第29話 繋がってるよ、新妻くん
僕はもう壊れて狂ってしまっているのかもしれない。そう思った。
今まで理性と恐怖で押し込め続けていた欲望が体の外に突き出して、ひたすらに会長を求めて律動していた。
会長もきっと同じ気持ちだったんだろう。この学校で戦い続けることで何かを失って、ぽっかりと開いてしまった穴を埋めるように今までに聞いたことのない声で何かを訴えていた。
すべてが終わる頃には、深夜から早朝に近い時間になっていた。
僕は満たされた気持ちと少しだけ後ろ暗い気持ちを抱えながら、会長がもう離れていかないようにベッドの中で強く抱きしめて眠った。
「おはようございます、会長」
目を開けた会長に優しくあいさつする。何となく気恥ずかしくてできるだけ平静を装いたかった。でも会長は何も答えない。
「会長?」
「……会長じゃない」
掛け布団で顔を半分隠して、じとりと僕の顔を睨んでいる。
「えっとどういうことですか?」
「新妻くんにとっての私はまだ会長なの?」
「そういうわけじゃないんですけど」
だって会長は出会ってから、正確にはこの高校で再会してからずっと会長だったのだ。昨日いきなりその関係は変わってしまったけど、呼び方は急には変えられないわけで。
「じゃあ、夢月、会長」
「会長じゃない」
「夢月先輩?」
「先輩でもない」
「夢月さん」
呼び方一つ変えただけなのに、名前を呼んだだけで顔が真っ赤になりそうだった。
「うん、それでいい」
やっぱり恥ずかしい、と僕の口から溢れないように、夢月さんの唇が僕の言葉を遮る。それと同時に僕の首に懐かしい重さがかかり、錠の落ちる音がした。
一度失ったあの首輪風のチョーカーがまた僕の首元に帰ってきた。
「晶くん、もう一度副会長になってくれる?」
「もちろんです」
断る理由なんてない。
「でも名前を呼んでいいのは生徒会館の中だけ。校則で恋愛禁止だから。生徒会特権があるからいいけど、ちょっと恥ずかしいから。
だから外では今まで通り会長と呼ばせてあげる。わかった?」
名前を呼ばれて、少し戸惑った。僕を名前で呼ぶような親しい友人はいないし、新妻のインパクトが強すぎて名前を覚えられていないことも少なくなかった。
そういえば両親からも名前を呼ばれた記憶がない。いつも怒声かまぁまぁという評価の二つからしか会話が始まったことがない。だから、こうして夢月さんに呼ばれると全身が痒くなるような初めての感覚に襲われる。
その恥ずかしさをごまかすように、答える代わりにキスを返した。
教室に向かうと、いきなり立ち上がった中山さんが走って僕の元へと飛び込んできた。
「新妻、大丈夫? 昨日も午後の授業に出なかったし」
「うん、心配かけてごめんね。ありがとう。もう大丈夫だよ」
僕は首元のチョーカーに触れる。また僕は副会長に戻ることができた。夢月さんとの約束も思い出すことができた。すべて中山さんがあの《参考書》を返してくれたから。
「そっか、おめでと」
中山さんは寂しそうに笑ってすぐに仲良しの二人の方へ戻っていった。すべてお見通しなんだろう。中山さんは勉強はできなくても僕とは違って他人の心の機微に敏感なのだ。断ってしまった以上、僕は慰めることなんてできない。
それ以上何も言えないまま、僕は自分の席につく。いつもと景色が違って見えた。
黒板って真っ黒じゃなくて緑がかっていたんだ。
意外と机の表面って傷だらけだったんだ。
朝の日差しって暖かくて眠たくなるんだ。
今までと同じように過ごしているはずなのに、今日は何だかいろいろなことが目につく。黒板に擦れるチョークの音も小気味良いリズムに聞こえてくる。
「なんでだろ?」
教科書の文字はすべて同じフォントで黒一色だと思っていた。でも今改めて読んでみると、太字になっていたり、下線が引かれていたり、色が変わっていたり。
じっと見ていると、重要なキーワードだけが浮き上がってくる。授業をする先生の声も遠く小さく聞こえるのに、その意味だけははっきりと僕の頭の中に整理されて積み上がっていく。
この感覚には一度だけ覚えがあった。
夢月さんと天稜高校に行くと約束した後、僕は痴漢事件の記憶から逃げるつもりで必死に勉強を始めた。あの時も急に覚えなくちゃいけないことがはっきりとして、理解しなきゃいけないことがすっきりと頭に入っていく感覚があった。
自分じゃない誰かの、ううん、自分より大切な人のために頑張るというのは、こんなにも満たさせるものだったんだ。
今までの僕は両親に自分を認めさせるために勉強をしてきた。でも今はそんなの必要ない。勉強なんて関係なく夢月さんは僕のことを認めてくれている。
でも、だからこそあの場所を守りたいんだ。
授業中も自習中も頭の回転が二倍になったみたいだった。一度見た問題は忘れない。少し悩んだと思っても時間が経ってない。
どれだけ繰り返しても自信が持てなかったのが嘘みたいに自分の学力が充実していくのがわかる。生徒会室で夢月さんと二人で勉強して、二人で寝て。一日の重みも二倍になったみたいだった。
中間考査本番。天稜高校では初日の月曜に五科目、二日目と三日目が四科目ずつの計十三科目の日程で行われる。
特に一年生にとって最初の校内試験。ここで自分たちの立場が決まる重要な試験だ。夢月さんの解任がかかっている僕だけじゃなく、誰もが獲物を狙う肉食動物みたいなギラついた目で最後の一秒まで参考書を手放さない。
あの中山さんでさえ、今日はおとなしくしているほどだった。
夢月さんはもう会長を辞めてもいいって言っていた。でも僕はそうは思わない。球技会の時に他の生徒たちと楽しそうにドッジボールをしていたあの時みたいに。夢月さんが白鷺姫としてじゃなく、みんなと仲良くできる場所をこれからも作ってあげたい。
彼氏として。
あれ? なんか違和感。
そういえば僕って夢月さんの彼氏なんだろうか。ご奉仕します、とは言った。キスもしたし、それ以上のことも。名前で呼び合うことにもなった。
でも告白してない。されてない。今の僕って夢月さんにとってなんなんだろう。
あれ? 僕は今、何しようとしていたんだっけ?
思考に空いたわずかな穴。気付いた時にはそこから詰め込んだ勉強の内容がとめどなく流れ出ていた。
頭の中がぐちゃぐちゃになっている。思い出すのは夢月さんから言われた甘美な誘い文句ばかりだった。
ヤバい、何にもわからない。
とにかく手を動かそう。全然自信のない答えを解答用紙に書き並べていく。その間も頭の中に浮かぶのは喜怒哀楽様々な夢月さんの顔だけだった。
幸せでのろける、ってこういうことなのかな。なんて言葉が脳裏を過ぎる。初めての気持ちに戸惑うよりも、今来ないで欲しかったと思うばかりだった。
最初の現代社会はダメだったと思うことにしよう。水道の冷たい水で顔を洗って思考をリセットする。ぽやぽやと浮かんでくる夢月さんの顔を頭を振ってかき消す。
ごめんなさい、夢月さん。僕はもうダメかもしれません。
いいよー、と微笑みながら手を振る脳内夢月さんに謝って、僕は次のテストを受けるために教室に戻った。
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