に引きずり込まれちまう。『小さな武市』にされちまう。そんな魔力を帯びた男だ――」


 鬼の副長、土方歳三が昔語りをはじめた。これは珍しいことだ。この夏の盛りに雪が降らなければよいが。

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