第九話 開錠
「ものすごく疲れた」
「なかなかお離しくださらなかったですものね……殿下が」
マリアベルとオズワルドは馬車に乗り込むや否やぐったりした様子で背もたれに身体を預けた。日は既に落ち、ウォールランプが淡く室内を照らし出す。
あの後、自領に帰ろうとする二人をエインズはあの手この手で引き止めてきた。
少しぐらいと頷いては面倒事になると察したオズワルドは、薬の使い方はまた一人でランズリン公爵家へ赴くのでその時にと告げ、強制的に部屋を出ることでようやく難を逃れた。
ちなみに城を出る直前、追ってきたマーガレットが「二人の婚姻は本日中に認められるよう、書類を受理させてもらうので心配しないでほしい。本当にすまなかった!」と息を切らしながら約束してくれたので、正式にオズワルドの妻だと胸を張っても良いみたいだ。
マリアベルは少しの不安とともにほっと息を吐き出す。
「……そういえば、よろしかったのでしょうか?」
「何がだ?」
「急ぎのご用事があったのでは? そのために睡眠を削ってまで開錠を行っていたものとばかり」
既に馬車へ乗り込み出立しようとしているところ。何か用事があるのならば今を逃す手はない。しかしオズワルドは首を振って秘匿魔箱を取り出した。
「いや、城の中の人間に渡すものが入っていたわけではないんだ。これは……」
愛おしげに細まる瞳。
「もう、僕の気持ちは伝わっていると思うが、これが最後の一押しだ。解除の道筋は整った。見ていてくれ、マリアベル」
オズワルドの手の平に乗せられた箱が淡く輝き出す。
頭のてっぺんからまるで迷路を描くように線が伸びていく。それが通った後は魔術紋様が浮き出し、徐々に開錠が進んでいるのだと分かった。最終地点の底まで線が伸び全体に紋様が浮き出た瞬間、ぽろぽろと積み木が崩れるように箱を構成していた木々が地面に落ちていく。後に残ったのは一通の手紙だった。
「ふぅ、成功だ。まったく、手こずらされたよ」
オズワルドの声がどこか遠くに聞こえる。
ドクドクと、まるで耳と心臓が直接繋がっているみたいだ。うるさいくらいに跳ねる音が聴覚機能の邪魔をする。顔が熱かった。だが、直接燃やされた時のような不快感はない。
期待と緊張で震える手が、手紙に触れた。
小さな蝶が箔押しされた封筒。剥された蝋も当時の色を残している。そして差出人の『М』の名。何もかも見覚えがあった。知らぬはずがなかった。これは幼いころ、マリアベルがオズワルドに宛てて書いた感謝の手紙だ。
「どうして、こんなものを……」
「僕の宝物だ」
パッと顔を上げる。
「説明は必要かい? 僕の愛しいМの君」
夜の闇はオズワルドの美しさをぞっとするほど際立たせる。しかし海の底を思わせるインディゴ色の瞳は太陽よりも優しく、焦がすような視線を注いでいた。
熱くて、熱くて、溶けてしまいそうだった。
「この手紙の主が僕の言っていた恩人だ。ありがとう、マリアベル。君の言葉が、君の存在が、ずっと僕の支えだった。――もっと、はやくに気付いていれば君を悲しませることもなかったのだが。すまない」
「そんな……、そんな、都合のいい、ことが……」
「嘘だと言うのか? 手紙一通を厳重な秘匿魔箱にしまっていた男に向かって?」
逃げられないよう壁際に押し込まれ、マリアベルの髪をすくって口付ける。
子供が書いた拙い言葉。それでも感謝と親愛、とびきりの尊敬をこめて書いた文章には確かな熱がこもっていた。その熱が新域魔導具の祖、オズワルド・エルズワースをつくったのだ。
まるで都合のいいお伽噺。
――あの頃のわたくしに伝えたら、きっと鼻で笑うでしょう。
マリアベルは夢ではないと確かめたくて、彼の頬に両手をあてた。
伝わってくる、温かな熱。その熱が教えてくれる。これは夢ではないと。
この世で最も尊敬し、愛し、尽くしたい人。その人が今、夫として目の前にいる。最大の愛情を向けてくれている。
「マリアベル。どうかこれからも僕の傍にいてくれ。不安になるのならいくらでも愛を囁こう。僕の一番は、ずっと君だったのだと、何度でも伝えよう」
「オズワルド、さま」
「うん」
「わたくしも、ずっと、あなただけを、想っておりました……オズワルド様の存在が、わたくしの支えでした。あなたがいたから、わたくしは――」
最後まで言葉を紡ぐ前に唇を塞がれる。
初めての時の荒々しさはなく、ただマリアベルを慈しみ、愛おしさを込めた優しいキス。離れた唇から洩れた吐息が混ざりあう。涙の滲んだ目尻にオズワルドの親指がそっと触れた。
その瞬間――。
『ぼっちゃーん、そろそろ出発してもええ?』
ヴィントの明るい声が響き渡った。
ぴくりとオズワルドの動きが止まる。二人はしばらく沈黙したのち、目を合わせてくすくすと笑いあった。
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