花絵⑦

たっぷりと果汁を含んだ実が口の中でじわっと広がってタルトとの相性は抜群だった。桃のタルトを初めて一口食べたあの日、目の前に座っている女の子が一瞬だけ見せた笑顔が特別なものに見えた。それは時期を迎えた桃の香りが風に運ばれてきた時のように、忘れられない記憶となった。

「花絵ママ、これ美味しい!」

夕夏はいつものようにはしゃいでいる。

「隆平なんか美味しすぎて固まっちゃってるよ」

「あら、そんなに美味しかったの?」

「うん、美味しい」

そうは言ったけど、手が止まっていた理由はそれとは違った。その子の顔から笑みはすでに消えていた。


花絵の家に夕夏と遊びに行った時の事だった。

「お盆の間は鹿児島のおばあちゃんちに行くの」

夏休みが始まり盆になると夕夏は毎年鹿児島に住んでいるおばあちゃんの家に行く。

「ねえ、みーちゃん大丈夫かな?」

先週、近くの公園で見つけた仔猫のことを夕夏が言った。

「暑いし、たくさん牛乳飲ませたほうがいいかもな」

首に巻くタオルを一枚敷いただけの小さな段ボールに茶トラの仔猫は住んでいる。花絵の肩がピクリと動くのが目に入り、これ以上心配事を口に出すのはやめた方がいいと思い勉強机に置いてある本を手に取った。

「花絵ってこんな難しそうな本読んでるんだ?」

「動物のお医者さんになる勉強してるの」

獣医解剖学書。俺は獣の漢字すら読めなかった。中身を見てもなんの事だかさっぱりわからない。小学4年でこんな難しい本を読んでいるなんて、さすが花絵だなと思った。

「早く飼ってくれる人見つけないと、みーちゃんが……」

花絵は俯いて鼻をすすった。この間花絵のお母さんに仔猫を家で飼っていいか訊いてみたらしい、けど答えはノーだった。動物を拾うたびに家で飼ってたら大変な事になっちゃうでしょう?そう言われて子供ながらに理解できないわけではなかった。でも、弱っている仔猫を助けたいと思うのはいけない事なんだろうか。俺と夕夏はペット禁止のマンションに住んでいた。

夕夏は机を叩いて元気良く言った。

「そうだ、今度チラシ作ろう。みーちゃん可愛いからきっと誰か飼ってくれるはずだよ」


その日の夜、花絵のお父さんはチラシ作りを引き受けてくれたらしい。仔猫の体力を考えて、飼い主が見つかるまでは家で飼うことも許してくれた。すぐ公園に迎えに行こうと言ったけど、今日はもう遅いからという理由で次の日の学校帰りに走って仔猫を迎えに行った。まだとても小さく深い段ボールの中から逃げ出そうと何度も弱い爪で壁を撫でていた。3人で花絵の家に連れて帰ったとき、花絵のお母さんは玄関で仔猫を両手で包むように拾い上げ、目に涙を浮かべていた。

「ごめんね、もっと早くこうすればよかった」

花絵は嬉しそうにその肩に寄り添った。




ベランダでアイスを食べながらぼーっとしていた時だった。1階の地面を見下ろすと見覚えのある青いワンピースを着た女の子が右から走ってくるのが見えて、5階からアイスを落としそうになった。

――― 花絵だ。

まだ声も掛けていないのに花絵は突然立ち止まり上を向いた。

「隆平、降りてきて!」

息を切らしながら叫んできた、かなり慌てている。

「どうしたんだよ」

「いいから早く来て!」

非常階段で1階へ駆け下りた。花絵は落ち着きなく辺りを見回していた。

「みーちゃんがいなくなっちゃったの」

家で1階のベランダが開いていたらしい。最後に見たとき仔猫は眠っていて、いつからいなくなってしまったのかわからないと言った。

「わかった、一緒に探すよ」

あの小さな仔猫の足ではそう遠くまでいっていないだろうと思いながらもどこから探せばいいのか迷った、とりあえずあの公園へ行ってみようと言って2人で駆け出した。何かが目をかすって空を見るとボタっとした雨粒が落ちてきた。一気に降り始めたので傘を取ってこようかと言うと花絵は首を横に振った。青いワンピースは濡れて紺色に変わっていく――――――

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