欠陥だらけの岸宮くん
小田
第1話
「よう、陰キャボッチの
すれ違い様に腹を殴られ、教室の壁に背を打ち付ける。
周囲はその光景を見てゲラゲラと笑う。続けざまに何発か来ると思ったが、運がいいことにチャイムがそこで鳴った。
そのことにホッとしていると、その安堵している俺が気に入らなかったのか、殴ってきた
「次の休み時間も覚悟してろよ」
と言い残し自分の席に戻っていく。
その背中を見て、そして周囲の暴力行為を止めようともしない人間を見て、俺は思う。
――ああ、今日は、世界は平和だ。
次の日。金曜日。
クラスメイトの
――どうして?と疑問が俺の中に湧く。
俺は昨日、確かに、羽崎を古河から守った筈だ。
虐めの標的になった俺が学校を休む道理はあっても、虐めから逃れた羽崎が不登校になる理由はないはずだ。
俺はふと昨日のことを客観的に分析してみた。
◆
木曜日。ガヤガヤと喧しい教室の中。
教室の前方の方で一人の男がサンドバックにされているのもいつも通りだ。
殴られているのは羽崎という、丸眼鏡を掛けて太った男だ。
そのでっぷりと突き出した腹を殴られる度にボヨンという音が聞こえてきそうだ。
俺がそう思うくらいだから、殴っている男たちはさぞかし楽しいだろう。
殴っているのは男三人組。格の高い方から古河、
古河が二、三発殴った後に近くに居る金髪を長く伸ばした縦ロールの女に声を掛ける。
「おい、
そうすると広瀬と呼ばれたギャルは失笑する。
「冗談でしょ?あんたみたいに手を汚したくないし。…あ!いいこと思いついた。
突然の指名に、浜辺という、クラスでも大人しい黒縁眼鏡の少女は身を竦ませる。
「わ、私、ですか…?」
「アンタ以外に誰がいるっていうの?」
「わ、私は…」
クラス中の視線が彼女に集まる。
俺自身もその答えに興味があった。
しかしその答えよりも興味を惹くものが、この世にただ一つ、ある。
「俺が」
そう言って手を挙げながら立つ俺をクラス中は奇異の視線で見つめる。当然だろう。
普段から俺はクラスで目立たない。
休み時間も授業中も、無難に、静かに時間を過ごしているという自覚があった。
そして勘違いしないで欲しいが、俺は浜辺を庇いたかった訳じゃない。
過去に浜辺と関係を持っていたということにもない。
心から浜辺がどんな決断をするのかに興味もあった。
ただ、それ以上にアイツの“その状況に陥ったときの顔”が見たかったのだ。
「えーーっと…、おまえ、名前、何だっけ?」
顔を引きつらせながらクラスの男トップグループのナンバー2である黒崎が問うてくる。
するとナンバー3の大平が笑う。
「おまえ、クラスメイトの名前も覚えてないのかよ!えーっと、
「
俺が一言そう訂正しつつ、クラスの前方に歩き始める。そうすると空気が若干変わるのを感じる。
「岸宮」
しかしその若干カオスな空間でも変わらない男がいた。
クラスのナンバー1である、古河だ。古河はその赤色に染めた髪を肩の辺りまで伸ばした、目の鋭い男だ。
「おまえの選択を見せてみろよ」
そう言い放つと、目を一層鋭くさせる。
「ど、どういう意味すか」
黒崎が天然気味な質問を古河にぶつけるが、古河は答えない。
どうやら古河でも理解できていないらしい。
――俺がこれから誰を殴ろうとしているのかを。
でなければ、目だけを鋭くさせるような愚行はしない。
古河の目の前にたどり着く俺。
俺はそのまま俺が拳を振り上げる。
古河の口元が緩む。
――ああ、おまえは思っているだろうな。貧弱な男に殴られたところで掠り傷にもなりはしないと。
――だがそれは、殴られる対象が男の場合だろう?
俺は思いっきり拳を振り上げ、足を動かした。
女である広瀬は携帯に目を落としている。
「――は?」
振り上げた拳を、広瀬の顔面に叩きつけた。
「ぎゃっ」
悲鳴を上げる広瀬。
背面にあった机を巻き込み、地面に叩きつけられた広瀬のメイクは既にボロボロだ。
俺はその顔面に、二度とクラスのトップカーストに返り咲けない傷をつけるべく、二度目の拳を浴びせようとするが、その振り上げた右手を誰かに掴まれる。
――古河か?流石は雄のトップというだけあって行動が早いな。
そう思い殴られることを覚悟して振り向いた俺の視線の先には、何故か眼鏡をした――男がいた。俺を止めたのは古河でも、黒崎でも大平でもなく――丸眼鏡の、羽崎だった。
「は…?」
意味もなく呟かれた俺の声は、混沌とともにクラスから霧散している。
その後、俺は庇った羽崎の代わりにクラスのサンドバックになったのだった。
◆
思い返してみても分からない。
何故羽崎が俺を止めたのか。
広瀬はどう考えても加害者側だったはずだ。そいつを殴ったのが悪かったのか?
それとも女を殴るのは羽崎の信念に合わなかった――とか?
金曜日の六限中、俺はずっと羽崎という男についての思考を巡らせた。
今日の放課後のサンドバック役は俺だろうが、それは羽崎が学校に来ていても同じことだろう。
仮に俺の思考の詰めが甘かったとして――、羽崎に暴力の手が回る事があったとしても、昨日までより酷くなるとは到底思えない。
少なくとも殴られる対象がふたりに増える訳だから、戦力は分散されるだろう。
そこまで考えたところで、六限目を終えるチャイムが鳴った。
すぐにその場を去ろうとする担任教師に向けて、俺は声を掛ける。
「おい、おまえ――」
俺を阻もうとする黒崎だったが、
「やめとけ」
古河の声に止められる。
「広瀬が休んでるのはアイツが殴ったからだ。俺たちに落ち度はねぇよ」
大平のその声は教師にも届いているはずだが、教師はそれを追及したりしない。
このクラスは教師を含めて腐りきっている。
だが、腐りきっているからこそ、発酵し、新たな成果を生むこともある。
◆
「本当なのか?おまえが広瀬を殴ったというのは?」
古河の目が無くなった途端にこれだ。
俺は担任教師である女――
桜井は黒髪を腰のあたりまで伸ばした女だ。
歳は30代半ば頃だろうか。
「広瀬は来週にでもなったらすぐに復帰しますよ。
顔は無事ですから、不登校になることはアイツのプライドが許さないでしょう」
「あなた…」
呆気にとられる桜井。今まで注視していなかったが、なかなかの美人だな。
「広瀬のことはどうでもいい。問題は羽崎です。
――単刀直入に言います。先生、羽崎の住所を教えてくれませんか?」
「羽崎くんに…あなたが何かをしたの?」
「それは…まだ、分かりません。
ただ、間接的に俺が関与している可能性は、あります」
「……」
桜井は戸惑いの表情を浮かべている。しかしそれはあくまで、表情だけだ。目の色は好奇心を隠しきれていない。
このまま押せば――そう思ったところで、
「あの」
職員室にいる俺たちに声を掛けてくる者がいた。
俺のクラスメイトである、黒縁眼鏡の浜辺だった。
「少し岸宮くんと話があるんで、いいでしょうか?」
そう遠慮がちに、しかし普段の大人しいだけの様子とは違って迷いのない色の瞳をしている浜辺。
「ええ、いいけれど…」
渋々といった感じで俺を見送る教師は、やはり年齢不相応に若々しい好奇心を覗かせていた。
◆
「岸宮くんが探しているのは…。今日羽崎くんが休んでいた理由、ですよね?」
「まあ、そうだけど」
心の中を読まれているようで落ち着かないな。この女は一体、何がしたいんだろうか?
「私、分かるような気がします」
「え?」
「ですから、羽崎くんが学校を休んだ理由、です」
「…教えてくれないか」
「はい、教えます」
一々癪に障る女だな。もったいぶらずにさっさと…。
「羽崎くんは、自分の役割を貫きたかったんじゃないでしょうか?」
「…は?」
予想もしていなかった答えに、俺は間抜けな声を出してしまう。
そんな俺を置き去りにして、彼女は話を続ける。
「今まで彼が望んで虐められていたとは言いません。
ですが、彼には彼の身の振り方があり、このクラスになってからは虐められることを通じて他人と交流を図っていた…という風には考えられませんか?」
「それは…俺がまるで考えなかった理由だな」
「でしょう?きっと、私と羽崎くんはどこか似ています。私たちふたりは、どこかで変化を拒んでいる。
それに対して岸宮くんは、変化を受け入れているように見えます」
「俺が?変化を?」
一体一日で俺の何を理解したというのだろう。
「ええ。今まで大人しくしていたのも、あのクラスをいつか変えて見せる…そんな信念を隠していたからなんじゃないかと、私は思っています」
この女、まさか…。
昨日の俺の行動が、自分のために起こした出来事なんじゃないかと思っているのだろうか。
さながら王子様が姫を守るように、俺が浜辺を守ったんじゃないかと。
だからこそ、今まで知らなかった、知ろうともしなかった俺のことを、英雄に見立てている。
英雄であって欲しいと願っている。
「それは違う」
思わず口を吐いて言葉が出る。
「違うんですか?」
「あ、いや…」
しかしこの女に好きに思われても、損することはないだろう。
今後何かの役に立つかもしれない。
「勘違いしないでください」
しかし俺のそんな思考を読んだように、浜辺は言う。
「私は昨日の岸宮くんの行動に感謝しているわけではありません。
昨日私、広瀬さんに質問されましたよね?『あなたも羽崎くんを殴らないか?』みたいに。
あのとき、岸宮くんが行動を起こさなかったら、私は断るつもりでした。
それが私の役割ですから。…だってそうでしょう?
あの場で私が『じゃあ殴る』なんて言ったら、それはどう考えても異常なことですから」
「別にいいんじゃないか?」
「え…?」
言うべきことは他にもあったはずだ。広瀬からの提案を断れば、そのときは女子たちの間で浜辺に対する虐めが始まるんじゃないかとか。
でも俺は今、いちばん伝えるべき言葉を伝えることにした。
「おまえが広瀬の提案に乗っかって羽崎を殴ってもよかったと思う。
そうしたら俺はその流れに乗じて広瀬を殴っていたかもしれないし。
……いや、その可能性はないか」
「?」
「もしお前が羽崎を殴ったら、そのときは俺がおまえを殴っていた気がする」
そう言うと、浜辺は一瞬ポカーンとした表情を見せ、一気に噴き出した。
「岸宮くんって、真面目な人ですね。
そういうことは思ってても普通、言わないものですよ?」
確かにそうかもな。そう思いながらも、浜辺の笑顔を見て俺は感じる。
――それはこの学校に入って初めて感じる高揚感。
本当の笑顔を、素直な感性で受け入れることの幸福感だ。
そしてどこか別の所で直感していた。
羽崎が学校を休んだ理由を、俺は既に知っている、と。
そしてその答えを知ったとき、目の前の女がどんな反応をするのか見てみたいと感じてもいた。
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