第29話 目覚め
重たい
(そうでした。私は吐いて、倒れてしまったんでした)
雪玲は臥台に寝そべりながら腕を持ち上げ、指先を自由に動かした。鳥兜毒を服用したことで倦怠感は凄まじく、ぎこちないが動けなくはない。
(生きています)
胸に手を当てると、とくとくと一定の間隔で心音が鳴る。
生きていることが嬉しいはずなのに、まだ家族と会えないことに悲しみを覚えた。このまま死んでしまえば、どれほど良かっただろう。妃嬪を救うべく動いたのだから鳴家に与えられる褒賞は桁違いのはず——。
(あっ、崔婉儀様はどうしたのでしょうか?)
下世話なことを考えるのはやめて、自分と同じように鳥兜毒に蝕まれた妃を思い出す。食したのは、ほんの二口程度。すぐに処置を施して、医官がすぐ来たので命に別状はないはずだ。
褥から体を起こした雪玲は、足元にうつ伏せで眠っている珠音に気がついた。髪型や衣装が崔婉儀の宮へ伺った時と同じものなので、ずっと雪玲の看病をしてくれたようだ。
(心配をかけましたね)
珠音の決意を聞いた翌日に死にかけるなんて、きっと余計な心労をかけたに違いない。
疲れているのなら起こすのも気掛かりなので、その肩に毛布をかけてから、起こさないように褥から立ち上がる。汗を吸い込んだ夜着から朝礼用の襦裙に着替えていると背後から物音がした。
「……鳴美人様?」
振り返ると珠音が泣きそうな顔をしていた。
「おはようございます。もう少し、眠っていたらどうですか? お疲れでしょう」
「そ、それはこちらが言いたいですわ。鳴美人様こそ、お休みください!」
そう言って、珠音は素早く雪玲の襦裙を剥ぎ取った。
「あんなことが起こって、朝礼に参加が許されると思っているんですか!? 一日も経っていないのに!」
昨日? それにしては、ずいぶんと眠っていた気がする。
「それに本日、皇后様は体調不良ですので朝礼はありません」
無理やり、臥台に押し返された。朝礼がないのなら、反抗せず言われたままになる。
「夜伽は?」
「伽もないに決まっております! 鳴美人様は倒れられたんですよ!? ごゆっくり養生ください!」
絶対に! と語気を強めて、睨まれる。雪玲が頷き、毛布を口元まで引き寄せたのを確認すると珠音は医官を呼びに出ていった。
***
墨汁を垂らし、かき混ぜたような曇天が広がっていた。遠くで雷鳴が
古びた東屋は普段、人が来ないのか石畳の隙間から野草が生え、染料が剥げた壁は
(崔婉儀様は、いえ、妃嬪の皆様は乾皇后様が下手人だと知っていました)
そう、知っていた。知っていたが争いを避けるため黙秘していた。
(避妊薬を用意してまで)
これは彼女達の戦いだ。生き抜くために知恵を振り絞り、協力し合ってきた。
(皆様は何年も耐え忍んできました。それを私が壊していいものでしょうか?)
乾皇后が下手人だという決定的な証拠を掴み、翔鵬に
しかし、それは彼女達の戦いに水を差すということ。
(戦うのは覚悟がいります。覚悟を、私の勝手な判断で無にするべきか、共に戦うべきか……。どうするのが正解なのでしょうか)
雪玲が体を丸めて唸っていると、しとしとと雨が降り始めた。
(——雨の音は杞里と変わらないのですね)
瓦を弾く音を聞いていると、どこからか「春燕!」という呼び声が聞こえた。顔を上げて、その音の方角を見たら
「彩妍。私はここですよ」
ひらひらと手を振って、居場所を伝えると、彩妍は走って向かってくる。裾が泥水で汚れても気にする余裕がないのか、いつも冷静な彩妍らしからぬ行動だ。
「春燕! 君はなんで出歩いているんだ!?」
全身で呼吸をしながら、彩妍は雪玲の肩を掴んだ。
「体調もいいので散策してました」
「いや、理由を聞いているのではなく。君は今、安静にしてないと駄目だろう!」
「大丈夫ですよ。もうほとんど、毒は抜け切っております」
指を動かして「痺れもありません」と主張してみるが彩妍がいぶかしむ目をしているのは面紗越しでも分かった。
「抜け切っているっていうが、君は鳥兜入りの包子をひとつ丸ごと食べたんだろう?」
「とても美味しかったです」
「いや、味の感想は聞いてない。鳥兜が入っていたんだぞ」
「耐性ありますから」
「耐性があっても崔婉儀を助けるのを最優先にして、自分の処置はしていなかったんだろう!? 君は馬鹿か!」
「時間が限られていましたし……」
「いいから戻るぞ。君がいないことに珠音が取り乱している」
「書き置きを残したのですが、見ていないのでしょうか」
一人で考える時間が欲しい、と書いた紙を
「君は自分の状態を把握しているかい?」
「把握しているから散策に出てます」
「……戻るぞ」
雪玲の手を引っ張り、診療室へ戻るために歩き出した。
勢いを増した雨が紅傘を打つ。その下で雪玲は隣に立つ彩妍を盗み見た。
(青侍医が、高貴妃様を訪ねていたことを聞いても彩妍は答えてくれるでしょうか)
あの夜、青文瑾が麗鳳宮からでてきたことは聞けずじまいのまま。お互いの侍女がいない今なら気兼ねなく、問うことができる。
問いかける前に、ふと、彩妍の様子がおかしいことに気付いた。
「なにかありましたか?」
「ああ、まあ……。少しな」
彩妍が言葉を濁す。
もう一度、問いかけると渋々、教えてくれた。
「今さっき、李恵妃と宝美人が死んでいるのが見つかったんだ」
雪玲は足を止めた。つられて彩妍も足を止める。
「どこでですか?」
「李恵妃の宮の池だ」
雪玲は
「離してください」
「春燕、どこにいくんだ?!」
「現場を見にいきます」
「あ、そうだね。それが君の仕事だから……って安静にしてないとダメだろう!?」
「一晩寝たので大丈夫ですよ」
「駄目に決まっているだろう! 私が許さない!!」
「でも、ご遺体と現場を見なければ……」
「白暘が見てるから彼に聞け」
「……ええ」
顔を顰めて、露骨に嫌な顔をする。雨で現場が塗り替えられる前に向かいたいが、彩妍の手はより一層と力がこもる。
「嫌そうだな」
「他人から聞くより、自分の眼で見たほうが信用できますもの」
「しかし、駄目だ」
「なら、彩妍も一緒に」
目に見える範囲にいるなら安心に違いない、と案を出すが「駄目だ」と一蹴された。
(白暘様が全て教えてくれる確証はありません。やはり、力づくで振り解くしか……)
雪玲の考えを読み取ったのか彩妍は、
「この手を振り解いてもいいよ。そうしたら転んで怪我を負うことになる。長公主である、この私が」
脅しにかかった。
「……卑怯です」
「怪我を兄上に報告されたくなければ、言うことを聞け」
ぶつくさと文句を言うが彩妍は絶対に譲ってはくれなかった。
臥室へ戻り、珠音の説教が待ち構えていることを、この時、雪玲は考えていなかった。
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