こたえのない話*初夏色ブルーノート

「芸者って旦那に飼われているようなもんだろう?」


 口さがない客が言った一言にお姉さん達はひっそりと心の底でどぎつく罵ったと思う。

 どんちゃん騒ぎは引き続き続いているのに、部屋の温度は冷えたから。

 明子あかこは薄ぼんやりと、猫みたいに気ままに飼われたら楽しいのだろうかと考えてしまった。




 昨夜の客は舞を見るのが好きみたいで、若いから体力があると息の上がったお姉さんに押し付けらた。さかえない明子は扇子を持ち直して、音に合わせたのは日が沈んだばかりの頃だ。そして、やっと解放されたのは店じまいの時。

 置屋に帰って、お姉さん達の世話もしなくていいと言われたのは、明子から余程、生気が感じられなかったのだろう。その言葉に甘えて、死ぬように寝て起きたら、太陽が顔を見せていた。

 夜明け前の散歩を楽しみにしていた明子が青ざめたのは言うまでもない。




「来たのか」


 明くる日の夜明け前、智昭ともあきにどこか疲れたようなため息をつかれて、明子はしてやったりと口角を上げる。


「私がいないとさみしいでしょう?」


 調子のいい言葉に、それはないとすべからく返された。

 まだ眠たくて仕方ない時分に明子が抜け出すのはこれが理由だ。暖簾のれんに腕とおしのような男が奏でる音を聞きに来ている。何も話さない男の横で、さみしくも懐かしい撫でるようにやわらかい音を耳に入れながら、とつとつと話をするのが、何よりも落ち着く。

 笑顔で引かない明子に諦めたのか、小さく息をはいた智昭はサクソフォンを構えなおして、朝霧を運ぶ風に音を漂わせる。

 とろりと瞼を落とした明子は智昭の横に膝を抱えるようにして腰をかがめた。

 薄く輝くさざ波が、呼吸するように海の香りと音を運んでくれる。


一昨日おとといは本当にくたびれて、寝てしまいました。猫の手も借りたいぐらいに目まぐるしくて……それで、昨日は主人お母さんが気をきかせてくれて、他の置屋の芸者さんを寄越してくれました。本当に珍しいことですよ、お姉さん達が立て続けに熱を出されたから、どうしようもできなかったので。相手をできる人も入りましたし」


 そこで言葉を切り、明子は智昭の顔を盗み見た。くつろいだ格好ではあるが、ズボンは軍服だ。昨晩の宴会でも同じ姿をしていた。うっとうしいほどの前髪が顔を隠して、表情は読み取れない。


「貴方は、誰かを買わないのですか」


 将校であれば、花を買うこともある。気に入れば、旦那主人として養ってもくれるだろう。下の階級でも、街中で働くよりいい給金をもらえているはずだ。女を腕に抱くのも容易いことだろう。

 そのことを教えられなくても、明子は知っていた。実際に目にしてきたことだから。

 昨夜、襖の隙間に見えた智昭は助っ人で呼ばれたお姉さんに言い寄られていた。すぐに立ち去り、自分の浅ましい考えに目を背けても、二人の姿が明子の脳裏から離れない。

 音が光に消えた。顔を出した太陽が光の道が作っている。

 明子の帰る時間だ。


「女なんてわずらわしいだけだろう」


 明子が顔を上げると、智昭は顔を背けて、サクソフォンをケースにしまっていた。

 よくよく考えれば、女を相手にしていないということだ。昨夜のお姉さんも例外ではないのだろう。

 私も女になるのだが、と言おうとした口は楽しげに弧を描く。


「サクソフォンしか、相手をしてくださらないの間違いではなくて?」


 無言は肯定だろう。明子は立ち去る背に手をふり踵を返す。足取り軽く帰る中、頬がゆるむのを止めることができなかった。



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