第9話 君だけだ


「そういう、ことでしたの」


 ぎゅうと胸が締め付けられる。

 マリアベルの身体は誰にも傷つけられない。だからきっと、これは心の痛みだ。

 なんて分不相応な痛みだろう。己の浅ましさに涙が出そうだ。オズワルドに恋をして、恋をした瞬間失恋した。笑い話にもなりはしない。


 ああ、けれど。

 失恋の悲しみなど生涯無縁だと思っていたが、この痛みはなかなかに苦しいものだと知れた。


 ――もし、マーガレットとのご婚約が上手くいかなければ……。


 王太子の婚約者とはいえ結婚が確約されたわけではない。マリアベルのような事例だって起こり得る。

 他人の不幸を願うのは非道かもしれないが、どうしても他の誰かの幸福よりオズワルドの幸福を一番に願ってしまう。


 綺麗に編み込まれたレールでもほんの小さな綻びがあるかもしれない。オズワルドとマーガレットが結ばれる未来だって、あるかもしれない。そうなった時、一切の遺恨なく身を引いて笑顔で送り出せるように。恋心なんてものは丸めて捨ててしまおう。

 二人の間にあるのはただの契約。感情はいらない。自分を捨てる時に、オズワルドには少しの後ろめたさも感じてほしくはない。


 マリアベルはぎゅっと拳を握りしめて、努めて穏やかに微笑んだ。


「もとより道具として生涯を終えると覚悟していた身。今更その運命を受け入れる事になろうとは皮肉もいいところですが、それも些末なこと。この身体があなた様のお役にたつというのならば、お好きにお使いくださいませ」


「君は僕の妻だ、マリアベル。道具にする気はないと言ったはずだ」


「あなた様は本当にお優しい。ですが、わたくしは――」


 仮面に手を置く。

 マーガレットは美しく育っただろう。それに比べてマリアベルは、王太子に続きダミアンにまで見捨てられた醜い化物だ。オズワルドには相応しくない。


「わたくしは元婚約者にさえ、君の顔は蛆がわいているように気味が悪く、口付けなどもっての他と泣きながら婚約破棄を申し付けられた女。長く側に置いておいたところでオズワルド様の益にはなりません。いつか来る日のために、わたくしのことはどうか道具と」


「断る」


「オズワルド様!」


「何度でも言おう。君は綺麗だ、マリアベル。僕は人から信を置かれるタイプじゃない。それなのに君は疑いもせず僕を受け入れてくれた。僕がオズワルド・エルズワースだと分かってからは更にだ。あれほど真っ直ぐな視線を向けられたのは初めてだった。よくもあの環境でここまで綺麗に育ったものだよ。だから、誰が何と言おうと絶対に君を見捨てない。僕の妻はマリアベル、君だけだと決めたんだ」


 オズワルドはマリアベルの顎に手を添えると、瞳の穴から覗き込むように顔を近づけた。

 吐息が混じり合いそうな距離。

 思わず下がろうとするも真後ろは壁だ。最初に出会った時から思っていたが、どうしてこんなに距離感が近いのだろう。照れてしまう。

 マリアベルはささやかな抵抗として彼の肩に手を置いた。


 真っ直ぐ見つめてくるのはオズワルドの方ではないか。仮面を身に着けてから今に至るまで、これほど真っ直ぐ見つめてきたのは彼が初めてだ。


「オ、オズワルド、様、ご冗談を……わたくしなどが綺麗なはず……」


「君は綺麗だよ、マリアベル。とても綺麗だ」


 これ以上は心臓が持たない。

 マリアベルは顔を伏せると震えながら首を横に振った。


「オズワルド様は……本当にお優しすぎます。この仮面の下を覗けば、その言葉がいかに浅慮だったか分かるはずですわ。私を妻に選んだこと、きっと……後悔いたします」


「そうか。ならば試してみよう」


「え?」


 試すとは――そう尋ねる間もなく、ぱっと視界が開けた。

 さらりと柔らかな髪が額に当たる。

 香水だろうか。柑橘系の清々しい香りが鼻孔をくすぐった。ぽかんと口を開けて放心するマリアベル。しかしすぐさま仮面を剥ぎ取られたのだと気付き、オズワルドの視線から逃れようと身体を捻る。


「――っ、ほ、本当に剥がすだなんて! 見ないでくださいませ! 後生です! お願いですから、どうか、どうか!」


「マリアベル」


 オズワルドは暴れるマリアベルの腕を掴み、シートの上へ押し倒した。


「醜い? どこがだ。くだらない。この程度のことで君を手放すなど」


「……その、ような」


 仮面の下を見て、美しいなどとのたまう者は一人もいなかった。

 最初は皆、火傷くらい問題ないと言うのだ。ダミアンだってそうだった。その程度で君を嫌ったりしないと真っ直ぐな目を向けられた。

 しかし誰もがこの醜い肌を見て顔色を変えるのだ。そして無言で顔をそむける。彼らの瞳の奥にあるものは隠しようもない恐怖と怯え。――声には出さなくとも表情が告げていた。化け物め、と。


 ――もしまたあの目を向けられたら……、オズワルド様に向けられたら、きっと耐えられない。


 マリアベルは首を振って髪を舞わせ、顔の上にかけてオズワルドの視線から逃れようとする。しかし彼は、そんなささやかな抵抗すら許してはくれなかった。

 顔にかかった髪を丁寧に掻き分け、火傷をそっと、指の背で撫でる。


「何を気にする必要がある。人間など薄皮一枚取っ払ってしまえば、皆似たような顔をしているじゃないか。美醜など皮一枚の話だ。意味など無い。君は僕の自分勝手なわがままに頷いてくれる心の美しい女性だ。そう自らを卑下しなくともよい」


「で、ですが……やはりわたくしは」


「口づけなど以ての外、か? 馬鹿馬鹿しい。証明してみせよう」


「証明? なにを――」


 最後まで言葉にすることは叶わなかった。マリアベルの口をオズワルドの唇が塞いだからだ。

 心臓が、止まるかと思った。

 技巧も何もない荒々しい口づけ。さりとて自棄を起こしたのではなく、マリアベルを労わるような優しさも感じられた。

 きめ細やかな白肌。長い睫毛。その奥から覗く、深い深い夜空のような瞳。

 世界一美しいもので視線いっぱいを埋め尽くされる。こんな幸福があっていいのだろうか。身体が強張る。


 オズワルドはそんな彼女の頬を撫でながら更に口づけを深くした。

 ああ、なぜ。

 マリアベルの瞳に涙が溜まる。なぜこの人はこんなにも温かいのだろう。綺麗なものを穢している罪悪感に耐えられなくなり、マリアベルは彼の肩を弱弱しく叩いた。それを苦しいと勘違いしたのか、困ったように眉をひそめるオズワルド。

 身体が少し離れた。しかし唇と唇が触れ合いそうな距離でマリアベル、と熱っぽく囁かれる。


「どう、して……」


 愛おしさと、切なさと、幸せと、罪悪感。様々な感情がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられ心の中で暴れ回る。

 泣いては駄目。泣いては駄目。分かっているのに――必死で堪えてきたはずの涙が、勢いよく溢れ出す。


「な、泣くほどか!? す、すまない。今のは全面的に僕が悪い! いくら妻になる人だとしても、しかるべき手順を踏むべきだった! ど、どうも僕は色恋沙汰……いや、人の心に疎いというか」


「いいえ……いいえ! 違うのです!」


 好きになってしまったら、きっとご迷惑になる。

 頭の中ではきちんと理解しているのに、気持ちが溢れて止まらない。涙と一緒に流してしまえたらよかったのに。流れれば流れるほど愛おしさが溜まっていく。まるで海だ。どれだけ雨が降ろうとも溢れることがない。限界がない。際限なく愛おしさが溜まり続けていく。


「違う、のです……」


「……マリアベル」


 オズワルドは涙を流しながら首を振るマリアベルを抱き上げ、自分の肩にもたれかからせる。そしてトントンと規則正しいリズムを刻みながら優しく背中を叩いた。


「今日は疲れただろう。少し眠るといい。君が起きるまでずっとこうしていよう。そんな不安そうな顔をしなくとも、着いたらきちんと起こす。大丈夫だ。ずっと傍にいるから」


 優しい声が落ちてくる。

 こんな声をかけられたのは何年振りだろう。穏やかな心地よさに包まれて、急激な睡魔が襲ってくる。


 ――もう、目が……開けていられない……。


「おず、わるど、さま……」


「おやすみ、マリアベル」


 彼女の意識は、その声に誘われるままぷつりと途切れた。

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