第27話「キーラのキングフィッシャー」

 戦艦は大量の火砲と分厚い装甲に守られた、洋上の移動要塞である。

 それはただ剣呑な鉄の城というだけを意味するのではなく、即ち戦艦とは艦船であると同時に、大量の人員と大量の物資を貯蔵する拠点であるということも意味している。

 もちろん、自らが消費する武器弾薬、燃料や補修部品の貯蔵が主であるが、時にはこうした大型艦が随伴する小型艦艇に燃料や物資を補給するということもあった。


 戦艦『エジンコート』の最上甲板で、甲板員たちが甲板士官の指揮の下、まるで働き蟻のように動いていた。

 彼女らの半数以上はろくに計算も出来ず、掛け算や割り算といった単純な算数知識も持ち合わせていない。そんな能力を持っているかいないかなど、はっきりと言えばどうだって良い。職務遂行に問題が無ければ、それで必要十分なのだ。

 水兵たちの大半は艦内の備品の個数を数える時も、彼女たちは指で一つ一つ確認しながら一つ二つと律儀に数えるだろう。それでいい。間違いでさえなければ、海軍はそれに納得する。


 だがしかし、兵の教養がどうこうという目線で、ヴィクスは彼女たちを見ていない。艦橋から彼女らの働きと、徐々に近寄ってくるスループ『キングフィッシャー』との距離を目測しながらヴィクスは思う。

 どれほど愚昧であろうと、どれほど小物であろうと、海軍において水兵として役立つのであれば、その者は海軍水兵であり、戦時において戦うことを定められた軍人だ。

 軍人としての力量を、数学や文学で図ることはできない。それが可能であるのなら、クラウゼヴィッツたち軍事家が小難しい文章を書く必要などなかっただろう。世の中には計算し切れぬことがあり、文字で表せぬことがある。


 究極的に、兵の教養は役に立つかもしれないが、あくまでその軍人、人間を彩るスパイスでしかないのだ。どれほど高い教養の持ち主であっても、兵として不適なものは存在する。

 だからこそ、軍隊ではそ人としての精神が尊重される。士官を突き落とすような腐った精神の持ち主は、それに相応しくない。

 軍人として、そして人間として恥ずべき行為だ。厳罰は免れまい。



「……舵そのまま」


「アイアイ・マム」



 マリア・ヴィクスはスループ『キングフィッシャー』の艦長が、上手くやってくれることを祈っていた。

 距離が近ければ近いほどベルヌーイの効果は増大する。接近すればするほど、二つの船体はより激しく引き合い、最悪激突する。

 そうならないよう、スループ『キングフィッシャー』は慎重に、時間を掛けて作業を進めて欲しいのだ。


 旧型で船団護衛に適さぬ自衛能力しか持たない、しかも量産に適していない失敗作と言われても、スループ『キングフィッシャー』は臣民海軍の艦艇の多くがそうであるように実験装備として深々度ソナーが取り付けられており、四十個の爆雷を積載している。

 甲板に乗っている四インチ速射砲Mk.Vは、浮上した潜水艦に対処するためのものであり、ドイツ海軍の補助巡洋艦と殴りあうためのものではない。たった一門の四インチ砲で出来ることなど限られている。

 彼女はまさに小さきものながら、戦艦『エジンコート』という瘦せぎすの老女を、スカートを乱す不埒な潜水艦から守るためここにいるのだ。


 その小柄な騎士が、ここで躓き戦艦に体当たりをかました挙句に骨折して、スカパ・フローに逆戻りと言うのでは笑い話にもならない。

 全長たった七十一メートルのスループ『キングフィッシャー』が、徐々に近付いてくる。全長二百メートルを上回る戦艦の隣に彼女が寄り添うと、その小ささがより目立つ。

 火砲は前述した四インチ速射砲Mk.Vが前甲板に一つのみで、あとはあちこちにあのドラムパンマガジンが特徴的な、ルイス機関銃が対空用に八丁備え付けられているだけだ。



「……状況はどうだ、スヴェンソン?」


「問題ありません、艦長。海上も気圧の方も安定しています」


「そうか」



 一等航海士のリチャード・スヴェンソンにヴィクスは問い、再びその目をスループ『キングフィッシャー』へと向ける。

 信号旗をはためかせながらよろよろと近付く小柄な騎士の艦橋には、提督座上艦に皮肉を述べるほどの恐れ知らずがいた。

 双眼鏡で覗けば、その容姿がよく分かる。


 驚くほど小柄で、着膨れし、似合わない艦長帽を目深に被った女、スループ『キングフィッシャー』の艦長、キーラ・マクレイ大尉。

 針金のような黒髪はどれだけ艦が揺れてもぴくりともせず、半開きな目は眠いのかやる気がないのか、それともそういう目つきに生まれたのか判別がつかない。

 かといって口だけの女かといえばそうではなく、あの一件以降、スループ『キングフィッシャー』は十分すぎるほど優秀にやってくれている。


 甲板での作業と艦の距離を見つめながら、ヴィクスは不安を感じた。いや、不安はいつも感じている。

 戦艦『エジンコート』という張子の虎を預かる身であるならば、それは当然のことだった。その臆病なまでの感性と実直な精神が、ヴィクスという人間の根幹にある。

 本人は気がついていない。むしろ、それを恥じているのだが、その根幹こそがもっとも大事なものなのだ。



「油送管、差込み良し。給油開始します」


「うむ。十分警戒するように」


「アイアイ・マム」



 ナイトウォーカーの報告を聞きながらヴィクスは精神を張り詰める。

 無事に終わってくれれば良い。だが、物事と言うものは最悪があるとき、その最悪に向かってひた走る傾向がある。

 身を滅ぼすほどの最悪な状況に備え、ヴィクスはその華奢な身体を艦長椅子の手摺に寄りかかりながら直立させ、動かず、警戒していた。


 もし、油送管が外れ、なにかの弾みで甲板員が落水したとき。

 信号旗をあげ、汽笛を鳴らし、救助対象をスクリューで粉微塵にしないよう舵をとり、救命ブイと発煙フロートを投下し、アンダーソンターン。

 それを、スループ『キングフィッシャー』にやらせるか、こちらでやるかも考えなければならない。胃か頭に穴が空きそうだった。



「給油、完了しました。油送管回収」


「うむ」



 スループ『キングフィッシャー』の燃料槽は百六十トンの重油が入る。

 小型の哨戒スループであるのだが、機関はパーソンズ式ギヤードタービンで二軸推進だ。

 機関出力は三千六百馬力で、これはより大型のグリムズビー型の二千馬力と比べて遜色ないものとなっている。


 反面、こんな小さな船体に贅沢にもギヤードタービンを備えるという作りは凝り過ぎであり、同型艦は九隻のみ。

 そしてこの先、彼女の妹が産まれることはない。彼女は戦時体制下で量産するには、お嬢様過ぎたのだ。

 鯨漁船がベースのフラワー級の方が、英国海軍には相応しかったのだ。



「潜水艦『L71』は?」


「……必要なし。補給必要なし、とのことです」


「そうか。必要ないならやらんでいい」


「戦艦ではなく本職から補給を受ける、とのことです」


「補助巡洋艦『ヘイリング』から補給を受けるのか? 装具の修理が終わったのなら、我々がやることもなかったではないか。ハワード少将、よろしいですか?」


「んむ、許可する。よろしくやってくれ給え。――そう怒るな艦長、『ヘイリング』の連中も頑張ってるということだ」


「アイアイ・サー。そうですね、つい棘が。ナイトウォーカー少佐、『L71』に了解の旨伝えてくれ」


「アイアイ・マム」



 徐々に離れていくスループ『キングフィッシャー』を見つめながら、ヴィクスは艦長席に腰を下ろす。

 ゆっくりと息を吸い込みながら、ヴィクスは一瞬感じた苛立ちを収める。イライジャ・ヒースコート中尉の提案は真っ当だ。それに、装具の不具合が現場の努力で直ることだってある。完璧に壊れてしまったならまだしも、不具合ならなおさらだ。怒るべきではない。苛立つべきではない。

 補助巡洋艦『ヘイリング』はオンボロの老婆だ。戦艦『エジンコート』が瘦せぎすの老女なら、『ヘイリング』はヨークシャーの緑の丘で羊を世話する太っちょの老婆だ。彼女は『エジンコート』ように大改装を受けることもなく、平時は貨物船として太平洋を駆け回り、北海を旅してきた。


 排水量は三千三百トン、全長は百十五メートルほどだ。

 二機のディーゼルエンジンで一軸推進、申し訳程度に後装式4インチ砲MkVIIを四基、前甲板に単装式ポンポン砲を備えている。

 乗員は貨物船時代の船員たちがそのまま乗り込んでおり、艦長だけが正規の軍人となっている。



「……『キングフィッシャー』に対潜警戒を厳にせよと伝えろ。我が艦の見張りにも、警戒を厳にするようにと」


「アイアイ・マム」



 ナイトウォーカーのはきはきとした応答を聞きながら、ヴィクスは背もたれに体重を預けた。五月も中旬になろうとしている。しかし、敵の姿は見えない。海にも空にも、どこにもいない。しかし、まやかしは既に解かれていた。まだ、彼女たちに実感はないが、それはたしかに忍び寄っていたのだ。

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