第37話 怒り? 呆れ?


 廊橋ろうきょうに背を預けた雪玲は疲れから息を吐く。

 やっと解放された——と思いたいが、実際はまだだ。奚官局が行った検死の結果を聞き終えた、その後は夜伽という名の翔鵬との密会が待ち構えている。


「鳴美人様、そろそろ参りませんと翔鵬様が先にお越しになられます」


 声をかけてきた珠音はどこかよそよそしい。翔鵬に密告したことを気にしているのだろう。


「ええ、分かっております」


 分かっているが少し休む時間が欲しい。検死で特筆すべき情報は得られなかったが一連の事件と関係があるのか整理したい。


「彩妍は参加しますか?」

「いえ、体調が優れないようでご辞退なさいました」

「そうですか……」


 妹の体調不良は雪玲のせいだ! と九割九分の確率で翔鵬が責めてくる未来を予想して、雪玲は嫌そうに眉間に皺を寄せる。


(付き合わせたのは私ですし、悪いのは私なのは分かっています)


 が、翔鵬に責められるのは腹が立つ。とても。


「そろそろ行きましょうか」


 嫌なことは早く終わらせ、自室に戻って情報を整理したい。春風に背を押され、雪玲は歩き出した。




 ***




 結果、翔鵬は雪玲を責め立てた。白暘と珠音の静止に耳を傾けることなく、


「彩妍が体調を崩したのはお前のわがままのせいだ」

「薔薇が宮を出るなんて今までなかった。お前が崔婉儀と共に嫌がらせをしたんじゃないか?!」

「お前が余計なことをしたから仙華も死んでしまった!」


 お前が! お前が! とまくし立てた。

 いちいち正論を言っても火に油を注ぐ結果となるのは目に見えている。はいはい、と適当に相槌を打ち時間が過ぎるのを待っていたが一刻二時間が経っても怒りの炎が鎮火する様子はない。


「お前を連れてきた事自体、間違いだった。お前なら薔薇を笑顔にしてくれると思っていたのに……」


 他人任せな言い分には、やはり腹が立つ。その苛立ちを、雪玲は懸命に隠した。


「状況は良くなるどころか悪くなる一方だ。こんなことになるんだったら、お前を連れてくるべきではなかった」


 次にくるのは断罪の言葉か、と身構えた。

 もし殺されることになるのだったら雪玲にも考えがある。

 しかし、翔鵬が口にしたのは想像もしていなかった言葉だった。


「お前を里に帰してやる」


 その言葉を理解できず、瞬きをひとつ落とす。


「まだ、解明できていません」

「これ以上、状況が悪化し、薔薇を傷付けたくはない」

「だから、下手人は放っておくと言うのですか?」

「……薔薇に危害がなければ、それでいい」

「御子を三人も失ったのにですか?」

「……何がいいたい?」


 言いたいことは山ほどある。だが、怒りと呆れでうまく言語化できない。


(自分の子供が、妻が死んだというのに高貴妃が無事ならそれでいい? この男の言うことが理解できません)


 董沈なら妻の無念を晴らすべく、子の仇を討つべく戦ったはずだ。雪玲も親の立場ならそうしていた。

 それなのに翔鵬は動かない。父親として、夫として、瑞王として、この男は失格だと感じた。


(ああ、ここで殺そうかしら)


 雪玲は拳を握りしめた。


「明日の朝、白暘に送らせる。荷物をまとめておけ」


 翔鵬は足早に房室を出て行こうとするので雪玲は慌てて拝礼した。


「……はい、承知しました」


 本心を言えば帰りたくない。帰ってしまえばもう二度とここに来れなくなる。父が死んだ真相を掴むことが出来なくなる。


(駄目です。殺しては、香蘭や紫雲に、鳴家みんなを巻き込んでしまう)


 拝礼したまま、歯を食いしばって、怒りが和らぐのを待った。




 ***




 泥沼を進むように足が重い。力を抜けば今にも倒れそうになるのを気力だけで耐えながら、雪玲は黒嶺宮の臥室へと向かう。


(何を間違えていたのでしょうか? 私はただ下手人を見つけるために動いていただけなのに)


 自分の行動は間違えていないはずだ。大した説明もされずに連れてこられて、地道に活動してきた。妃嬪に疎まれても気にしない振りをしてきたのに。


(謝罪して、許しをもらえば……)


 いや、無理だ。翔鵬あの男には常識が通用しない。


(まだ帰りたくない……)


 臥室に近づくほど、足取りは重くなる。


「鳴美人様……」


 足を止めて、その場に立ち竦む雪玲を心配してか、静かに従事していた珠音が声をかけてきた。


「私、瑞王様の考えていることが分かりません。理解が、できません」

「それは、私どもも……。ただ、翔鵬様はご家族を、高貴妃様を深く愛しているのは事実です。鳴美人様をお連れしたのも、杞里へ帰そうとしたのも、その、全て高貴妃様のためで……」

「愛した人との子供が亡くなったのに、気にも留めないのですね」

「それは……」

「親とは、なにがあっても子供を守ろうとする生き物だと思っていました」


 珠音は答えない。否、答えることができない。

 気まずい沈黙が降りる中、歩き続けていると臥室の前に着いた。


「ここで大丈夫です。寝る支度は一人でできますから」

「……では、私は失礼します。ごゆっくりお休みください」


 珠音が下がるのを見届けてから扉の取っ手に手を伸ばし——扉の奥に人の気配がして、雪玲は首を傾げた。珠音は今さっき別れたばかりで、白暘は帰郷のための準備でこの場にいない。峰花や鈴鈴でもない。

 覚悟を決めて扉を開けると玻璃硝子から洩れる月明かりが象牙細工の美貌をやんわりと照らしていた。


「——高貴妃様?」


 繊細な美貌を恐怖に歪めた高貴妃は視線を床に落として、唇を開く。


「ご、ごめんなさい……。私、その、来たくて、来たわけじゃ……」


 そう言われ、雪玲はさらに困惑する。後ろ手に扉を閉めて高貴妃へ近づこうとするが、激しく首を振られて拒絶された。


「落ち着いてください。何か相談事があるのでしたら聞きますよ」


 優しく声をかけるが、高貴妃はまたもや首を振り拒絶の意を示した。


(やはり、この方は狂ってはいません。譫妄でもなさそうです)


 昼間、会った時にも感じていたが今はっきりした。高貴妃の行動は演技だと。


「……ここに来ないと御子に危害があるのですか?」


 高貴妃は驚きに目を剥く。


「な、んで……誰にも言ってないのに……」

「あなた様が狂っていない事も知っています」


 はくはく、と高貴妃は酸欠の魚のように開閉を繰り返した。雪玲の目をじっと見つめ、意を決したのか唾を飲み込む。


「……ここに、来なければ、殺されてしまうの」

「殺される? 誰にですか?」


 努めて優しく問えば、



「斉景長公主——彩妍様に」



 高貴妃は絶望の表情でその名を口にした。

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