第11話 探り
理歩は必死に作った笑顔を向けたが、誠士朗は眉毛一つ動かさなかった。
その瞬間、理歩の中に「やってしまった」という予感が走る。これで偽りの同棲生活に終止符が打たれるのか。そうなれば、家族が路頭に迷う。
仕事を無くし、生きがいも無くし、お金もなくなる。生きていく方法がわからなくなる。
自分のせいで、家族を路頭に迷わせる。
自分のせいで。
何度も自分を責めて、後悔に見舞われる。
これで終わるのだ。何もかも。そう思った。だが。
「そうだよね」
すぐに誠士朗はハッとして、くしゃっと遅れてほほ笑んだ。
一瞬だけ、血の気が引いた理歩。全身がさっと冷たくなった。だが、それはほんの一瞬のこと。すぐに笑顔になった誠士郎にホッと安堵の息を吐く。
理歩と同時に誠士郎も安堵していた。
今の反応で疑われてしまっただろうか、という気持ちがあったのだ。変に傷つけてしまわないよう、誠士郎はそっと理歩の手をとる。
しかし、誠士郎の心は穏やかではない。
先ほどの問いで、目の前の彼女は愛している果歩ではない。果歩と共に訪れた場所は数少ない。だから共に時間を過ごした場所を忘れるはずがないのだ。
思い返してみれば、彼女の行動が果歩と違って、引っかかることもあった。
だったらこの人は誰――?
一瞬でそれだけのことを考えた。
だけど、誠士郎はいつもの冷静さを取り戻す。
「……ねえ。他にも色々見に行こう? あっちにも、ほら向こう側にも綺麗に咲いているみたいだよ」
「はいっ」
ほんの一時だけ、冷たい空気になったものの、その後はカップルらしく、共に歩いた。
手から伝わる体温に、心まで温まりながら同じ歩幅で歩く。
綺麗な景色に目をとられながら会話も至って普通にして、理歩にとっては合格点をあげてもいいほどの行動をした。
ヒールを鳴らして、ピアスを揺らす。上品で丁寧なしぐさで、歩く。
果歩ならきっとこうする。私は果歩である。そう言い聞かせて、頭と体をフル活動させた。
しかし、ずっと気を張っているのは変わりない。間違えないように、そして果歩をよそうために長時間神経を張り詰めていたので、誠士郎が運転する帰りの車内で理歩は助手席に座っているうちにいつの間にか眠ってしまっていた。
「すぅ、すぅ……」
自宅まで、まだまだ距離がある。
日が落ちて、さらに気温が下がってきた。
車内は暖房をつけているが、隣で眠る彼女はオシャレに気を使いすぎて薄着である。そのために、誠士朗は信号待ちで停車中、後部座席にある自らの上着を眠る理歩にそっとかける。
「んん……」
理歩が少しだけ動いた。だが、深く眠っているせいか起きる気配はない。
こくりと眠ったまま理歩の頭が前に垂れた。すると、サイドの髪の毛で顔が隠れる。
「お疲れ様」
誠士郎は小さな声をかけて、理歩の顔を見ようと、髪をそっと耳にかけたその時。
「あ……」
誠士郎はハッとした顔を浮かべ、理歩から手を離す。
疑いがさらに確信に近づいたことに悲しみを覚えた。
「……そう、か。君はいったい、誰……どうしてここに……」
理歩から離れた手で、ハンドルを力強く握り締める。
信号が赤から青に変わり、前の車が動き出したことに気づいた誠士朗は、唇を噛みしめながら自宅へ向かうのだった。
★
「……起きて。着いたよ」
「んんぅ……! はっ! ごめんなさい! 途中で眠ってしまって!」
「ううん。気にしないで。疲れているようだったから、僕も起こさなかったんだ。さ、部屋に行って休もうか」
理歩が起こされたのは自宅マンションの駐車場に車を止めてからだった。
慌てて身だしなみを整えるように、手串で髪の毛を整える。眠っている間によだれが出ていたらどうしようと思い、口元に手を添える。
それでよだれが出ていないことを確認した。
「大丈夫だよ。よだれは出ていなかったよ」
「っ……! はず、かしぃ……」
理歩の行動について、誠士郎は全て理解していたようにクスリと笑った。
筒抜けだったことが恥ずかしくなり、理歩は両手で顔を覆う。耳まで赤くなっていることに理歩は気づいていない。
「もう寒いでしょ? 早く部屋に行ってあったまろう?」
「……はい」
恥ずかしいから、むしろ暑いなんてことを言えるわけなく、理歩は言われるがまま車を降り、先陣切って部屋へと向かう。
この時に誠士郎はわざと手をつなごうとはしなかった。
顔を背けながら歩く理歩の背中を、誠士郎はじっと見ていた。
部屋に入るなり、理歩は綺麗に靴をそろえて上がる。
これも果歩ならやるはず、という思いからだ。
果歩に続いて誠士郎も中に入ると、そろえられた靴をジッと見る。
「どうかしました?」
いつもとどこか違うような気がして、理歩は振り返って問いかける。
しかし誠士郎は、「なんでもないよ」と言うのだった。
「荷物を置いてから、お風呂。準備しますね。運転でお疲れでしょうし、リラックスしていてください」
「……ありがと」
理歩はいつもの部屋に、上着や荷物を置くと、腕まくりをしながら浴室へ向かい、風呂場の掃除を始める。
シャワーの音が聞こえてくると、誠士郎も荷物を置こうと部屋に向かう。
理歩と誠士郎は一つの寝室を共有している。
荷物を置く場所もその部屋だった。
「ふぅ……どうしよう、か、な。僕は……」
今後どうしようかと悩みながら、誠士郎はどさっとベッドに腰かけて天を仰ぐ。
電気に照らされた白い天井をぼーっと見つめた。
――ブーッ、ブーッ。
脱力していたとき、誠士郎の前にある理歩のバッグからスマートフォンの振動音が聞こえた。
マナーモードになっているようで、着信音はない。
しばらく続く振動で、バッグの中からスマートフォンが今にも落ちそうになっていた。
これだけずっと鳴っているのだから、これは急を要する電話かもしれない。
だったら早く持っていってあげよう。
そう思って誠士郎は理歩のスマートフォンを手に取った。
画面に表示されているのは『母』の文字。
母親からの電話なら、なおさら伝えたいことがあるはず。
誠士郎はスマートフォン片手に、浴室を掃除する理歩の元へ行こうとしたとき、誠士郎の中で悪魔がささやいた。
――電話に出てみたら、今の現状になった理由がわかるかもしれない。
誠士郎の足は止まり、その目はスマートフォンへと向けられる。
強く脈打つ心臓。震える手。
誠士郎の右手は汗をかきながら『通話』のボタンに触れた。
耳元にスマートフォンを近づける。
すると聞こえてきたのは、女性の声。理歩の母親の声だ。
『やっと出たわね、んもう。何回電話しても出ないし、メールの返事すらしてこないんだから。心配しているのよ、理歩』
電話は誠士郎が好きな果歩へ向けたものではなかった。
母は電話に出たのが娘ではないことに気づかぬまま、べらべらと話し続けている。
どこか悔しい思い。そして悲しみをこらえて誠士郎は空いた右手を力強く握りしめたまま、黙って声を聞く。
『お父さんもね、果歩が死んじゃってから落ち込んでいるのよ。でも、理歩が誠士郎くんを騙してくれているおかげで――』
バタン、と誠士郎はスマートフォンを床に落とした。
果歩が死んでいる。
その衝撃を受け止めきれなかったのだ。
今この家にいる彼女が果歩ではない。それは知ったばかりだが、まさか死んでいるなんて思ってもみなかった。
「せい、しろう……さんっ……? なっ……」
ちょうど浴室の掃除を終え、お湯を入れ始めたため、手が空いた理歩は、リビングにいない誠士郎を探しに来ていた。
そして落下音が寝室から聞こえたため、何をしているのかと覗きにきた理歩は、落ちたものが自らのスマートフォンであることを知る。
また、画面に表示された『母』の文字。
『ちょっと。理歩? どうしたのよ、理歩。聞いてるの?』
落ちたスマートフォンからは、母の声が響いた。
そのスマートフォンを誠士郎は虚ろな目で見つめる。
誠士郎と同居していたのは、愛し合っていた人物ではない。
誠士郎が愛していた果歩はすでに死んでおり、代わりに彼女の双子の姉である理歩が果歩になりきっていたのだ。
自分は騙されていた。
彼女は死んでいた。
そして、目の前にいるのが愛していた彼女ではないことに、気づけなかった。
悲しみ。
憎しみ。
怒り。
恨み。
苦しみ。
負の感情が誠士郎を包む。
どうしたらいいのかわからない。
誠士郎は力なくしゃがみ込んだ。
「ごめ、なさっ……」
全てを知られてしまった。
理歩はもう、この場に居続けることはできない。
そう思った直後、理歩は胸を押さえながら、寝室、そして短い期間を共に過ごしたマンションを飛び出したのだった。
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