2-3 あやかしの棲まう商店街

(……大丈夫かなあ、わたし、ちゃんと役に立てるかな)


 洗面所でしゃこしゃこと歯磨きをしながら、美咲は考える。

 明日から朝食を作ってほしいと頼まれたのはいいが、早速食器洗いをすると申し出てみたところ、天宮は「いや」とそれを断ってきたのだった。彼が言うには、炊事の経験はないが掃除や整頓は得意なので、ここは任せておけ、とのことだったが……。


(天宮さんが苦手でわたしが出来ることなんか、ほとんどないんじゃ……?)


 自分の料理の腕なんて、ほとんど家庭科の授業に毛が生えたレベルでしかないし。

 この後の、ナントカばばという怖いあやかしの所へのお遣いにも連れて行ってくれるらしいが、足手まといにならないか不安で仕方がない。それに加えて、出かける準備をするにあたり、の心配事もある……。

 どうしようかな、と思いながら美咲が歯ブラシを動かしていると、後ろから女の声がした。


「美咲ちゃん、おはよぉー」


 見る者を凍てつかせるような氷の美女。雪女のユキちゃんが、昨夜とは違う模様の着物を纏って鏡に映り込んでくる。


「ひゃっ、ユキさん。おひゃようございますっ」


 慌てて口をゆすいで挨拶すると、彼女はくすっと笑って「そんなビビらなくていいわよ」と言ってきた。雪女なのに、その口調はどこか温かみを感じさせる。


「よく眠れた? 二日酔いはない?」


 言われてみればまだ少し頭は重かったが、美咲は敢えて「ハイ」と頷いた。


「ありがとうございます。この浴衣も」


 浴衣と茶羽織をパジャマがわりに貸してくれたことにも改めてお礼を言って、ついでとばかりに、の心配事について美咲は聞いてみた。


「あの、わたし、このあと天宮さん達とお遣いに行くんですけど」

「うん、化け猫のばばさんのところでしょ?」

「ハイ。……でも、服装大丈夫かなって。なんか天宮さん、この時代の女の人の格好は目に毒だって言うんですよ」


 美咲がスーツケースに携えてきた服は、スカートやワンピースなど足を出す格好のものしかない。浴衣姿で顔を合わせただけで「宜しくない」と言ってきた彼のことだ、きっとそんな服装をしようものなら……。


「あの人、ひょっとして膝から下が見えるだけでハレンチとか言わないかなって」

「あー。言うでしょうねえ」

「やっぱり? どうしよ、わたしパンツは持ってないんですよ」

「え? ……あぁ、ズボンのことね。まあいいんじゃないの? 逆に見せつけてあげるくらいで」


 えっ、と美咲が目を丸くすると、ユキちゃんはこちらの恥ずかしさを丸め込むようにふっと笑った。


「あの堅物が何か言ってきたらねぇ、このくらい今時の女子には普通ですー、って、しれっとした顔してればいいのよ。実際、この時代で正しいのは美咲ちゃんの方なんだから」

「……それはまあ、そうですけど」

「大体ねー、『時代が違うから』って問題じゃないのよね、あの大尉の堅物ぶりは」


 はぁっと小さく溜息を吐いた彼女に、美咲は「え?」と首をかしげる。


「でも、軍人さんだから仕方ないんじゃないですか」

「何言ってるの、若い士官さんだって普通は芸者遊びくらいしてたものよ。わかる? 芸者遊びって」

「え、あ、ハイ」


 何となく京都の舞妓さんみたいなものを想像したが、合っているかどうかは知らない。


「それをあの大尉ときたら、いい歳して女の肌を見たこともないって言うんだから。せっかくの男前が勿体ないわよねえ」

「えっ、えっ」


 くすくすと笑いを交えて言う彼女の顔は、こちらの内心を見透かした上で楽しんでいるようで。美咲はぱちぱちと目をしばたかせ、話を飲み込むのがやっとだった。


「まあ、そんなだから、美咲ちゃんがちょっとずつあの堅物を現代人にしてあげて。今更昔に戻れるわけでもなし、命ある限りはこの時代で生きてくしかないんだから」

「はっ、はいっ」


 心なしかシリアス寄りなことも言われ、美咲はこの店での自分の役目を思い出す。そう、天宮が自分のお目付け役を務めてくれるのと同時に、自分も彼を現代に適応させる上でのお目付け役をするように言われているのだ。


(……できるかな、わたしに)


 ユキちゃんと別れて二階の部屋に戻り、スーツケースからいくつか服を引っ張り出して、姿見の前で身体に当ててみる。

 結局、一番ハレンチだと言われなさそうな長丈のワンピースを選んでしまうのが、自分のヘタレなところなんだなと思った。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



「では、行ってくる」


 風呂敷ふろしき包みを携えた天宮の横で、美咲も「行ってきます」と小さくお辞儀する。店主の団三郎ムジナがキッチンの奥から「よろしく」と答え、ユキちゃんが「行ってらっしゃい」と手を振ってくれた。

 あやかしと人間がたむろする店という看板に違わず、昼からは人間のお客さん相手にも店を開けるのだという。団三郎ムジナ達はその準備で忙しいので、お遣いに出てくれる者がいるのは有難い、という話だったが。


『そうは言うけろも、マスターは単に顔を合わせたくないんさ。おっかない弥三郎やさぶろうばばのヤツに』


 天宮と美咲の前をトコトコと歩くアズキが、けけっと笑って言った。

 なんでも、弥三郎婆というのは古町ふるまちに昔から棲まう化け猫で、古町エリア一帯のあやかし達を相手に金貸しのようなことをしているのだとか。カフェ・ムジーナの建物を貸している大家おおやでもあり、団三郎ムジナも頭が上がらないらしい。


(でも、お婆さんなのに弥三郎って。ヘンな名前)


 まあ、ドルフィンの自分が言えたことではないか……などと美咲が考えていると、アズキが歩きながら振り返ってちらりと顔を見てくる。


『あ、コイツ、ヘンな名前だなとか思ってやがるんさ。自分もヘンな名前のくせに』

「えっ。思ってないですって!」


 声を裏返らせる美咲の横で、天宮がじろりとアズキを見下ろした。


「貴様、人の名前にそんなことを言うもんじゃないと言ってるだろう」


 アズキに対してだと意外に乱暴な口調になる天宮に、美咲はびくっとしつつも、「まあまあ」と彼らの間に入った。


「わたしのイルカはいいんですよ、実際ヘンな名字なんで」

「そうか? ふな乗りには縁起が良くていいと思うがな。よく泳げそうだ」

「えぇ……?」


 彼の台詞は時々、突っ込んでいいのかどうか分からなくなるときがある……。美咲が反応に困っていると、すかさずアズキの声。


『大尉の海軍ジョークを真面目に聞いてると身が持たんろ』

(海軍ジョークって何……?)


 そういえば、ユーモアのある発言は海軍好みだとか、よく分からないことを言っていた気もするが……?


「どうせ俺は地口じぐちの苦手な堅物だよ」

『けけっ。そのとーり。ホラ嬢ちゃん、こっちら』


 とりあえず彼らの話を聞き流して、美咲はアズキの先導に従って角を曲がった。

 車二台がやっとすれ違えるくらいの路地を挟んで、両側に色々な店が立ち並んでいる。平日なこともあって人通りはそれほど多くはなかったが、昨夜も感じたように、商店街がシャッター街にならずちゃんと息をしているのが見て取れた。


「よう、軍人さん。その別嬪さんはどうしたんさ?」


 とある店の軒先から一人の男性が声を掛けてくる。ふと見れば、その顔は普通の人間では有り得ないほど赤く、ひたいからは二本の角のようなものが生えていた。


(えっ、妖怪!?)


 この街はあやかしだらけだと聞かされていても、やはり見かけるたび驚いてしまう。天宮はといえば、特に動じる様子もなく「新しい食客だ」と受け答えしているが……。


「へっへっ、ボディガード付きでなきゃ食ってやろうと思ったのに」


 こちらを見て舌なめずりのような仕草をしてくる妖怪に、美咲はびくっと震え上がる。思わず天宮の後ろに隠れるように身を引くと、彼も美咲を庇うようにさっと手を出してくれた。


「感心しない冗談だな」

「がっはは。その子、軍人さんのコレか?」

「まさか」


 妖怪のからかいを天宮はぴしゃりと否定していた。実際特別な仲ではないのだから当たり前だが、そんなにきっぱり即答されると、それはそれでショックのような気もする。


『けけっ。この大尉にそんな甲斐性あるわけないらろ』


 しれっと軽口の応酬に混ざるアズキに、角の妖怪はけらけらと笑っている。


「お嬢ちゃん、気を付けなせよ。この軍人さんみたいに堅物ぶってるヤツほど、一皮剥けばオオカミらっけ」

「は、はい?」

「気にするな。行くぞ」


 天宮に促され、美咲はとりあえず妖怪に小さく会釈してその場を離れた。


「……まあ、妖怪は妖怪だからな。中には行儀の悪いのもいる」

「はぁ……」


 隣の天宮は何でもないことのように言うが、妖怪基準での行儀の悪さがどこまでなのか分からない美咲には、安心していいのかどうか分からなかった。

 そういえば、アズキが言うには、これから会いに行く弥三郎婆というのも、人を食らうあやかしだとか……。


「……大丈夫ですかね、わたし。弥三郎婆さんに食べられちゃわないですかね」

「さあ、どうだか」


 少し冗談めかした天宮の返事。すかさずアズキが足元から言ってくる。


『あの婆ぁはヨソ者に厳しいっけ。けけっ』

「ヨソ者に厳しいって……じゃあ、わたしダメじゃないですかっ」


 新潟の地を踏んでまだ二日と経っていない自分なんて、ヨソ者・オブ・ヨソ者という感じなのに……。まだ見ぬ巨大な化け猫が自分を睨んでくるところを想像して、美咲はまたもぶるっと身体を震わせた。


「まあ、心配は要らんだろう。俺もヨソ者だが、別にどうということはなかったからな」

「え……」


 化け猫のことより重大な情報が出た気がして、美咲は彼の横顔を見上げる。


「やっぱり、天宮さんって新潟の人じゃないんですね」


 ムジナ達のように方言も喋らないし、新潟のことは人から聞いたような感じでしか話さないので、元はここの人じゃないのかなとは思っていたが……。


「俺は横須賀の生まれだ。親父も海軍士官だったからな」

「横須賀……って、横浜の近くでしたっけ」


 うむ、と天宮が頷く。

 横須賀といえば、確か自衛隊とかアメリカ軍とかの基地が有名だったような。彼の時代には海軍の基地があったということだろうか。


「じゃあ、なんで今はここに?」

「まあ、たまたまだ」

「たまたま?」

「この街の風に呼ばれた、とでも言うか」

「ふぅん……?」


 なんだかアヤシイなあ、と感じながらも、あまり突っ込んで聞くのも良くないかなと思い直し、美咲は歩調を速めて彼に追いついた。

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