実習
単身者向けの部屋だった。玄関からすぐのミニキッチン、洗濯機置き場、湯船と洗面台と便器の集められたユニットバス、八畳ほどの居室。学生か低所得者向けの部屋だろう。近くには大学もあった。徒歩十分足らずのところに私鉄の駅があり、チェーンのハンバーガーショップが二軒あった。
東と南に向いた窓のある部屋の空気は日差しの臭いとともに古びた木材の香りを帯びていた。もう一つ、語られることが避けられるあの臭気も。
生活感は薄かった。ベッドが一つ。小さな座卓が一つ。座卓の隣にはキャットタワーが残されていて、窓枠に固定された金網共々、ペットを可愛がっていただろうことを窺わせる。座卓のパソコンの上にはVRのヘッドセットが置かれていた。日常はこの部屋の中ではなく仮想空間にあったのかもしれない。
静かな部屋だった。バス通りからは数件奥まっていたし、都心に近いこの住宅街では周囲の戸建ての家々も唯一エアコンの室外機が住人の存在を示してはいても人の気配はない。
キャットタワーはあっても猫のいた痕跡はない。猫トイレの残滓らしき砂が玄関のたたきにわずかに落ちている程度だ。造り付けの棚には猫の写真と小ぶりな骨壺らしいものがあり、写真に刷り込まれた日時が最近の出来事であったことを教えてくれる。
押し入れは床から天袋まで段ボール箱でいっぱいだった。どの段ボールにも本が詰められ、築五十年を過ぎていそうな建物の根太を抜いてしまいかねない有様だった。タイトルは――漫画とSF小説を中心に科学解説本が混じる。ベッドの下も段ボール箱でいっぱいで、かつての部屋の主が本と猫とVRだけの人生を過ごしていたと教えてくれる。衣料は最低限。履き物は雨靴とワークブーツが一足ずつ。たったこれだけ。
この微かな生活の名残もこれからすべ消し去られてしまう。
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