第四話 来訪者
「今日、弟が来るらしい」
黒のロングコートとハットを身につけ、ため息を吐き出すようにオズワルドは言った。
本日は所用で出かけると聞いている。マリアベルは支度の手伝いをしながら思考を巡らせた。
オズワルドの弟、アーロン。
彼は現在エルズワース家の当主を務め、辺境伯として優秀な働きを見せているらしい。肉体派であり、ぐいぐいと距離を詰めてくる陽気な男なので、引っ込み思案なマリアベルにはあまり関わらせたくない、と少し前に説明を受けたことがある。
「予定時刻までには帰る予定だが、せっかちな男だからな。もし早く来ても門は開けずに放置しておいていいぞ。では、いってきます」
「いってらっしゃいませ」
マリアベルは頭を下げ、出ていくオズワルドとエレマンを見送る。
これで屋敷にはマリアベルとヴィントの二人だけとなった。彼はアーロンが予定より早くやってきた場合は自分に任せろ、と言わんばかりにぽんと胸を叩いた。確かに人と関わるのは苦手だが、オズワルドの親族に対して逃げ回るわけにはいかない。
マリアベルはゆっくりと首を振って「ありがとうございます。ですが、大丈夫ですわ」と微笑んだ。
吹雪いてはいないが、外は一面銀世界。屋敷に入れなければ風邪をひいてしまうかもしれない。完璧なおもてなしできるかは分からないが、精一杯の努力はしよう。
窓に写った自身の顔――その半分を覆う仮面にそっと手を触れた。
まだオズワルドの前に晒すには勇気がいる。それでも、さすがは彼が開発した塗り薬。表面の凹凸は限りなく小さくなり、少し爛れている程度にまで治まっていた。このままいけば完治も夢ではないだろう。
おかげで人の目に触れる恐怖は少しだけ和らいだ。大丈夫だと自身に言い聞かせる。
「マリアちゃん、無理はせんでええよ?」
「ふふっ、ヴィン様は本当にお優しいお方ですね。けれど、仮初とは言えオズワルド様の妻。夫の留守すら守れずに妻は名乗れませんわ」
「おお、強うなって。お兄さん嬉しいわぁ」
袖で涙をぬぐうふりをするヴィント。
陽気でぐいぐいと距離を詰めてくるタイプというのなら彼も当てはまる。彼のように優しい人ならば気負わず話せるはずだ。
オズワルドが帰ってくるのは夕刻頃。それまでヴィントと一緒に部屋の掃除や夕食の準備などをする予定である。
「手ぇ冷たなるから拭き掃除は俺がやるな。マリアちゃんは掃き掃除担当やで」
「ありがとうございます、ヴィン様。では一階から始めましょう」
ヴィントは精霊なので熱い冷たいといった感覚が鈍いらしい。雪降りしきる極寒のゲニシュット領の水すら平然とした顔で手を突っ込むものだから、最初は驚いたものだ。
マリアベルとヴィントは仕事を分担しつつテキパキと掃除を終わらせていく。無心に取り組むと時間の流れは速く感じるもの。気付けば既に昼を過ぎていた。
「んー! そろそろお昼にしよか」
「はい。では、道具の片づけはわたくしが」
「ご飯の準備は俺やね」
応接室やダイニングルーム、玄関、客室などアーロンが動き回るであろう場所は粗方掃除が終わった。昼食が終わったら夕食の準備だ。
厨房担当はヴィントであるが、最近ではマリアベルもよく手伝いに入っていた。特に今日はアーロンをもてなさなくてはならない。普段より気合を入れて取り掛かる分、手伝いは邪魔にならないはず。
しかし、バケツを持ち上げた途端、ゴーンゴーンとチャイムが鳴り響いた。
「およ? さすがに早すぎんひんか?」
「と、とにかくお出迎えしませんと!」
「道具は見えんとこに隠しておく。マリアちゃんは先に出迎えを。俺もすぐ行くから!」
「ありがとうございます、ヴィン様!」
昼と夕方を聞き間違えたのだろうか。いや、オズワルドに限ってそんなミスをするはずがない。何か理由があって予定が早まった可能性も考えられる。急がなくては。
髪や衣服が乱れぬ程度に小走りで玄関まで向かう。
「お待たせいたしました。……あら?」
ふぅと息を吐いてから扉を開くと、頬を刺すような冷気が流れ込んできた。何もかもが雪に覆われた銀世界。マリアベルは辺りの様子を見回し、不思議そうに首をかしげた。
おかしい。誰もない。雪の上には転々と足跡が続いているので、来客がいたことは間違いなさそうだけれど――そう考えて下を向く。
「きゃあ!」
足元に誰かが倒れていた。
オズワルドの屋敷は人里離れた山奥だ。もしかすると遭難者かもしれない。慌てて身体に積もった雪を払いのけて助け起こす。
しかし、その顔を見てマリアベルは驚愕した。
「……ダミ、アン……?」
寒さで血流が悪くなり、青白く死人のような顔色をしているが、間違いない。彼はマリアベルの元婚約者ダミアンだ。
頼むから婚約を解消してくれと泣いて頼まれたあの日の記憶が鮮明に蘇ってくる。かたかたと小刻みに肩が震えた。胸が痛い。二度と会うことはないと思っていたのに。どうして彼が、こんな場所に。
「マリアちゃん? どうした? 大丈夫か?」
「……ヴィン、さま」
振り向いた顔は酷く青ざめていたのだろうか。
いつもは温かい陽だまりのような瞳が、するりと細まった。「敷地の外に捨てとくか?」淡々とした声で尋ねられる。マリアベルは首を振った。
彼を恨んでいるわけではない。憎んでいるわけでない。ただ、もう一度顔を合わせた時に、化物だと怯えさせるのが怖いだけだ。
「客室へお運びいたしましょう。このままでは凍え死んでしまいます」
「まぁ、マリアちゃんがええなら」
大きな手が上から落ちてきて、ぽんぽんと撫でられる。強張っていた肩から力が抜けた。オズワルドの管理しているこの屋敷は、何もかもが優しい。涙が出そうなほどだ。
「ありがとうございます、ヴィン様。では、急ぎましょう」
マリアベルは立ち上がり、ダミアンの身体を暖める準備に取り掛かった。
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