第26話 月夜の散策


 夜のしじまが支配する空間で、雪玲は横たわり天井を眺めていた。燭台の代わりに臥室を照らすのは柔らかな月明かりのみ。ぱしぱしと瞬きする度に薄闇の世界は鮮明になる。


(こういう時、自分が董家だと実感します)


 董家の人間が伴侶を得る際は、鴆毒に耐えれる子を作るために家柄や容姿より、身体の強靭さを重要視していた。先祖代々、そうして血を紡いできたのが功を成したのか董家は頑丈で五感が優れた者が多い。

 雪玲もまたその血にあやかり、人並み外れた五感を持っている。この薄闇では普通の人は物の位置がぼんやりと見える程度だろうが、雪玲の目には家具の輪郭はおろか、その色合いもうっすらとだが視認できた。


(夜は好きです。静かで、落ち着いていて)


 嫌いではないが昼はうるさすぎる。肌を刺激する陽光に、目に映る色とりどりの光景、耳に届く数多の喧騒、鼻をつつく千差万別の匂い。

 昼でも穏やかな杞里とは違い、この地は休まらない。


(ここならゆっくりと考えることができます)


 考えるのは事件について。


(下手人はいったい何が目的なのでしょうか?)


 憶測だが、下手人は複数人いる。

 茶会で五人の妃と三人の御子を殺し、皇太后に毒を盛った者と懐妊した二人の妃を殺した者。

 しかし、その動機がいまいち理解できない。前者なら瑞王に対する復讐と考えていい。後者は懐妊した妃を妬ましく思って。


 ——が動機だと思っていた。


 李順儀以降、体調不良を理由に夜伽を断る者が多くいたようだ。そのためか茶会以降、懐妊した妃嬪は一人としていない。それはつまり、懐妊することで殺される可能性が高いということ。


(いえ、二番目に殺された李順儀様が妊娠していることは、亡くなった後に発覚しました)


 下手人だけ李順儀の懐妊を知っていたのだろうか。いや、月のものが不順ならば李順儀本人も気づいていなかったはずだ。


(交友関係? けれど、お二方は温和だと聞いております。特に林徳儀様は神経質ではあるけれど、争いごとは苦手な方だと……)


 死人に口なし、という言葉をひどく実感させられた。


(幽鬼とは本当にいるのでしょうか?)


 次に考えるのは宴席で語られた高貴妃の宮にでる幽鬼について。

 雪玲は生まれてこのかた、幽鬼の類を見たことがない。幼い頃は死んだ家族に会いたい一心で、寝る前に祈ったことがあるが彼らは会いに来てはくれなかった。

 だから、幽鬼なんていない。それが雪玲の考えである。


(みなさまの意見だと、実在しているように聞こえます)


 実際に体験した者が複数いることが気になる。


(見に行ってみましょうか?)


 高貴妃の宮は後宮の端に位置する。ここから遠いが歩いていける距離だ。


(百聞は一見にしかず——こういうのは自分の目で、耳で確認すべきですよね)


 悪い癖だと自覚していても、好奇心を抑えることは難しい。

 雪玲はゆっくりと身体を起こすと隣室にいるであろう侍女の様子を探るべく、耳を澄ませた。微かな寝息が聞こえる。眠っているようだ。

 次に臥室前にいるであろう、宦官の気配を探る。茶会事件以降、就寝時、妃嬪の室の前には宦官が警備に当たることになっており、雪玲の護衛を務めるのは白暘だ。浅い息遣いと心音が聞こえることから今夜もしっかりと護衛の任についているようだ。


(いつ寝ているのでしょうか)


 昼間は翔鵬の側仕え、夜は雪玲の護衛。本人がいうにはその間々に休息を挟んでいるようだが、普通の人間ならとうの昔に倒れていてもおかしくはない。


(まあ、顔色も悪くないですし、放っておいて問題はないでしょう)


 そう判断する。遠い、異国の出である彼の素性は詳しくは知らないが鍛錬でも積んでいたのだろう。

 臥台を鳴らさないように細心の注意を払い、立ち上がる。足音を忍ばせて鳴家から送られてきた外套がいとうを手にすると、羽織り、窓へと向かった。

 贅沢な玻璃はりをはめ込まれた窓を優しく押すと冷たい風が入り込んできた。乱れた髪を耳にかけて、地面を覗き込む。大人一人分の高さはあるが、問題はないと判断して飛び降りた。


「——っ!」


 足に響く衝撃に、顔を顰めて耐える。声を出せば侍女はともかく、白暘に気付かれてしまう。


(よし、バレていませんね)


 誰も来ないことに安堵して、歩を進めようとするが、聞き馴染んだ心音が側にあり、雪玲は足を止めた。


「おや、どちらに行かれるんですか?」


 穏やかだが淡々とした声色。獅子のように勇ましいが、氷のように冷たい美貌が月光に照らされ、輝いている。


「……あら、白暘様。月が綺麗でしたので散策にでも行こうかと思いまして」


 苦し紛れの言い訳だと理解はしているが、ここで馬鹿正直に「高貴妃の宮にでる幽鬼を見に」と言えば呆れられるに違いない。

 白暘は、いつもと同じ完璧な笑みを浮かべている。なんとなくだが困っているように見えた。


「体調はもうよろしいのでしょうか?」

「ええ、ゆっくり休みましたから」

「確かに美しい月ですね。散策日和という言葉がよく似合います」


 白暘は空を見上げた。


「私の故郷は月を神格化しており、こういう月夜の際はよく王族の方は散策を楽しまれておりました」


 おや、と雪玲は顔を上げた。白暘が故郷の話をするなんて珍しい。


「反対に太陽は嫌われております」

「なぜです? たいていの国では太陽も神格化されているのに」

「さあ、どうしてでしょうね」


 その問いかけに答えず、白暘はまたもや顔に笑みをく。


「では、散策のお供はこの私、白暘が努めましょう」


 冗談ではない。白暘が同行するなんて、高貴妃の宮に行けなくなるではないか。


「……すぐ、戻ってくるので」

「私の任務はあなたの護衛です。誰かに会いにいくためでも、私はあなたの側を離れません」

「ただの散策ですのに」

「情報収集ではなくて、ですか?」

「あら、こんな夜遅くに起きている方がいるのですか?」

「夜警の者ぐらいですね。妃嬪の皆様や侍女達はもう夢の中でしょう」

「ですから、ただの散策ですって言ってますよね。少し歩いてくるだけです。すぐ戻ってきますよ」

「あまり騒ぐと珠音に気付かれてしまいますよ?」


 意地悪く、白暘は口角を持ち上げた。

 確かにこの場に長時間、滞在して騒ぎたてれば隣室に控える珠音に気付かれてしまう。そうなれば絶対に説教の時間は朝まで続くこととなる。


「翔鵬様に密告したりしません」

「……別に。密告していただいてけっこうです」


 どんなに嫌がっても付いてくる気満々な白暘から目を背ける形でそっぽを向く。外套を肩にかけ直すと庭園を歩きだした。


(やはり、付いてくるのですね)


 背後を付いてくる白暘を盗み見る。二十歩ほど間を置いて後を付いてきてくれるのはありがたいが、そうするなら一人にして欲しいと雪玲は思う。


(振り切ろうかしら?)


 入り組んだ庭園を使えば、可能だ。

 だが、そうすれば翔鵬に報告されてしまう。


「……白暘様、こちらに」


 悩んだ末、雪玲は自らの隣を指差した。


「よろしいのですか?」

「ええ、別にやましいことはありませんから」


 前を見据え、歩きながら答える。

 そう、やましいことはない。ただ、好奇心から行動しているだけなのだから。


(さりげなく、高貴妃様の宮の近くを通りましょう)


 それなら散策のついで、と理由がつけれる。


「バレていないと思っていましたのに。なぜ、私が窓から出たと分かったのですか?」

「茶会でのご様子を遠くから伺っておりました。その時、妙に思い詰めた表情をしていたので珠音に何があったのかを聞き、高貴妃様の幽鬼について興味をお持ちになったと推測したのです」


 雪玲は深く息を吐くと空を仰ぐ。否定しようにも確信がある言い方なので、否定するだけ無駄だ。


「……聡いですね。嫌になるぐらい」

「あなたはご自分が思っている以上に顔や態度にでますから。遺体の肌の色も気にされているようですが、彼らはもう土の下。見に行こうにももう骨になっていて、その証拠は残っていません。ならば、こんな夜更けに出かけるのは高貴妃様の話が本当かを確かめるため、と考えれます」

「ならばもういいです。散策ではなく、高貴妃様の宮に向かいます」


 雪玲が睨みつけると、白暘はこれまたいい笑顔で受け流す。


「ええ、ご同行いたします」

「断っても付いてくる気なんでしょう」

「ご命令ですから。——と、この先は避けましょう。宦官がいます」


 白暘は石畳の小径こみちを指差した。この小径がどこに進むのか分からないが、両端を垣根かきねに囲まれているため人目を避けるのには好都合だ。


「この先は高淑儀様の殿舎がございます。ご本人の意向で、夜警の者は三十人ほどおられます」

「では、避けた方がいいですね。それで、この道はどこに続くのですか?」

「この先には李恵妃様の殿舎がございます。その庭園を突き抜けてゆけば、高貴妃様の殿舎に最短で迎えます」


 小径を進んでゆくと、鮮やかな赤い殿舎が姿を現した。李恵妃に与えられた仙華せんか宮だ。

 その入り口には夜警の宦官と思わしき男が二人、その周辺にも五人の宦官が歩きまわり警戒していた。

 姿を見られないように外套の襟を引っ張って、顔を隠す。できる限り、周囲の木々の影に隠れるようにして移動した。


「白暘様、この先はどっちに進めばいいのですか?」


 元々、進む予定の道ではないので方向が分からない。


「こちらです。私の後に付いてきてください」


 今度は白暘の後を追いかける。薔薇の小径を進むと高いへいにぶつかる。


「さあ、こちらに」


 白暘が塀の上に飛び乗り、手を差し出してきた。

 その手を握り、地面を蹴り上げ、塀に登る。すると白暘は不思議そうな顔をした。


「なんでしょうか?」

「いえ、身軽な方だと思いまして」


 次に地面に降り立つ。


「山登りをよくしていましたからね」

「身体が弱いのに?」

「昔は、弱かったのです」


 今は丈夫ですよ、と付け加える。


「そういう事にしておきましょうか」

「そういう事にしておいてください」


 しばらくすると荘厳なる殿舎が居を構えていた。

 軒下に吊るされた灯籠には灯りはなく、闇夜に擬態するように静かだ。


「ここが高貴妃様の」

麗鳳れいほう宮です」


 殿舎の住人はもう寝静まっているのだろう。静寂が辺りを包み込んでいる。


「……幽鬼なんて本当にいるのでしょうか?」

「その噂は聞いたことはありますが、四六時中、聞こえる訳ではないそうです」

「どの時間帯が一番聞こえますか?」

「昔は夜に聞こえることが多かったようですが、今は昼間が多いとか」

「次は昼に来ましょうか」

「それは、無理だと思います。翔鵬様から高貴妃様はご傷心のため、あまり人を近づけるなと言われていますから」

「本当に瑞王様って大切な人になると過保護になるのですね」


 血を分けた彩妍を溺愛する様といい、高貴妃への寵愛といい、その愛は深すぎる。その反面、興味がない人間に対しては適当すぎる。


「おや、誰か出てきますね」


 その言葉に、雪玲は門へ視線を向けた。


「おかしいですね。侍女でも、護衛の宦官でもなさそうです」


 その人物は外套を目深く被っており、この距離ではその顔は分からない。体型から宦官ということは分かるが。


「……これは、翔鵬様に伝えるべきですね。高貴妃様の殿舎に入る際は翔鵬様の許可が必ず必要ですので」

「こんな夜更けにどうしたのでしょうかね」

「さあ、誰であろうが今夜、麗鳳宮に客人がくることは私は聞いておりません。鳴美人様、戻りましょう」

「ええ、そうしましょうか」


 二人は踵を返して、来た道を辿る。


(噂は本当でした)


 雪玲の耳にはしっかりと届いていた。殿舎の奥深くから聞こえてくる子供の泣き声を。


(それに、はなんのために?)


 雪玲の目は確かに捉えていた。麗鳳宮からでてくる、青文墐の姿を——。

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