第4話 ポンパドゥール方式だよ、新妻くん

「これは、何なのかな?」


 青山先生の表情は満面の笑みに近かった。それがかえって恐怖を増幅させる。何と答えていいか、まったく回答案が思い浮かばない。何度も受けてきた難関校向けの模試でもこれほどまでに何も考えられないことなんてなかったのに。


「質問を変えましょう。これは勉強に必要なものなの?」


「いえ、不要だと思います」


「そうね。不要なものを持ってこの学校に来るということがどういうことかわかる?」


「……はい」


 真綿で首を締められるように、ゆっくりと逃げ道を塞いでいく尋問。もうこの先は決まっているんだ。いっそ断頭台のように一瞬で殺してくれればいいのに。そう思ってしまう。


「そんな顔しないで。新入生だもの。この学校にまだ慣れてないところがあるのはわかるわ。だから、今回のことは秘密にしてあげてもいいと思っているの」


 地獄の底に蜘蛛の糸が垂らされる。いつ絞首台に連れていかれるかと思っていた死刑囚からカンダタになれる。このチャンス、何としてでもつかむしかない。


「このメイド服。ここで着てみてくれない?」


「な、なんでですか!?」


 垂らされた蜘蛛の糸は次の地獄に続いていた。そんな辱めを受けるくらいなら潔く退学を選ぶくらいの覚悟はある。机をたたいて抗議すると、青山先生は意外とでも言いたげに目を丸くした。


「だってこれって新妻くんのものでしょう? サイズもそのくらいだし」


「それは、そうなんですけど」


「別に先生はそういう趣味があってもいいと思うの。むしろその方がいいわ。弱みを握りやすいし」


 ん? 今、この先生は変なことを言わなかった? 一気に脳に酸素が供給される。すっきりした頭にようやく状況が入ってくる。そういえばさっきからこの静かな生徒指導室の中なのに、やけに荒い息遣いが聞こえていた。正面に座った青山先生に疑いの目を向けると、焦ったように目を泳がせはじめる。


「今、なんて言いました?」


 よくよく考えれば、どうして青山先生はあんな早くから持ち物検査に立っていたんだろう。そして僕の持ち物を見るなり代わりの先生も待たずに僕をここまで連れてきたんだろう。


「かわいい男の子だから、反抗しないと思ってたのにちょっと意外だったなぁ。でもそういうかっこいいところも悪くないわね」


 青山先生は艶めかしく溜息をつくと僕の問いかけに答えず、おもむろに立ち上がりながら着ているスーツに手をかけた。ジャケットに閉じ込められていた大きな胸が少しだけ息苦しさから解放される。それでもまだ苦しそうな双丘を助けるように、青山先生はワイシャツのボタンを一つ外した。


「世界史の問題よ。ポンパドゥール夫人って知ってる?」


 急に教師のようなことを言いながら、机に手を這わせゆっくりと弧を描くように僕に歩み寄ってくる。いや、正真正銘この学校の世界史教師なんだけど。行動は少しも模範にならないことをしでかしている。


「なんですか、急に」


「いいから。答えられたらいいことがあるわよ」


 ポンパドゥール夫人といえば、フランスのルイ一五世の公妾、つまり第一愛人といったところだ。政治に無関心だったルイ一五世に代わって、権勢を振るったことで有名だ。


「フランスの影の権力者。七年戦争では外交革命に大きく貢献した人物ですね」


「正解。よく勉強してるわ」


 そう言っていながら、青山先生の接近は止まらない。ワイシャツは第二ボタンも外され、三つ目に指がかかっていた。密着した白いブラウスから艶やかな赤いレースが透けて見える。目のやり場に困って、僕は顔を背けた。


「でも残念ね。ポンパドゥール夫人はある方法で政治的権力を握ったと言われているの。そこまでは新妻くんも知らないみたいね」


 ついに僕の真横に辿り着いた青山先生は、左手を僕の太ももに置く。背けた僕の顔に吐息がかかるほどまでルビーのような真っ赤なルージュが引かれた唇が近づいてくる。


「ポンパドゥール夫人はね、とある方法で様々な男たちを手玉に取っていたの。それがポンパドゥール方式。つまりパ、イ、ズ」


 耳元で模範解答がささやかれる。答えが聞こえる直前、生徒指導室の扉が乱暴に開かれた。


「そこまで。生徒会長の名において、新妻晶くんを緊縛、じゃなかった監禁、でもなくて拘束するわ!」


「姫路会長!?」


 人が、それもまだ高校生の女の子がたった一人入ってきただけで、空気が一変する。入学式のときと同じ。姫路会長は見る者を一瞬で惹きつける魅力がある。立ち止まることなく狭い生徒指導室の中をまっすぐに進み、怯える僕の隣、ちょうど僕を挟んで青山先生と向かい合うような形になった。


 今の状況を見られたら僕が二股をかけた修羅場に見えなくもない状況だ。


 でも会長にとっては関係のないことだった。ふわりと涼やかな香りが室内に満たされる錯覚がする。香水をつけているはずもないのに、この空間がすべて会長のものになったようだった。


「なんですか、今は生徒指導中です。彼は持ち込み不可の物品を」


 青山先生は慌ててワイシャツのボタンをとめようとするけど、一度解放された母性の象徴は簡単には元の狭く苦しい服の中には戻ってくれない。無理やり詰め込もうとして反抗されたボタンが一つ弾け飛ぶ。


「彼は生徒会副会長です。彼の処遇については会長である私に一任していただきましょう」


 姫路会長はどちらにつけば生き残れるかまだ判断できない僕の手をとると、机の上のメイド服を僕のカバンに詰め込んで、かよわい力を振り絞って生徒指導室から僕を連れ出した。


 僕の手首を握って少し前を歩く会長のきれいな銀色の髪が揺れている。僕は何も言えないまま、ただ会長の背中についていくことしかできなかった。


 以前にもこんなことがあったような。そんなわけないか。僕は友達と遊ぶようなことなんてなかったし、まして女の子に手を引かれるなんて起きるはずもない。


 僕はそのまま人気の少ない朝の校舎を横断して、生徒会館まで連れ込まれた。


「あの、ありがとうございました」


 生徒会室の来客用ソファに座り、ようやく落ち着いた僕は出てきた感謝の言葉をそのまま会長に伝える。会長は僕がカバンの中から取り出したメイド服を受け取って、自分のデスクに向かった。ほつれたり破れたりしていないか確認している。あんな安物でもこの学校では没収対象の貴重品なのだ。雑には扱えない。


 デスクでじっとメイド服を見ている会長がなんとなく輝いて見える。元々初めて入学式で公演台の前に立つ姿を見た時はこのくらい輝いていた。それが昨日の数時間で評価が急転直下して地の底に叩き落ちたところだったのに、助けてもらったことでまた見直すことになった。


 手のひら返しが早すぎて手首が壊れてしまいそうだ。


「間一髪だったわ。心配して見に来てよかった」


「会長はどうして僕があんなところにいるってわかったんですか?」


「だって、昨日メイド服を返さなかったでしょう」


 会長は丁寧に僕から受け取ったメイド服をたたみながら僕の顔をちらりと見た。返さなかったんじゃなくて返している余裕がなかったんだ。それもこれも会長があんなことを言ったからなんだし。


「でもよかったわ。新妻くんが退学になんてなったら大変だもの」


 姫路会長はふんわりと微笑むと、僕はなぜだか視線を逸らしてしまった。副会長とかメイド服とかですっかり忘れていたけど、会長ってとっても美人なんだ。そんな人と二人きりでこの生徒会室にいる。


 なんだか妙に意識してしまう。この心臓が落ち着かない感じはいったい何なんだろう。生徒指導室に呼ばれたせい? 生徒会館まで急いで逃げてきたせい? 理由はいくつか思いつくのにどれもしっくりこなかった。


「そんなに欲しかったなら、正直に言ってくれればよかったのに」


「いりませんよ! 着替えるタイミングがなかったんです」


「そんな言い訳しなくてもいいのに」


 僕の拒絶の意思は全然伝わってない。なんだか昨日から会長との会話がいまいち噛み合っていないような気がしてならない。会長の考えていることが僕にはよくわからないよ。


「そういえば、さっき生徒会長の名においてなんとかって」


「あら、急がないとホームルームが始まるんじゃない。教室に行きましょ」


「なんでごまかすんですか」


 僕の抗議は聞き入れられず、姫路会長は先に生徒会室を出ていってしまう。残された僕にはさらに生徒会の謎が増えただけだった。本当は早く生徒会を辞めたいと思っていたのに。なんだか急にやめられない理由ができてしまった気がする。ただそれを言葉にしようとするとなんだかうまく言葉にならなかった。


 五分前の予鈴と同時に教室に入ると、もうほとんどの生徒が自分の席で勉強していた。結局今日も出遅れてしまったようだ。毎日何かとトラブルに巻き込まれて勉強どころじゃない。こんなはずじゃなかったのに。


 僕は溜息をつきながら、首にかかった南京錠に触れる。これがある限り僕は勝手に生徒会を辞めることはできない。もう一度溜息をつくと、隣の担任の先生が教室を覗きこんだ。


「青山先生は急用でホームルームには来られないそうだ。特に連絡事項もないからそのまま授業を受けるように」


 それだけ言うと、扉をしめて立ち去っていった。まぁ、ブラウスのボタンが弾け飛んだ状態じゃホームルームには来られないよね。僕は数分前に目の前で起きたことを思い出して、赤くなる頬を擦ってごまかした。

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