第13話 さとり
冷たいキッチンで誠士郎は苦手な朝を迎えた。
目元にはは涙が渇いた跡がはっきりと残っている。
誠士郎は夜通し現実を拒みながら、泣いていたのだ。
いつの間にか首元にはカサブタが作られていた。だが、それに誠士郎は気づかない。
長時間同じ体勢ととっていたことと、固い床のおかげですっかり固まってしまった体を、ゆっくりと動かす。
背中を伸ばすだけでも痛みが走った。でも、痛みがあるということは、自分は生きている。
どんな現実であろうが、これからも生きていかねばならないのだ、と誠士郎は落ち着いた思考を取り戻し、立ち上がる。
一瞬くらっとしたものの、体はしっかりと動く。
「時間……」
キッチンから見える壁掛け時計に目をやる。
それはこの部屋に引っ越してきてから放置していた段ボール箱にあった、シンプルな時計だ。
誠士郎が仕事に行っている間に、理歩が見つけてセットしていたものだった。
それが示す時刻は午前九時を過ぎていた。
今日は平日。何もなければすでに始業しているはずの時間ではあるが、今の誠士郎に仕事へ向かう気力はない。
こんな精神状態のまま、親の言いなりになってやっている仕事に、行きたくなかった。
――ブーッ。
もう一度、今度はベッドに横になろうと誠士郎の足が寝室へ向かっているとき、今度は誠士郎の荷物の中から振動音が聞こえた。
無断欠勤している仕事先、もしくは親からだろうかと思った誠士郎は、画面を見ることもしなかった。
――ブーッ。
続くバイブ音。しつこいくらいになるので、しぶしぶスマートフォンを手に取る。
このまま切っておこう。そう思ったのだ。
だが、画面に表示されていたのは、会社でもなければ、親でもない。
誠士郎と果歩を結んでくれた友人、篠原総太の名前だった。
友人の連絡を無視する訳にはいかない。
明るい話ならそれはそれでいい。今の暗い気持ちを変えてくれそうだから。
暗い話だったなら、後にしてもらおう。聞いていたら余計に落ち込んでしまう。
誠士朗は通話のボタンを押して、耳に当てる。
『よお、今、大丈夫か? というか、お前が大丈夫か?』
「電話は大丈夫。だけど、精神的には、大丈夫……とは、言い難いかな」
普段は明るい声の総太が、心配そうに聞く。
それに対して誠士朗は悲しい声を振り絞る。
震えた体を支えてくれる人はいない。ただ一人、ベッドに身を投げる。
『だよ、な。俺も今、果歩ちゃんが死んだことを知ってさ……』
総太は知っていた。いや、今知ったのだと言う。
仲を取り持った二人を引き裂くような出来事を知り、心配になって電話をかけてきてくれたのだ。
もし、誠士朗が果歩の死を知らなかったら。そんなことは考えもしないだろう。
知っていて当たり前。そのつもりで、話し
続ける。
『事故……なのかな?』
「え?」
『いや、ほら……明らかにおかしかったじゃん。あんな時間に一人で歩いてるなんて……』
誠士朗は果歩の死因を知らない。
今この電話口で、初めて亡くなった理由を聞かされた。
事故。
それも人があまり歩かないような時刻に起きた事故であることが読み取れる。
痛かっただろう。
苦しかっただろう。
そう思うと、胸が締め付けられるように苦しくなる。
『こんなことをお前に言うのもおかしいとは思うんだ。だけど、だけどさ。言っておいた方がいいと思ってッ……!』
総太は悲痛な声をあげた。
仲のいい彼がこんな声を出すことは、大学時代からの付き合いの中で一度もなかった。
それだけ彼の中に、溜めたものがあるのだろう。
「大丈夫……話して」
誠士朗の声は、かすれていたがしっかりと伝わった。
総太は小さな声で「ごめん」と言ってから、抱え込んでいたものを吐き出す。
『調べたんだ、果歩ちゃんが巻き込まれた事故のこと。そうしたら、さ。おかしいんだよ、全部』
「全部?」
『ああ。これでも俺、果歩ちゃんとは付き合い長え。亡くなったのなら、葬儀の知らせが来てもおかしくない。なのに何もなかった』
かいかぶりすぎではないか。
そんなことは思わない。
誠士朗は総太と果歩、そして理歩が、中学校までの同級生であることを知っているのだ。
だから、付き合いが長いと言われても納得できる。
それに彼の住む場所は、彼女たちのの家の近くだ。
ご近所付き合いもあるから、訃報が届いてもおかしくない、そう言いたいのだろう。
『それだけじゃねぇ……果歩ちゃんは……』
「うん」
『ひき逃げされたんだよ……未だに、捕まってねぇ。もう、一ヶ月も経ったのに、手がかり一つねぇんだ』
『……え?』
ひき逃げされた?
犯人はまだ、のうのうと生きている?
誠士朗の脳では、処理しきれない情報が錯綜する。
『事故が起きたのは、駅からも、家からも離れた場所だ。なんでそこに果歩ちゃんが行った? しかも深夜に。果歩ちゃんがそこにいた理由は? 全部おかしいんだよっ!』
「落ち着いて……言ってることは、わからなくもないよ。でも、僕は……」
さっき死んだことを知ったから、どうやって死んだのかはわからないんだ。
そう続けたかったが、言葉は思ったように出なかった。
耳元ですすり泣く総太の声を聞きながら、枕に顔をうずめる。
総太は嘘をつくような人ではないし、馬鹿でもない。
彼なりに調べて、何かしら確信をもっているのだろう。
だが、今の彼に冷静さはなく、言葉にまとまりがない。
それでは話がちゃんと伝わらない。
「……ちょっと、僕も、調べるよ……何かあったら、メールして……」
『……わかった』
通話を終えた。
これで総太は伝えきれなかったことを文章にするだろう。そうすれば、もっとわかりやすく正確に内容が伝わる。
誠士朗はスマートフォンをベッドに伏せて、果歩の死についてまとめる。
そして一つの目的にたどり着いた。
なぜ亡くなったのかを知りたい。
そういう思いが浮かび、重い体を起こして果歩の手帳を開いてみる。
表紙をめくった所に書かれていたのは一年の目標。
みんなが幸せに過ごせるように頑張る。
まるで子供のようなそれに、自然と誠士朗の顔が緩む。
そこからまたページをめくり、週ごとに書くことが出来る日記が始まった。
両親と迎えた新年。
福袋を買いに走った正月休み。
誠士朗とのデートについては、枠をはみ出すぐらいぎっしり書かれている。
その時の服装は、ネイルは、髪型は。
毎回異なるように記録していたようだ。
「……そこまで気にしていたなんて、ね」
何ページもめくって、デート毎の記録によって思い出がよみがえる。
楽しかったな、という感想とともに、寂しい思いが再び誠士朗の元にやってくる。
「あ……」
途中から白紙になった。
日付は今からひと月ちょっと前。
その日に果歩は亡くなったのだろう。
こういう形で命日を知りたくなかった。
最後に印された日記の内容を見る。
そこには突如、誠士朗の名前が書かれていた。
『明日は約束の誠士朗さんへ荷物を届ける日! 忘れずに行くこと! でも、わざわざ誠士朗さんが家でもなくて、駅からも離れた所に来るなんて、どういうことなんだろう? わかんないけど、会えるのが楽しみだな!』
「どういう、こと……? 僕は約束なんて、してなっ……」
果歩に荷物を届けるよう約束した覚えはない。
なのに、果歩は約束を果たそうとしていた。
この、「駅からも離れた所」というのは、総太が言っていた場所だろう。
いつの間にかしていた自分との約束が、果歩の命を危険にさらした。
そうだったら、果歩の死は自分のせいではないか。
血が出るほどに唇を噛んだが、真実を知るためにさらに数日前へ遡る。
そして見つけた。
誰が誠士朗のふりをして、果歩と約束をしたのか。
『誠士朗さんのお母様から連絡が! 誠士朗さん、慌ててうちに資料を置いて行っちゃったみたい! 取りに行くから後で指定する所に持ってきてほしいんだって。誠士朗さん、こんなことするようなあわてんぼうだったっけ? 郵送でもいい気がするけどな』
「違う、違うよ。それは僕じゃない……はっ、まさか……」
数日前に、会社で盗聴した両親のやり取りを思い出す。
そこで二人は、「彼女は事故に巻き込まれた」「彼女は死んだはず」、「現場にいた者に確認を」、「誰と同棲しているのだ」、そう言っていた。
果歩が死んだことを、誠士朗の両親は知っていたのだ。
さらに、事故にあったことまで知っていた。
また、どこで事故にあったかも、そこに誰がいたのかもわかっている。そうとれる発言をしている。
そこまで思い返したとき、全てが誠士朗の中で繋がった。
「果歩ちゃんが死んだのは、僕の親の、せい……?」
わかってしまった途端、絶望感に包まれる。
だが、それはもう充分味わった。
親ならば後でいくらでも問い詰められる。
だから、今は。
彼女の家族へ謝らなければ。
お金のために一人の娘を差し出した非道な親ではなく、親の言葉を受けて自らの全てを投げ出した彼女――理歩に。
「っ、理歩ちゃんっ!」
双子の姉、理歩は妹の死を受け入れ、会ったこともない男の元に身を捧げる決意をしていた。
それは、生きているのに死んでいるのと同義。
自分を殺して、愛されていないとわかっている生活を送った理歩は、さぞかし胸を痛めたはず。
まして、苦しい生活を強いられていたのに、全て誠士郎に知られてしまった。そうしたときに、理歩はどこに行ったのか。
誠士朗は家の中を探し回る。
キッチン、リビング、トイレ、浴室……ウォークインクローゼットやベランダなど人が隠れられそうな場所は全て見た。
だが、そこに理歩の姿はない。
「はぁ、はぁ……理歩ちゃん……?」
玄関まで探しに来てから、やっと気づく。
丁寧に揃えられた理歩の靴がないことに。
それから理歩が外に出たのだと理解した。
「荷物は……ある。近場にいる? いや、果歩ちゃんから聞いていたお姉ちゃんの話は……」
果歩から聞いていた、姉の理歩の話を思い出す。
『しっかりもので責任感が強い。いつだって強くて頼りがいのあるお姉ちゃん。だけど、本当は誰よりも傷つきやすいの。私たちは鏡みたいにそっくりだけど、中身は正反対なんだ』
何気ない会話だった。だが、しっかりと覚えている。
果歩の性格はよく知っている。
嫌な事があったとき、どこかに逃げることはせずにその場で動けなくなってしまうタイプだ。逃げたくても、恐怖でなにもできなくなる。
その反対。理歩はきっと身を隠す。そして一人で思いつめる。
理歩はまだ、この地域について詳しくない。一人になれる場所を知っているとは思えない。
それに人が多いこの地域。田舎で静かに暮らしていた理歩が、落ち着ける場所があるとは思えない。
「でも、彼女がお金を持って行っているようには……いや、ICカードもあるかも……」
果歩の荷物は全て残っている。財布も、スマートフォンも。
一銭も持たずに、遠く離れた場所へ向かうとは考えにくい。たが、交通系ICカードを持っていれば別。予め入っているお金でどこまでも行ける。
彼女はどこに。
誠士郎の頭をフル活動させて考える。その時。
――ブーッ。
スマートフォンが鳴る。今度は電話ではなく、メールが来たことを伝える通知だった。
誠士郎は迷うことなくその通知からメールを開く。
送り主は総太。
先ほどの電話では伝えきらなかったことを、丁寧な文章でまとめられた情報。
総太がおかしいと思った内容と、そう考えるに至った理由。そして今行っていること。
誠士郎は画面をスクロールし、目を通していく。
「もしもし、総太? 僕。実はね――」
誠士朗は持っている情報を共有する。
果歩が亡くなったことを知らずに、果歩の姿を装った理歩と暮らしていたことも伝える。同時に理歩がどこかへ行ってしまったことも。
だから、彼女に今すぐ謝りたいのだと話した。
それを総太は、ただ短く「わかった」と返答する。
「僕は理歩ちゃんがいないか、近くを探す」
『俺は実家とかを探してみる。何かわかったら電話する』
「うん」
それだけ話して通話を切る。
胸騒ぎがする。
掴もうとした手が消えてしまうような気がして、誠士郎は部屋を飛び出した。
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