西暦1940年
第10話「R4への前座」
一九四○年四月五日
イギリス連合王国 スカパフロー
ヴィンセント・ビスカイト中将のオフィスには、マリア・ヴィクス大佐とその副官ニーナ・マクミラン中佐。
そして臣民海軍所属水上機母艦『ペガサス』の艦長カトリーナ・アリスン大佐、その副官モリー・シェイド少佐の四名が集められていた。
本来であるならばもっと多くの艦長が出席すべき会議は、すでに英国海軍と合同で行っていたため、今作戦に参加する臣民海軍艦艇の艦長と副官のみが呼ばれたのだ。
数カ月前と比べると顔色の悪いビスカイト中将の後ろ、オフィスの窓から見える軍港の居住者たちはその顔ぶれを変えていた。
今では戦艦『エジンコート』と水上機母艦『ペガサス』、そして英国海軍巡洋戦艦『レナウン』、駆逐艦『グレイハウンド』『グローウォーム』『ハイペリオン』『ヒーロー』がその身体を港に繋いでいる。
それらの艦艇は今回の作戦に参加する艦たちであった。
「……ウィルフレッド作戦が開始されるに当たって、君たちをここに呼んだのは、分かり切ったことを話すためでもなく、また叱責をするためでもない。事実を指摘するためだ」
重々しくビスカイト中将が口を開き言った。
「まずはヴィクス艦長、前回の戦闘の報告書は読ませてもらった。完璧ではないが見事な出来栄えだ。そしてこの報告書を読み、私は決定した。今作戦中、臣民海軍艦艇は極力戦闘を避けよ。もちろん、これは〝敵を見たら逃げろ〟というものではなく、回避可能な戦闘リスクにわざわざ飛び込むなという意味だ。戦艦『エジンコート』は義務を果たしたが、練度と技術が不足している。補助海軍とは言え英国の軍であることに変わりはない。無駄に損害を受け、敵のプロパガンダに利用されては本末転倒だ」
ヴィクスは思わず歯を食いしばり、足元からせり上がってくる屈辱感に耐えた。ビスカイト中将が戦艦『エジンコート』の戦いを賞賛しているのはたしかだが、すべてを褒め称えているわけではない。
こうして面と向かって練度と技術が不足していると言われることこそが、ヴィクスと、そしてエジンコートにとっての侮辱であると彼女は思っていた。
乗員がこのことを聞いたら、反乱が起きても仕方がなかっただろう。
しかし、ビスカイト中将の言葉は正しいものだとヴィクスには分かっていた。
事後調査により発覚したことだが、戦艦『エジンコート』の各砲塔に置いて誘爆防止用の砲塔内隔壁が閉鎖されておらず、装薬や砲弾の取り扱いに関しても規則に違反した行動をとっていたことが判明したのだ。
その上、一歩間違えれば爆沈に繋がったであろう違反行為をしてまで向上させた発射速度は、基準を下回るものであったのだから救いがない。
本当なら規則違反で砲塔操作員や砲塔付士官が軍事裁判にかけられても、おかしくはなかったのだ。
それをビスカイト中将がなかったことにした。組織の面目を守るためとはいえ、結果的に中将は戦艦『エジンコート』を守ってくれたのだ。
そんな彼に恩を仇で返すような真似はできない。
「我々は発足当初の目的通りに、英国海軍を補助するのみに留まる。戦艦『エジンコート』ならびに水上機母艦『ペガサス』はこのことを厳にし、今作戦を完遂してもらいたい。特にペガサスは機雷掃海任務や対潜任務とその有用性が高い。くれぐれも気を付けるように」
「了解致しました。――北海の機雷とUボートに比べたら、楽な仕事です」
肩を竦めながらそう言うのは、水上機母艦『ペガサス』のアリスン艦長だった。
セミロングの金髪をポニーテールに纏め、淡い碧眼の垂れ目にがっしりとした、しかし豊満な身体を持つ彼女は、イギリス人というよりはアメリカ人に近しいものがある。
しかしその根は『ペガサス』と同じくジョンブルそのもので、古臭い上に頑固で理想主義者なのだ。
「テムズ河川付近の機雷が一番厄介そうだと自分は聞いています。正規海軍の駆逐艦二隻と、他にも二十三隻ほどやられていますから」
それについてはヴィクスも知っていた。
駆逐艦『ブランシェ』がテムズ河口付近で触雷沈没し、ハーウィック沖で『ジプシー』が沈んだ。
他の二十三隻も同様で、その被害トン数は無視できないものになっている。
また、機雷と同じくUボートも問題だった。
去年の九月には対潜任務についていた航空母艦『カレイジャス』がドイツ海軍のUボートの攻撃を受け撃沈されており、その三日前には航空母艦『アーク・ロイヤル』も雷撃を受けていた。
アーク・ロイヤルに魚雷は当たらなかったが、これ以降英国海軍は正規空母を対潜任務に使用することを止め、その任務の一部を臣民海軍に委託している。
アリスン艦長の言葉を受けて、ビスカイト中将は彼女を睨みつけるようにその目をすっと細め、机の上に置いた右手を握りこぶしに変えながら言った。
その動きを見てヴィクスはふと、ビスカイト中将が煙草を吸っていないことを不思議に思った。
へヴィースモーカーの中将が煙草を控えている。
「そうも言っていられんのだ、アリスン艦長。ドイツのノルウェー侵攻作戦が発動されれば、Uボートも機雷敷設部隊もノルウェーにやってくる。その前に我々がノルウェーを叩かねばならないが、もし万が一、このR4計画が失敗した場合、君らはそのドイツ海軍と対峙することになる。選り好みはやめたまえ」
「選り好みのように聞こえていたのなら、申し訳ありませんでした、中将。何分、補助艦の艦長を勤めていると臆病になりがちなので」
アリスン艦長が肩を竦めると、ビスカイト中将は顔を顰め、下がってよいと言った。
やり過ぎだなとヴィクスは思いつつ、ビスカイト中将の敬礼に返礼し、部屋を出た。
――――
スカパフロー近郊にある町はどこへ行っても潮の臭いがする。
その上、スコットランド特有のなにもない草原や岩肌を露出させる丘などが延々と続き、さらにそこに陰鬱とした雨が加われば、どこに行こうと不運しか待っていないのではないかという不安が押し寄せてくるのだが、慣れてしまうと逆に太陽が怖くなってしまう。
鬱々と灰色の空に包み込まれるよりも、白昼に自分が照らされる方が落ち着かないのである。
何事も照らし過ぎは良くないからなと、昔アリスン大佐は言っていたと、ヴィクスは車の後部座席から外を眺めながら思った。
「アリスン大佐とはお話をなされましたか、艦長?」
隣に座るマクミラン中佐が言った。
運転席にいる臣民海軍司令部付の上級曹長を横目に見つつ、ヴィクスは答える。
「話と言う話はしていない。北海近辺の動向について教えてもらった程度だ。我々はもう四カ月も海に出ていないからな」
「しかし、この四か月は有意義でした。滞っていた精神教育と情勢の説明を艦内水兵に十二分に教え込めましたし、砲撃訓練もできましたから」
「……相変わらず、カントリーのいがみ合いはあるようだが」
「ええ、たくさんです。イングランド人の士官候補生が〝石炭臭いウェールズ人が上へ上がってくるな〟と言えば、横で木曜日砲塔操作要員のスコットランド人下士官が〝馬鹿と煙は高いところが好きってな〟と釘を刺し、士官候補生の背中に唾を吐きかけながらウェールズ人の機関科水兵が〝酒臭いぞ、スコッチ野郎〟と毒づき、北アイルランド人の士官候補生がオレンジ公ウィリアム三世の絵を片手にイングランド人士官候補生の背についた唾を拭い去る、という具合です。どうです、凄まじいでしょう?」
肩を竦めながらマクミラン中佐が言うのに対して、ヴィクスは苦笑しながら頷く。
幾分ゴシップ的な脚色がされてはいるものの、戦艦『エジンコート』の艦内状況はそのようなものに違いない。
人種のサラダボウルという表現があるが、ここに歴史的な軋轢と偏見と皮肉の才能を加えると、戦艦『エジンコート』のそれに近いものになる。とはいえ、それも最初期に比べればまだましと言えた。
最初期は酷いものだった。
軍隊として最低限の規律さえ守れず、各所で猫の喧嘩のような争いが頻発し、海兵隊のカーン大尉があちこちで仲裁に奔放していた。
もしカーン大尉が武器を持った偏見持ちの鉄槌主義者であったら、今の戦艦『エジンコート』はなかっただろう。
それだけ多くの場所で問題が発生し、一歩間違えば武力鎮圧になりかねないものもあったのだ。
今思えば本当に綱渡りだったと、ヴィクスは息を吐く。
今も変わらず、充分に綱渡りをしているが、昔はもっと縄が細く脆かったのだ。
それこそ、その縄の脆さすら自覚できないほどの酷い有様だったのだが。
「凄まじいが、皆、私の家族だ。いつか彼女らが門出する時を考え、我々がしっかりやらねばならん」
「そうですね。よりによって海の上で戦艦に乗る仕事を選んだ女たちですから、少し手ごわいかもしれませんが、我々も同じような道を選んでこうしてやっているわけですので、彼女たちにできないはずがありません。お供します、艦長」
「君がそういってくれなければ、前言を撤回していたところだ、マクミラン中佐」
きょとん、とマクミラン中佐が無防備な表情になったので、ヴィクスはくすりと笑った。
今年の誕生日を迎えれば三十九歳となるヴィクスに対し、マクミランはまだ二十九だが、彼女たちはどちらも既婚者であり、夫がいる。
ヴィクスはふと、こんな無防備な表情を見せる女性を妻に迎えた男は幸せ者だなと思った。聡明な女は年老いてなおも美しいものだ。
マクミランならばきっと老いてなおも高潔で美しい女性になるだろう。
その姿を一度見てみたいものだとヴィクスは思ったが、それは無理だと彼女には分かっていた。
精一杯生き永らえてはいるが、ヴィクスの身体は徐々に蝕まれている。
休暇中にマッサージと点滴を受け、戦艦『エジンコート』の医務室付の軍医に診察もしてもらったが、どうにもならない。
あと何年生きられるか、とヴィクスはスコットランドの風景を眺めながら思う。
死ぬ時はこの風景のように、簡素で整然と死にたいものだ。
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