実習

「おはようございます」

 同僚たちに軽く挨拶をし、上司に頭を下げる。ごく当たり前の朝のオフィスの光景だ。

 僕はふと思った。

 ――なんで頭なんて下げてるんだろう。

 日本の挨拶としては珍しくもなんともない、当たり前のことだ。でも、なんで?

 僕らに、うん、と軽く頷いただけの上司はさらに上の役職の人物が現れると席から立ち上がってしっかり頭を下げる。

 ――ふむ。

 僕は机の上の書類に視線を落とす。電子化がなかなか進まないうちのオフィスでは未だに紙の書類が使われ、認印を押して次へと送られる。ネットでは笑い話になっている「お辞儀ハンコ」も本当にやっている。ばかばかしいとは思うけれど、この職場では他にも山のようにばかばかしいことばかりなのであまり気にならない。女子社員が男性社員や管理職にお茶を配るのには序列があるし、湯飲みを置く向きも決まっている。上役からの電話を取った時には頭を下げねばならないし、上司より早く出勤し遅く退勤しなければいけない。上司より高価な時計やスーツは身につけてはいけないし、同じ仕事をするときに上司や先輩より早く済ませてはいけない。社員が車を持つのが当たり前だった頃は、系列メーカーの車の中から、時計やスーツと同じように序列と値段を合わせなければいけなかったらしい。

 ばかばかしい、と口にする新入社員はさっさと辞めていく。僕が今更ながら「なんで?」と思ったのは、この不思議な風習が妙に機能しているように見えることがあるからだ。

 今日、社長か大臣とその秘書に深々と頭を下げていた。先週は重役の一人が県知事に対しびっくりするくらい腰を低くしていた。その様子を見た僕は先月のある朝の挨拶を思い出していた。いつもと同じように同僚や上司に朝の挨拶をしたのだけれど、その朝、上司に頭を下げた瞬間、これはどこかで何かにつながる挨拶なのだ、という直観が訪れていた。後になってその繋がりの先が知事や大臣であるとも直観したのだけれど、なぜそんな風に思えたのか不思議でならなかった。

 そして今日、特に何か用事があるわけでもないのに上司の前に立ってみた今、先日とは違う種類の直観が訪れていた。手にはお辞儀ハンコの書類があった。僕のハンコだけがお辞儀していなかった。もう一方の手には女子社員が淹れた雑巾の絞り汁入り茶の上司の湯飲みがあった。

「なんだね?」

 上司が顔を上げる。

「お辞儀ハンコとかばかばかしくないですか」

 僕は書類の束を上司の机の上に投げ出した。彼は眉間に皺を寄せた。

「あなたのお茶、僕が入社する前からずっと、雑巾汁入りだったみたいですよ」

 ぬるめが好みだという彼のお茶を薄くなった彼の頭髪の上から注いでやる。

 これだ、という手応えがあった。あのときと同じだった。いつもの繰り返しで頭を下げていた中で特別だと思えた一瞬だ。この上司への狼藉は間違いなくどこかに通じていた。

 目を丸くしてお茶を被った上司の目に、僕は同じ閃きを見た。彼も何かを直観したのだ。僕が今直観しているのと同じ、どこかの誰かに繋がる何かを。

 それはきっと重役や社長の先にあって、知事や大臣の先にある誰かに繋がっているのかもしれない。あるいはもっと先の、軍事大国である同盟国の大統領にまで繋がっているのかもしれないし、ただのハズレの直観でしかなくて、上司が奥さんに当たり散らして消えていく弱々しい波に過ぎないのかもしれない。

 ただ僕は見出すだろう。世界のどこかで起きる無数の何事かの中のひとつが、僕が最初に立てた波紋の結末であることを。

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