ムチの謎

 熊倉の調教にムチが多用というより、ほとんどムチだけで仕上げられてる感じがするのよね。それも調教が進めば進むほど激しくなるんだけど、どう読んでもアリサになった熊倉はムチを喜んでるよね。


 シノブはムチ打たれた経験などもちろんないけど、ムチもあれだ打たれ続けると慣れてしまうのかな。


「アホ言うたらアカン。ムチの痛みに絶対に慣れたり、麻痺したりするもんか」


 エレギオンの女神の中で唯一のムチ経験者がコトリ社長です。コトリ社長はアラッタの女奴隷時代にそれこそ数えきれないぐらいのムチを受けてるんだよね。


「マジで好き放題、叩かれまくったからな」


 ちなみに五千年前のまだ女神になっていない人時代の話だけど、今でさえ、


「叩いた野郎に出会ったら、宇宙の塵に変えたるで」


 だから五千年前の話だって。生きてるどころか、骨だって残ってないよ。でもムチが痛いのは間違いないのよね。ムチ打ち刑は昔からあるし、今だってアラブの国に残ってるらしいけど、ムチは単に痛いだけじゃないのよ。


 百叩きってあるけど、それだけで死んじゃうこともあるし、生き残っても半死半生の重傷状態になるんだもの。見ようによっては、死刑ならぬ半殺しの刑じゃないかと思うぐらい。それぐらいムチの痛みは強いってこと。


 とにかくムチの威力は半端ないのだけど、マリのムチの数は半端どころかトンデモナイ数としか読めないんだ。それこそ滅多打ちの世界だよ。それもだよ、週に一回とかのインターバルを置いてのもじゃなく、熊倉が本部に拉致された三日目から毎日としか読めないもの。


 ムチは食堂から、庭掃除の最終段階に近づくほど激しくなってるで良いはず。良いはずというか、そうとしか読めないもの。ムチの意味だって最初の頃のものならまだ辛うじて理解できる。あれは、ムチの恐怖で熊倉を女になるしか逃げ場がないと心理的に追い込んだで良いと思う。


 だけどね食堂段階以降のムチの理由は難癖にしか見えないよ。あれだけ事細かに決まりをビッシリ敷き詰めて、さらに判定はマリの主観だけ。その気になれば無尽蔵にムチの理由を作れるしマリはそうしてる。


 あれはムチで叩くためだけが目的としか思えないもの。庭掃除段階なんて吊るし打ちで滅多打ちの連日のムチの嵐じゃない。とくに最後の日のムチなんて、百叩きなんてレベルさえ鼻息で超えてるよ。


 なのにだよ、熊倉は翌日には平気な顔して調教に励んでいるとしか読めないんだよ。最後の日のムチなんて、数えきれないなんてレベルじゃないじゃない。じゃあ、マリが手加減してるかと言えば、これまたそうは思えない。なのにだよ、最後のムチの後もマリとの最後の別れを元気に惜しんでるぐらいだもの。


「あれか。まずマリのムチはプロや。すべてが容赦なしの一打や。最初の方は熊倉も苦痛に悶えてるやろ」


 それはそうだけど、


「まずやな神が作った女は普通とは違うんよ」


 それはわかる。誰もが桁違いの美人になるし、歳も取らずに若いまま、体力だって落ちないものね。老化するのは妊娠できなくなるのと、寿命の制約から逃れられないことぐらい。


「体かってそうやろ」


 シノブは子どもも産んでるけど、体形がまったく崩れないだけでなく、乳首だってピンク色のままだし、あそこだって綺麗な筋が一本だけ。黒ずむ様子なんてまったくないもの・・・たく何を言わせるんだよ。


「だがそれだけじゃ、ムチに耐えられん」


 そこまで言わせといて、耐えられんのかい!


「あれはドゥムジが編み出して、ゲシュティンアンナに伝えた秘術やろ」


 どんな秘術かと聞いたら必要は発明の母だって。あのマリのムチだけど、他に誰に揮っているかと言うと当たり前だけどドゥムジなんだよね。ドゥムジの力ならムチを避けるのは朝飯前だけど、


「そういうこっちゃ。避けたら意味ないやんか。マリの滅多打ちを喰らうのに意味があるんよ」


 そういう趣味だからそれを認めないと仕方ないけど、ドゥムジとて宿主にしているのはタダの人間なんだよね。ムチを喰らえば痛いし、体にダメージが確実に蓄積するし、下手すりゃ、宿主が死んじゃうかもしれない。


「そうせんためにはどうするかや。ムチは痛くなければドゥムジに意味はないし、痛いムチを受けすぎると、次のムチを受けるまで回復期間がいるやんか」


 要するにドゥムジは熊倉が最終段階でそうなったように、マリのムチを受ける事が喜びになり、毎日でも受けたくて仕方がなるってことか。マゾもここまで来ると理解を超えすぎるよ。


「連日のムチを受けれるように、傷口とかが異常に早く回復するとかですか」

「それしかないやろ。どうやったら出来るか想像も付かんけどな」


 コトリ社長はさらに付け加えて、この回復能力は、ムチを受ければ受けるほど高まっていくはずだとしたんだよ。結果としてそう解釈する以外はないのは同意。


「そうやな。最終段階やったら、ムチの痛みこそ同じでも、打たれたそばからすぐ回復していったんちゃうか」


 不死身の回復能力だけど、そうじゃなきゃ説明出来ないのもわかる。


「これもたぶんやけど、痛みが強くなるほど喜びが強くなるのもあるはずや。言うとくけどな、まともにムチ喰らったら恨みしか残らへんで」


 はいはい、それは良く存じてます。コトリ社長の経験は置いといて、マリの目的が見えてきた。ムチを打ち続ける事によって、神の秘術の能力向上と、それにともなう被虐の喜びを熊倉に与え続けたのか。熊倉は自分の精進によってそうなれたと思ってるけど、実は神の手のひらの上で踊らされていただけかも。そこからコトリ社長は何かに気づかれたように、


「いや熊倉はなんらかの適性を評価されたと思うで。シノブちゃんが考えたマリのムチの意味は大筋で正しいと思うけど、誰をぶっ叩いても、ああならへんはずや。ああなると見込まれたから熊倉はマリに委ねられたんや」


 たしかに熊倉は見込まれたと言われてるものね。じゃあ、じゃあ、わざわざ最後の晩餐をしたのは、


「マリのムチやけどあれは普通のムチやない」

「あんまり痛くないとか」

「逆や、恐ろしい程の痛みのはずや。なんちゅうても神のムチやからな」


 ああ、そうだった。ドゥムジの性転換は子どもまで産めるぐらい完璧だけど、その代わり性転換した女を神にする必要があったんだ。もっとも神と言っても、ミニチュア神よりはるかに薄くて、


「ようあんな神が作れるかと思うほど薄々なんよ。シノブちゃんにわかりやすいように言えばコンドームより薄い」


 そんなに薄いのか。昔のと比べたらビックリさせられるものね・・・だから、薄いの例えにコンドームを出して来なくても良いじゃないの。まったくもう、つい乗せられた。そんなことはともかく、神であるマリが繰り出すムチが神のムチであり、これが激烈に痛いのはわかるとして、


「回復の秘術を開花させるにはマリの神のムチが必要やったんやと思う。だがな、そのためには熊倉がそうなったようにムチをタメになるものとして受け入れんとあかん」


 コトリ社長もあくまでも結果論での読み方としてたけど、最初に熊倉はムチの痛みに悶え苦しんだけど、ムチ自体に対する反発はなかったとしてるんだ。たしかにムチの痛みに恐怖してるけど、というか誰だってすると思うけど、すぐにムチの数を減らす方向への努力に動いてるもの。


「あそこで熊倉がムチ打たれる事自体に反発心を抱いていたら、ムチが始まって二日目に死んでたんちゃうか」


 その日は熊倉が最後の反抗をしてビシバシに叩かれまくったけど。


「あの時に熊倉はムチに屈服したで良いと思う。言い換えれば、ムチ打たれる事を前提として受け入れたんや」


 以後はひたすら受け入れて行ったと読めなくもない。えっ、えっ、えっ、もしかして、


「失敗も多かったはずや。ひょっとすると熊倉が初めての成功かもしれん」

「だから最後の晩餐を」

「あれはマリの憐憫やったかもしれん」


 マリはドゥムジの妻。サディストの奥さんの貞操観念なんて想像も出来ないけど、神の妻であるのに不貞は普通はしないよね。人の妻も当然そうだけど。だとすると、あえて熊倉に最後の晩餐を与えたのは、これから殺してしまうかもしれない熊倉に最後の情けをかけたのか、


「サディストの憐憫やからああなったと思うで」


 単純には喜ばしてくれないってことか。だとすると熊倉はマリがついに作り上げた芸術作品みたいなものか。だったらもっと大事にしてあげれば、


「マリなりに大事にしたんやろ」


 どういうこと。変態狒々親爺のオモチャに売り飛ばされるだけじゃない。


「だから世界観が違うって。マリは教養でそういう世界に棲める事こそ理想と叩き込んでるはずや。それに相応しい世界に送り込めば熊倉は幸せしか感じん」


 マリが熊倉に教えた教養はマゾヒズムの喜びで良いと思う。それも熊倉がマゾヒズムの喜びを知りかけたのを狙ってやってるのもわかるのよね。そして見事に助長させて目指すべきマゾ奴隷像を憧れの対象として熊倉に抱かせてるもの。


「これもわからんが、熊倉の調教は食堂だけで十分と思わんか」


 どんなのがマゾ奴隷の完成かなんてわからないけど、


「庭掃除はマリの温情に見えてまうんよ。マリかって熊倉がどうされるかはよく知ってたはずや。その世界でどういう扱いをされるかもや。その世界により馴染みやすいように、さらなる仕上げをあえてやったぐらいや」


 でも庭掃除をやっていたのは熊倉だけじゃないはず。他に女は見えたとなってる。


「ああそれか。食堂の時に熊倉はマリが見せたくないものを見れなくなってるんや。熊倉は庭に他の人がいるのは気配でわかったかもしれんが、巫女は一切見てないはずや」


 そう言えば、マリとの別れの時に、館で会ったとしてもマリとは二度と気づけないとしてた。わかったぞ、熊倉が食堂に進んだ時点で、コックとか、ウエイトレスは見えなくなってたんだ。だからマリは食堂に連れて行ったんだ。


「幸せはな、外から見るもんやない、自分で感じるもんや」


 熊倉のゴールは最初から決まってたから、そこで幸せにしか感じないように仕上げ切ったってことか。だからマリはトコトン仕上げるまで、ゲシュティンアンナを待たせたかもしれないのか。もう、この辺になるとわかんないよ。

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