第18話

 店内をぐるっと見渡せる一番奥の角席で、美香はキッシュセット、僕はミックスサンドセットを注文していた。

「カズくん、昔っからサンドイッチ、好きだったよね」

「そっか?・・・いや、うん、そうだね。言われれば、そんな気がする」

「何で?」

「『何で?』って言われてもねぇ・・・。何でだろう?何でだと思う?」

「?」

「な、美香にも分からないんだから、俺に分かる訳ないじゃん」

「!」

 クスクス笑う僕に、目を丸くして可笑しそうに美香が言う。

「それは逆でしょ。カズくんに分からないんだから、うちに分かる訳がない、でしょっ。相変わらず、変なことばっかり言うのね」

 本当は当時ミックスサンドばかり注文していたのには、ちゃんと理由わけがあった。

 単純にパンが好きとか、そういうことではない。

 言ってしまえば、もっと単純だ。

 この店「ルビー」では、基本的にフードメニューはカウンター後ろの厨房で、マスターか厨房担当のスタッフが調理をしていたが、サンドイッチとピザに関しては、カウンターのアルバイトの女の子の仕事だった。

 単純だ。そういう理由だ。

 余り意味があるとは思えない『今日は酸っぱい気分だから、ピクルス倍にして』とか、『BLTじゃなくて、BLサンドにして。あ、でも、ボーイズラブじゃないよ。トマトを抜くだけだよ』とか、『サラダのドレッシングは、イタリアンとフレンチと中華をミックスで』、そんな冗談半分の会話で、美香の気を惹こうとしていただけだ。

 喧嘩している時もそうだった・・・。

 思い出した・・・。そんな時でさえ、僕はサンドイッチばかり注文していた・・・。

 今はいいや、そのことは。


「ところでさ、美香」

「どうしたの?」

 デザートのイチゴのムースをスプーンで掬う手を止め、美香が顔を上げる。

「あのさ、こないだ、ええっと、一昨日おとといの晩、岸本さんと何の話を・・・」

 僕はずっと気にはなっていたが、この二日間、美香からその話が出ることは無く、僕の方が痺れを切らした格好だ。

 美香がその瞳を、嬉しそうと意地悪そうを綯い交ぜにしたようにキラリと輝かせる。

「そうそう、岸本さんの話、しなくちゃだったよね。でも、半分くらいは、カズくんには言っちゃダメだって・・・」

 美香の瞳の意地悪の度合いが少し増した気がする。

「え?何々?そんな感じ?」

「うん、そんな感じ。でも、岸本さん、可笑しいんだよ。『もし俺が女だったら、間違いなく、Tomyさんに惚れる』って。あ、一個言っちゃった」

「なんだそれ?」

 岸本さんは何の話をしてるんだ?

 意味が分からないでいると、美香は続ける。

「カズくんさ、もう二年くらい、国立病院、通ってる?」

「え、あ、ああ。え?何で・・・」

 あれ?

 美香は今、岸本さんから聞いた話をしている筈。

 ってことは、岸本さんは僕が約二年前から、僕が国立病院に通っていることを知っているってことか?

 何で?

 誰にもそのことは話していない筈だぞ・・・。僕は病気で病院に通っている訳ではなく、抑々他人に話すことでもない。


 大学時代の知人が、交通事故で骨折して入院したという話を聞いて、近くだからと見舞いに行ったのが約二年前。大学卒業から日も浅く、知り合いといえばまだ大学時代の友人の方が多かった。

 そしてその見舞い帰り、たまたま病院の掲示板で見掛けたボランティア募集の貼り紙を眺めていると、ひとりの中年女性に声を掛けられたのだ。

『興味、お在りですか?』

『いえ、別に・・・』

 僕はそう言ってその場を離れようとした。

 その時、少しばかり異質な集団が病院の待合室に現れ、その一角の空いたスペースに簡易の折畳み机を並べて作業を始めた。

 何かと思えば、それは障害者施設の入所者による、パンやクッキーの販売だった。

 そのまま僕はその前を素通りしようとした時、作業中の若い男性にぶつかってしまい、彼は彼が手にしていた袋詰めされた調理パンを三つ、床に落としてしまったのだった。

 僕は慌ててそれを拾い上げ、その彼に手渡そうとしたのだが、彼はかなり勢いよくぶつかったことに驚いたのか、それとも僕が威圧的に見えたのか、怯えたような表情を浮かべて、そのパンを受け取ろうとはしなかった。

 僕は仕方なく、そのパンを持って、長机一番端の簡易レジスターが設置されているレジ係と思しき人の所へと向かう。

『これください』

 すると背後から、『いえ、そんな、いいんですよ、そんな・・・』と、僕の購入を止めようとする先ほどの中年女性の声がした。

 その声に振り返った僕は、『いや、ちょうどお昼だし、お腹空いてたんで』、そう答えて360円を支払い、その場を後にしたのだった。

 アパートの部屋に帰って、昼飯替りにそのパンを食した僕は、病院で見たボランティア募集の貼り紙を思い出していた。

 確か、毎週火曜日、金曜日の正午から販売って書いてあったな。その販売補助のボランティアってことだったよな。

 特にそのパンが死ぬほど美味かったとか、何かに心揺さぶられたとか、そんなことでは全くなかった。

 ただ何となく、僕は次の金曜日、国立病院に足を運び、火曜日に声を掛けられた中年女性に、翌週からボランティアとして手伝いに参加したいとの意思を告げた。

 別に社会貢献だとか、使命感だとか、そんなものは感じていない。

 そして、いつの間にか、二年が経っていた。それだけだ。


 でも、何でそんな話を・・・。


 美香が笑う。

「カズくんてさ、昔っからそうだよね。大事なこと、言わないよね」

「いや、大事なことって・・・。ボランティアやってるなんて、別に大事でも何でもないだろ・・・。ってか、何で岸本さんがそんなこと知ってて、然も美香に話してんの?」

 特に隠していた訳でもないし、ただ言いそびれただけだ。先週は長期連休の絡みもあり、火曜日だけの販売で、次は連休明けに再開ということになっていたので、水曜日に訪ねて来た美香に話すことも無かった。

 それに、美香と再会してから今日ここまで、美香とのことだけで頭も胸も一杯で、そんなことはどうでも良かったというのが正直なところだ。

 実際、話す気も無ければ、思い出しさえしなかった。

 それよりも、何故に岸本さんが?だ。

「岸本さんの彼女さんが、看護師さんってこと、知ってるっしょ?」

「ああ、知ってる・・・。え、まさか、国病の?」

「そう、まさかの」

「ええっ、岸本さんそんなことひと言も言ってなかったし、岸本さんの彼女だって、何回かお店で会ったこと有るけど、国立病院勤務とか言ってなかったぞ」

「ビックリした?」

「いや、ビックリっていうか・・・」

 言葉に詰まる僕を見て、美香がクスッと笑う。

「ね、やっぱり岸本さんが言った通り。カズくんが固まっちゃうから、『俺は敢てTomyさんにそのことは言わないんだ』って、そんな言ってた。うちも、『分かります』って、言っておいたよ」

 隠し事がバレた訳ではない。隠れてやっていたつもりも無いが、確かに言われてみると、誰かにそのことが知れてしまうと、天の邪鬼な僕は、何となく手伝いに行くことを辞めてしまっていたかもしれない、そう思える。

 ただ、今はそんなことはない。

 この連休が明けた最初の火曜日には、必ず国立病院に行くであろうことは、今、確信を以てそう言える。

 でもやはり、何だか少しばかりの恥ずかしさがあるのも事実。

「別に、隠してた訳じゃないし、それに、俺はそんな、良い奴じゃないよ」

「うん、知ってる」

 美香が何故だかとても嬉しそうな笑顔で僕を見詰め返すので、僕は思わず目を逸らしてしまう。そして、ふと気付いて、もう一度美香の方に向き直る。

「ん?『知ってる』って、どっちを?隠してないってこと?それとも良い奴じゃないってこと?」

 美香はそれには答えずに「あははっ」と、声を立てて笑った。

 僕もそのことをどちらかハッキリさせようとした訳ではないのだが、はぐらかされた格好なのに悪い気分ではない。いや、寧ろ、何か、柔らかくて暖かい、優しい空気に包まれているようだった・・・。


 その後は岸本さんが美香に話したアメリカンジョークのことや、岸本さんのおもしろ体験談だったり、たまの日曜に僕も参加する新聞社のフットサルチームの話なんかを、美香は可笑しそうに僕に話して聞かせた。

 僕の知っている話も半分くらいは有ったけれど、美香が楽しそうに話すのその表情と仕草に見惚れているばかりの僕。

 そんな事をしている内に、何の気なしに目を遣った店の壁掛け時計は、いつの間にか午後一時を到に過ぎていた。

 僕は少し心配になる。

「美香、もうこんな時間」

 僕が左腕の腕時計を美香に向けると、美香も「やだぁ」と、その瞳を見開いた。

 僕は美香のその様子に少しホッとすると同時に、ちょっとだけ寂しくもなる。

 美香が僕の言葉を『もう家に帰りなよ』と受け取って、昔のように機嫌を損ねるんじゃないかと思う気持ち、そして『帰りたくない』と駄々をこねて欲しかったような、そんなことなのだと思う。

 ハッキリと気持ちを言葉に変換するのは難しい。

 でも、恐らくはそんな感情が、僕の中に在ったのだと思う。

 そして、暫く黙ってしまった美香が、不意に真剣な眼差しで口にした言葉は、僕が全く予想もしていなかったことだった。

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