前章
一 「アルビスという少年」
アルビス・メンシズ十歳は、講義を聞いている。左手は頬杖、右手の万年筆は静止して久しい。
「旧王国時代に、この二つの『活性魔術』が編み出されたことで、我々のような魔術士という職ができたわけですね。略して『魔術』や『活性術』と呼んだりもします。生物に干渉することで怪我や特定の病気を治したり、植物の生長を促したりできるのが『生命活性魔術』。物質に干渉して、水を氷に変えたり火の勢いを強めたり、あらゆる変化を起こさせることができるのが『属性活性魔術』です。まあ、長いのでほとんどの場合『生命術』『属性術』と呼びます」
十五帖あまりの室内に、教育担当の魔術士の声が響いている。教卓が一つに、机と椅子が七組。七、八歳ぐらいの子供達が、真剣な表情で教士の声に耳を傾けている。この春から城内の育成所に通う、王宮魔術士を目指す子供達だ。その中で、アルビスだけが明らかに年長で、背丈も他の子供達より頭一つ分大きかった。
チラリと、窓際一番前の席に座る後ろ姿に視線をやる。派手な青い髪は肩の辺りで切り揃えられ、その背中は姿勢良く教士の方を向いている。もともと育成所に通う気はなかったアルビスが、こうして年少の子供達に混じり退屈な講義を聞いているのは、すべてこの生真面目な弟、サフィラに起因する。
こんなもの、彼もとっくに知っている内容だろうに、と、アルビスは欠伸を噛む。本音を言うと、今すぐ自室へ帰りたい。昨日書庫の本棚の下で見つけた、見たことのない言語で書かれた本が部屋で待っているのだ。
「生命術も属性術も、誰にでも扱えるわけではありません。とても大事なことですが、この二つの魔術を使うためには三つの条件があります。ここは誰かに答えてもらおうかな?じゃあ、このままだと眠ってしまいそうなアルビスくん、どうぞ」
柔和な笑顔で突然名を呼ばれ、アルビスは固まった。そういえば、ファヴラーとかいう名前のこの魔術士は、物腰が柔らかく人当たりもいいが、戦場に出ると人が変わると母に聞いたことがある。怒らせてはいけない部類の人間かもしれない。
姿勢を正し、一つ咳払いをし立ち上がる。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ緊張して室内を見渡すと、きらきらと期待のこもった眼差しでこちらを見つめているサフィラと目が合い、物凄く、いたたまれない気持ちになる。居眠りさせないために名指しされた人間に、なぜそんな目を向けて来るんだと問いたい。
「今日からお前は『兄』になる。仲良くするんだぞ」と、ある日突然父から告げられた。アルビスが四歳になった誕生日の夜だった。母の腕に抱っこされた「弟」の、髪と眼の色がとても綺麗だと思ったことを、よく覚えている。そして、それが父にも母にも、自分とも似ていないと思ったことも。成長するにつれて、子供がある日突然産まれてくるわけではないことを知った。父も母も何も言わないが、少なくとも弟が母とは血が繋がっていないことは、なんとなく理解した。なぜこの時「両親と」ではなく、母だけが違うと感じたのかはわからない。今にして思えば、アルビスと父オルニトとの確執は、この頃から既に始まっていたのかもしれない。
「魔力、媒介、あと術式……です」
「はい、50点。説明不足。詳しくどうぞ」
揶揄うような教士の喋り方が面白かったのか、くすくす、子供達が笑う。なんだ、他にも答え知ってるやついるんじゃないか、と、アルビスはため息をついた。すごく、面倒になってきた。早く済ませよう。そう決めて、大きく息を吸い込んだ。
「まず、魔力がない人に魔術は使えません。媒介は、基本的に手か声かグリモア。干渉したいものに直接手で触れるか、術式を唱えるか、術式を記したグリモアと呼ばれる本に魔力を流すことで術が発動します。昔は手か声の二択だった。手が一番手っ取り早いけど、届かない所にあるものに干渉したいなら術式を唱える。でもそれも時間がかかるし目立つ。それで考案されたのが、グリモア。魔石という魔力を通す石を砕いて作ったインクで術式を書いておいて、使いたい時に魔力を流す。術式って言うのは、何にどういう干渉をして、それとの距離はどれくらいで、どのぐらいの大きさのものかを表した文章みたいなもの。『組む』って言い方するけど、術式がちゃんと組めてないと魔術は正しく発動しない。だからグリモアに書き留めておく術式は、基本的に距離とか大きさは省いて、実際使うときにその二つを頭で組む必要がある。ので慣れないうちはすごく難しいから要練習。まあ生命術の場合はアニマを見る必要があるからあまりグリモアは使わないけど」
しーんと、室内が静かになった。子供達が無言のままぱちぱちと瞬きをしている。間違えているはずはないが、何かおかしなことを言ったかと、つられてアルビスも瞬きをする。
「では、『アニマ』というのは?」
さっきより笑顔になったファヴラーが続きを促した。三つちゃんと答えたのに、と、アルビスは少し憤慨する。
「物質にはなくて、生物にだけある命の流れのことです。どういう物かについては口では説明が難しい……肉眼とは違う『天眼』と呼ばれる眼を持った人にしか見えないから。まあ、ここにいる人達はみんなわかると思うけど。天眼には見方が二つあって、広い視野で生物の存在だけを見る『
「あー、アルビスくんストップ」
ファヴラーの静止の声に、アルビスはハッと我に帰る。ああ、またやってしまった。
知識欲だけが突出して強い、普段は物静かなこの少年を、彼の母は「三大欲求の敗北」だと言っていつも可笑しそうに笑う。ファヴラーから同僚の魔術士である母へ、今日のことが伝わらないようアルビスは祈った。
「アルビスくんありがとう。ところで……きみいくつだっけ?先生びっくりしてひっくり返りそうだったよ」
「……わかりづらかったですか?」
「むしろ逆。明日からきみに教えてもらおうかと思っちゃったよ。でも、みんなにはちょっと難しかったかもね」
見ると、サフィラ以外の子供達は、皆頭上に疑問符が浮かんで見えそうなほど、困った顔をしていた。確かに、彼らにとっては初めて耳にする単語ばかりかもしれない。代々魔術士長を務める家に生まれ、物心ついた頃から魔術と共にあった自分達兄弟とは違うのだ。アルビスは顎に手を添えて、起立したまま少し考えた。馴染みがないなら、一度実際に見せた方が早いか。うん、それがいい。
アルビスは、徐に机に片手をついた。そのまま机を注視する。白銀色の髪が、風のない室内でふわりと持ち上がった。
「まず、これが属性術。媒介は手」
アルビスが告げると、机の表面がボコボコと波打ち始めた。そのまま少しずつ形が変わっていく。子供達が息を飲む中、アルビスの机はファヴラーの前にあるような教卓に姿を変えた。
「で、こっちは生命術。媒介は声」
淡々と口にして、ファヴラーの教卓に置かれている花瓶を指差す。その中に生けられたラナンキュラスの束へ向けて、アルビスの唇が何かを紡いだ。すると、束の中の一輪が急速に色を失っていき、ドライフラワーのような姿になった。頭を垂れた花の先から、パラパラと花弁が落ちる。そして、教卓の上に散らばった種からスルスルと芽が伸び、あっという間に花瓶の中の物と変わらない美しい花を咲かせた。子供達が歓声をあげる。その中の一人、サフィラの隣の席の少年を、アルビスは一瞥した。上の前歯が一本、抜けている。
「最後、これも生命術。媒介はグリモア」
机の引き出しに入れていた文庫本ぐらいの大きさの本を取り出し、少年へ向けて開いた。ページが勝手に捲られていき、最後のページでぴたりと止まった。小さな白い光が少年の顔で弾ける。直後、口を押さえてモゴモゴと驚いたような声を出していた少年が顔を上げると、空洞が出来ていた歯列に、綺麗な新しい歯が生えていた。
よし、これならちゃんと伝わっただろう。
「グリモアはあとで全員に配られると思——」
「凄い!どうやったの?!僕もやってみたい!」
「ねーねー、もしかしてあなたがメンシズの子?!」
「もう『魔物』と戦ったこともあるの?!」
アルビスが言い終わる前に、わらわらと周りに子供達が集まってきた。あまりの勢いに、面食らったアルビスは半歩後ろに下がった。これは、もしかしてもしかしなくても、更にやらかしてしまったかもしれない。助けを求めるようにファヴラーを見ると、肩をすくめられてしまった。
「とりあえず、アルビスくんには二冊目のグリモア用意しなきゃね。あと、二冊目からは『永久歯を生やす術式』とかは書き込まないでね。絶対使わないから。ちょっと、面白いけどね。ところで——」
今夜きみのご両親、飲みに誘っても良い?なんて楽しそうにしている教士に脱力する。ああ、最悪だ。大人は酒のせいにしてなんでもかんでも喋る生き物だから、きっと明日には父から遠回しな小言を言われる羽目になる。恐る恐るサフィラの方を見ると、彼も席から立ち上がり、控えめではあるがこちらへ拍手を送っていた。なんなら瞳のきらきらもさっきより増している。
(あれ、なんて言ったっけ。たしか……スタンディングオベーションとかいうやつだ。この前連れて行ってもらった王立劇場で見たな。あいつ……どういう気持ちでアレやってるんだろ)
「最悪」はさっき使ったから、最悪の更に下って何て言うんだろう、と、アルビスは明日から講義を欠席することを心に決めた。軽い病や身体の不調なら自分で治せてしまうため、「仮病」という選択肢が与えられていないことが悔やまれる。群がる同期生達を適当にあしらいながら、ラナンキュラスを生け直しているファヴラーが早く講義を再開してくれることを祈った。
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