第15話 朝立ちしてるの、新妻くん?
時刻は深夜一時を回っていた。
勉強のために必ず十二時までには寝ていた僕にとっては未知の時間帯。体は眠りを求めているはずなのに、目は冴えわたって心臓は少しも収まりそうもない。
理由は明白だった。ほんの数メートル隣で会長が寝ているのだ。規則的な寝息が静かな寝室に響いている。
「この状況でそんな簡単に寝られるかなぁ」
真っ暗な部屋の天井を見上げる。ついさっき見た会長の笑顔が浮かんでくる。
「やっぱり美人だよなぁ、姫路会長」
僕はこの高校に何をしに来たんだっけ。勉強をして、いい成績をとって、いい大学に進学して。僕は両親を見返してやるためにここに来たはずだったのに。
ううん。勉強する気はある。普段は生徒会が終わってから寝るまでの数時間は変わらず自習時間にあてているし、朝も起きてから支度を整える間は単語帳やリスニングをベースにした筆記を伴わない学習をやっている。
会長はたまに変なことを言いだすことはあるけど、美人だし頭もよくて自分の活動に信念もある。素敵な人だと思う。そんな二人きりの時間が嫌いになる理由は、一つだけある。
僕は女の子に好きになってもらえるような人間じゃない。
僕は会長の笑顔を向けてもらえるような人間じゃないのに。
ズキリと胸の奥が痛んだ。その瞬間に天井に浮かんでいた会長の笑顔が消えた。これでいいんだ。僕はただ勉強だけをしていればいいんだから。
痛みを堪えながら両手で胸を押さえていると、少しずつ眠気が勝ってくる。何時間経ったかわからなくなったころ、僕はようやく眠りに落ちていった。
目を覚ますと、温かい何かが僕を包み込んでいた。無意識に頭から布団を被ったのかと思ったけど、なんだか肌触りが違う。手を這い回らせて周囲を探る。敷布団、掛布団、それとは違う柔らかいものに触れた。
布の感触だけど、綿とは違う。痛んだ心が癒されていくようなほのかな温かさと柔らかさ。その感覚に僕は記憶の奥深くにかすかに覚えがあった。
目を開ける。そこには昨夜に見た水色のチェック柄が視界いっぱいに広がっていた。
「会長!?」
探っていた僕の手は会長の慎ましやかな胸にしっかりと触れていた。会長ってスレンダーな体をしていると思っていたけど、やっぱりここは柔らかいんだ。ってそうじゃなくて!
目と目が合う。なんで僕のベッドに会長がいるの? 昨日は確かに隣のベッドで寝ていた。っていうか今の状況がヤバい。怒られる? それともからかわれる? 嫌がられるってことも!
「お、はようございます」
ごまかすように朝のあいさつをしてみるけど、緊迫した状況はまったく変わる様子がない。
会長は無言のまま、ベッドから転がり落ちるように逃げ出すと、昨日寝ていたはずの自分のベッドに飛び込んだ。
「えっと、これは、その。っていうかなんで会長は僕のベッドに」
「昨日、新妻くんが泣いているみたいだったから、つい。そのまま寝ちゃったみたい」
自分の頬に触れる。ザラリとした感触が指先に返ってきた。会長は顔を真っ赤にしている。どんなときでも表情が変わらないと思ったあの会長が、恥ずかしそうに顔を逸らしていた。手にはまださっきの柔らかい感触が残っている。
また僕は、こんなにひどいことをしたんだ。女の子を傷つけるようなひどいことを。
僕は以前に一度、女の子の胸を触ったことがある。まったく知らない女の子の胸を、街中で後ろから急に、許可もなく。僕はいわゆる痴漢をしたことがある。
あの日のことは記憶の奥深くに隠したつもりだった。勉強に不要なことをするな、という母の教えを悪用して、今の今まで忘れてしまおうとしていた。その記憶がうすらぼんやりとしながら思い出される。
僕が女の子に愛される資格がない理由。
去年の秋のことだ。受験勉強に嫌気が差した僕は初めて塾をサボって立川に来ていた。そこで自暴自棄になって、いっそ刑務所に入りたいとさえ思って。街を歩いていた女の子の胸を触ったんだ。きれいな黒髪の長身の女の子だった。
でも、何がトリガーだったんだろうか。あの子なら触ってもいいと思ったのだ。そして彼女の胸を触った僕は警察に通報されて、その瞬間に冷静になって逃げ出したのだ。僕は警察に捕まることはなく、恐怖からさらに勉強に打ち込むようになった。そしてこの天稜学園高校に入ることになったのだ。周囲の視線から逃げるように。
「新妻くん?」
会長の声にはっとして我に返った。向かいのベッドに逃げ込んだはずの会長はまた僕のベッドに膝立ちであがって、僕の顔を心配そうに見つめていた。顔の赤みは取れたみたいで、瞳にもいつもの冷静さが戻ってきている。
「す、すみません。寝ぼけていて、その、会長の」
「どうだった?」
「どうって、どういう意味ですか?」
会長は答える代わりに自分の胸を寄せるように両手でアピールする。今日目覚めた瞬間がフラッシュバックする。パジャマだったから会長はたぶんノーブラだったんだろう。僕が着ているパジャマと同じ、薄衣一枚越しに触ったのだ。
ふっ、と息が漏れる。会長の顔が一瞬笑みを帯びて、艶めく声で吐息交じりに聞く。
「じゃあ、朝立ちした?」
「え、それってどういう」
聞き返そうとして言葉が止まった。朝立ち。聞いたことがある。政治家が通勤中のサラリーマンを相手に演説をすることを朝立ちって言うんだ。でも僕は政治家じゃないし朝にわざわざ演説するようなこともない。
あ、もしかしてあいさつや持ち物チェックとかで校門に立つことを朝立ちっていうのかもしれない。
「今はしてませんけど、した方がいいですか?」
「した方が、って自分の意思でできるの!?」
「そりゃ、今からならまだ間に合うと思いますし」
時計を見ると八時前。早くから自習のために登校している生徒はもういるだろうけど、朝立ちの対象は遅刻ギリギリに来る生徒だろうし。
「間に合う、ってどういうこと? 起きた後でもいいの?」
「今からでも校門の前に行けば」
「コウモン!? 新妻くんってそういう趣味、だったの!?」
ようやく元に戻ったと思った会長の顔がまたみるみるうちに赤くなっていく。なぜかお尻を押さえて後ろずさると、自分のベッドに座り込んだ。
「別に趣味とかじゃないですよ。今から校門で朝立ちしに行ってもいいっていう話で」
「……コウモンでアサダチしてイク」
「なんでカタコトになるんですか! 会長から言い出したのに」
「ふぅん。私が悪いと言いたいのね」
瞬間、会長の顔が真剣な表情に変わる。
普段は見せない力強い決意に満ちた視線が僕の目を貫く。ゆっくりと僕に這い寄りながら、ベッドに押し倒すようにのしかかって、女の子特有の香りがする顔を僕の耳元に近づける。
そして甘くとろけるような吐息交じりの声でつぶやいたのだった。
「じゃあ、今度からこうやって聞くことにするわ、新妻くん」
ほんの少し手を伸ばせば、会長のどこでも触ることができる距離。
でもその声を聞いても、僕はよみがえってきた罪悪感に苛まれて、何も答えることも動くこともできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます