第3話 雪に沈んだ男


 枯れた木々の間をぬうように進み、凍った湖の上を歩き、道なき道を進んでいると雪深い渓谷けいこくに辿り着いた。

 反りだつ崖から飛び出した雪庇せっぴが陽光を遮り、あたりに薄暗い影を落としている。その中で見慣れた緑色が視界に入り込み、雪玲はほっと胸を撫で下ろした。


「馬酔木、心配しましたよ」


 岩に止まった馬酔木は何かに集中しているためか雪玲の問いかけに気づかない。

 何度も呼びかけるが馬酔木は依然いぜんとして何かを一身に見つめるのをやめなかった。ため息を吐くと雪玲は自分の足に体を擦り寄せる蓮華を抱きかかえた。触れられるのが大好きな蓮華が嬉しそうに両目を細めて、喉を鳴らす。その喉を指先でくすぐりながら馬酔木へと向かう。


「いったい何を見てい——」


 そのまま近づくにつれ馬酔木が集中しているの正体に気付き、雪玲は小さく驚愕の声をあげた。


「——人?」


 一人の男が雪上に倒れていた。

 馬酔木との距離はおよそ七尺(約二メートル)。ほんの短時間でも十分に死に至らすことができる距離だ。その証拠に男は指ひとつ動かさない。力なく腹這いになっている様子から男の死を悟った雪玲は目尻を釣り上げると岩の上に居座り続ける馬酔木を睨みつけた。


「あなたがやったの?」


 雪玲の問いかけに、馬酔木は軽やかなさえずりで「そうだ」と答えた。


「家族を守るため戦ったの。けれど……」


 雪玲は眉根に皺を寄せる。


「人を襲ってはいい理由にはならないのは賢いあなたもよく分かっているはず。彼は武器を持っていません。ただ知らずにこの山を訪れただけですよね?」


 怒気を孕んだ物言いに、馬酔木は気まずそうに視線をそらす。雪玲の怒りが己に向いていると分かっている様子だ。

 怒りから逃れるためか馬酔木は颯爽さっそうと岩の上から飛び降りると雪玲の元に駆け寄り、脚に首を擦り付けて甘え始める。

 その背をひとなでした雪娟は来た道を——洞穴の方向を指さした。


「さあ、蓮華と共に戻りなさい。この人のことは私に任せて」


 羽ばたきが聞こえなくなると雪玲は腰に手を当てて男を見下ろした。うつ伏せで顔は見えないが帽子からこぼれる黄金の髪と袖から覗く褐色肌から彼が瑞人ではなく胡人こじんであると予想をつける。


「この方、どうすれば……」


 密猟者ではないのならきちんととむらってあげたいが男の素性が分からなければどうしようもない。

 雪玲は悩んだ末、男の側に膝をついた。うつ伏せで亡くなった男の背には雪が積もっていた。上空を見上げれば、反りたった雪庇の一部が欠けている。どうやらその欠けた雪が彼に降り注いだようだ。

 雪を払うと黒色の上衣うわぎが顔を覗かせた。防寒のため、綿が詰められた上衣は羊毛で織られたものらしい。麻や木綿でないことから高価な一品であることは違いない。


(胡人だとしたら身分は限られているのだけれど……)


 奴婢ぬひにしては豪奢な装いをしているし、商人にしては過剰に着飾ったりせず地味な装いをしている。密猟者や狩人にしては武器らしい武器を手にしておらず、邑人なら鴆が生息する山に入ってくるなんて間違ってもしないはず。


(お義父とう様なら誰か分かるでしょうか?)


 どんなに悩んでも男の素性は一見して分かる情報から予想することは難しかった。雪玲は商人として各国の行商人との交友がある義父なら男を知っているのではないかと考える。

 それならば話は早い。男を屋敷まで連れていき、義父に助言を頼もう。雪玲が男をかつぐため、冷たくなった腕を持ち上げようとするが、


「……えっ」


 死んで冷たくなっているはずの腕が微かに持ち上がった。脈に指先をあてると弱々しくはあるが血が脈打っているのが指先に伝わり、雪玲は瞠目どうもくする。


(なぜ、あの距離ならば確実に死んでいるはずなのに)


 ——ずっと息を止めていた?

 否、経口より効果は弱いが鴆毒は経皮からでも吸収される。息を止めたとしても、先程の馬酔木との距離を考えれば十分に相手を死に至らすことができるだろう。


 ——死後硬直が解けたのか?

 否、死後硬直が解けるのは死亡から二日経たなければならない。男の背に残った雪、雪原に残された足跡から彼がここに来てそう時間が経っていないと予想できる。


 男の腕を掴んだ状態で、雪玲はぐるぐると頭の中を渦巻く考えを一つ一つ消していく。浮き出た考えを否定するように男の腕の震えは酷くなり、生きていることを実感させられた。


 ——なら、毒に耐性があった……?

 これが一番、現実味のある答えだ。鴆使いの董家以外にも生まれつき毒に耐性がある者や鍛錬を積み耐性を得た者はいる。この男もそうなのだろう。


(毒に耐性がある人間など、家族以外会ったことありませんけれど、これが一番の最適解ですね)


 無意識のうちに雪玲は唇の端を持ち上げた。


(ああ、なんて私はついているのかしら)


 自分の幸運に感謝をする。毒の耐性がある——それも鴆毒に耐えうる事ができる者と出会えるなんて、亡くなった父の思し召しかと思えた。

 喜ぶ雪玲をよそにひゅっ、と男の喉が鳴った。浅く、深く息を継ぐ様子から男が意識を取り戻したと察した雪玲は男の肩に手を添えて、呼吸をしやすい体勢に変えてあげた。


「だ、れか……いる、のか」


 雪玲の耳に届いた言葉は苦しみと恐怖で震えていた。身体を蝕む毒と、雪の冷たさはいかに屈強な体躯を持つ男でも恐ろしいようだ。


「大丈夫ですか?」


 雪玲は男を安心させるべく、たおやかに微笑み、優しく声をかけた。


「今、お薬を用意しますね」


 背負い袋からいくつかの小瓶を取り出して雪の上に並べていると男が雪玲の腕を掴み、「逃げろ!」と叫んだ。


「はやく、逃げろ……! ち、んがいる」


 そう言い終わると同時に腕を掴む手は力が弱くなり、雪に沈んだ。雪玲が声をかけても意識を完全に失った男は反応を返さない。

 しかし、かろうじて生きているようで浅く呼吸を繰り返している。雪玲が睨んだ通り、男は毒に耐性があるようだ。

 けれど、


(このままじゃ死んでしまいますね。でも、困りました。冬場とはいえ、鴆毒には解毒剤がありません)


 鴆は餌を介して得た毒性物質を体内の毒胞と呼ばれる器官に蓄積させる特性を持つ。その時、得た毒性物質によって鴆毒の効能は変わり、神経に作用する蛇毒を得た鴆の毒は同じように神経毒となり、出血作用を持つ蛇毒を得た鴆の毒は同じように出血毒となる。与える餌を指定して厳しく管理していた董家と違い、ここは自然界。木の実、果物、きのこに虫と鴆が食べたであろう餌は多岐に渡る。

 そのため、その毒主である鴆が食べた物が分からないことには解毒剤は作れない。

 雪玲は男に起こっている症状を観察することにした。

 男は意識を失っているが唇ははくはくと忙しなく動いている。指先や足先等、全体的に痙攣に似た症状が見られるが、これは低体温症になっていることも要因の一つと考えていい。何度か嘔吐を繰り返したようで、口元や袖には吐瀉物としゃぶつがついている。今は吐き気も治まったのか気持ち悪そうな様子はない。心臓は弱ってきているけれど、しっかり動いている。脈拍は不規則だ。瞼を持ち上げると瞳孔は開いており、わずかに揺れていた。


(馬酔木の好物は果物系で、確かこの少し先には果樹園があったはず)


 馬酔木が主食としているのはおそらくあんずだ。

 けれど、杏が実をなすのは六月から七月。主食にしていても蓄積された毒は薄れゆき、今の季節には微々たるものだ。


(虫、木の実……。確定はできませんが一か八か作るしかないですね)


 男の身に起こる症状を足がかりにして、雪玲は解毒剤の作製にとりかかった。

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