再会

イカワ ミヒロ

第1話 履歴書

 音羽菜々未おとわななみは茶托に乗った茶碗を応接間の低いテーブルの上に置いた。少し粉の沈んだ緑茶からは湯気が立っている。

 その湯気の向こうで、男は目をあげずに顔だけを菜々未の方に向けて頭を下げた。膝の間で組んだ両手の親指がくるくると回っている。緊張しているのだろう。その左手をふいに上げて、男は頭を掻いた。手の甲と小指には何本かにわたって長い切り傷が残っていた。その傷には見覚えがあった。菜々未は盆の上のもう一つの茶碗を整える振りをして、男の顔を盗み見た。短く刈った髪。精悍だが、険しい印象を持つ横顔。左の眉を裂いて残る傷跡。左のまぶたと頬にも傷が見て取れる。間違いない。少年時代に「川野の雷神」と呼ばれた鳴沢陽介なるさわようすけだった。

 それを確かめると、菜々未は社長の本間広行ほんまひろゆきを見た。本間も菜々未と目を合わせた。菜々未はゆっくりと頷いた。そして本間の前にもう一つ茶碗を置くと、お辞儀をして応接室のドアへと向かった。

 お盆を戻しに給湯室に入ると、技術部長の長友康和ながともやすかずがひょっこり顔を覗かせ菜々未に声をかけた。

「音羽さん、どうだった?」

 菜々未は長友を振り返って、頷いて言った。

「確かに本人でした」

「ああ、そう」

 長友は腕を組んだ。

「それで、どう? 雷神くんは音羽さんに気が付いた?」

 菜々未は手を振った。

「いやいや、面接に来てお茶汲みの人なんて見てませんよ。固くなってたみたいですし」

「でも、受付で会ったでしょう?」

 長友は不思議そうに聞いた。

「あ、私、穿孔が終わって作業員から OL に変身中だったので……。予定より早くいらして社長が直接応対したみたいです」

「そっかー……」

 長友は組んだ腕の一つを頬に当てて深く息をついた。

「どうなるんだろうねぇ」

 菜々未も「そうですねぇ……」と同じように頬に手を当てて首を傾げた。


 ことの起こりは三日前だ。

 菜々未は本間精工という全社十七人の小さな会社に勤めている。零細企業だが、特殊な金属加工技術を持っており、顧客の中には大企業もいる。菜々未はここで総務をしている。総務と言っても要は何でも屋で、お茶汲みから外回りまで、繁忙期には機械工としても駆り出される。給料は高いとは言えないが、社員同士和気あいあいとしていたし、一日座りっぱなしでデスクワークだけをしているよりは、適度にいろいろな仕事があって菜々未は気に入っていた。

 その日、菜々未は顧客に納品をして帰って来たところだった。事務所では本間と長友がデスクを挟んで座り込んでいた。奈々未は受取り印の押された納品書をトレーに入れると、本間のデスクに向かった。

「二人で難しい顔をして……何かあったんですか?」

 菜々未が聞いた。

「うん……。ちょっとね。これ見てよ」と本間が机の上に置いてあった書類を菜々未の方に滑らせた。履歴書だった。

「あらっ、もしかして汎用の応募ですか? 良かったじゃないですか。人手が足りない足りないって、社長ずっとおっしゃってましたもんね」

 そう言って菜々未は履歴書を取り上げた。

「そう。それはありがたいんだけどね。まあ、賞罰のところ見てよ」

 本間は困ったように言った。そう言われて、菜々未は名前も経歴も飛ばして賞罰の欄を見た。

「19 才 保護観察処分 6 ヶ月 強盗(冤罪)」と書かれていた。菜々未は顔をしかめた。

「……前科者……ですか」

 菜々未はちらりと本間を見た。本間は肯いた。

「でも、未成年のときの犯罪歴は書く必要ないはずですよね」

 菜々未は履歴書に目を戻した。

「そうなんだけどね。この人、前の会社を辞めた理由がこれに関係あるみたいなんだよね」

 本間は頭の後ろ側だけに残っている髪の毛を撫でた。

「どういうことですか?」

「この人、うちのお寺の住職さんの知り合いなんだよね。山崎さんって言うんだけど、お坊さん。昔、保護司をしててね。保護観察のときに面倒見てたらしいんだ。この人の」

 その言葉に、菜々未は今度は履歴書の冒頭に目をやった。

「鳴沢陽介」

 思わずはっとした。知っている名前だ。写真欄を見たが、空欄になっていた。経歴に目を通す。

「県立川野工業高校(定時制)卒業」

 川野は菜々未の地元だ。多分、自分の知っている鳴沢だろうと思った。中学を出ると、機械メーカーの系列工場に勤めながら、高校を卒業したらしい。その後、しばらく空白があって、地元から離れた別の金属会社に勤めたようだ。その間に何年もかけて今度は通信制の大学を卒業したようだった。

 菜々未の視線を追ったのか、本間は「働きながら勉強も続けてえらいなとは思うけどさ。また窃盗の疑いがかかって前の会社を辞めたらしいんだよね」と言った。

「でも……本当にこの人が盗んだんですか?」

 菜々未はそうであって欲しくないと思いながら言った。

 また髪の毛を撫でながら本間は「まあ、山崎さんが言うにはね……」と話し始めた。


「いい子なんですよ。一度会ってみてくれませんか」

 大正寺の住職、山崎法順やまざきのりかずは熱心に本間に頼み込んだ。

 大正寺は本間家の菩提寺だ。そこの住職の山崎から急に電話がかかってきた。盆でも彼岸でもない。法事の予定もなかった。山崎は折り入って頼みたいことがあると言う。本間はその翌日に山崎を家に迎え、挨拶を済ませ、近況を話し合ったところで、山崎が手元のかばんから鳴沢の履歴書を取り出して本間に見せた。山崎が以前に保護司をしていたときに知り合った青年だという。鳴沢は小さな強盗事件で保護観察処分になったが、本当は別人が起こした事件の罪をなすりつけられたのだそうだ。山崎はその事情を知ると、鳴沢の就職を熱心に世話した。その結果、無事にタナカ工業という金属加工会社に就職できたのが十年前だ。鳴沢の冤罪のことは社長だけに織り込み済みとのことだった。しかし、タナカ工業では三か月ほど前に社内で窃盗が相次ぎ、社長が最初に疑ったのが鳴沢だったそうだ。鳴沢は不用意に濡れ衣を着せられたことを不服に思い、社長と口論になり辞職したという。鳴沢の無実はその後証明されたそうだが、鳴沢が素直にタナカ工業に戻るには事情がこじれすぎた。しかし、次の就職先がなかなか見つからない。思案の挙げ句、鳴沢は山崎に相談するに至ったとのことだ。

「確かにちょっと気が短いところはあるとは思うんですが、真面目でしっかりした奴なんですよ。仕事自体はタナカ工業でも折り紙付きだったと聞いています。ともかく、履歴書を見て検討していただけませんか」

 そう言って山崎は深々と頭を下げた。


 本間は履歴書の経緯をそう説明すると、憂鬱そうに腕組みをしながら、「まあねー、山崎さんにはお世話になってるんだけどさあ。いきさつがいきさつだもんね。やっぱ断っちゃおうか」とひとりごちた。

 菜々未はあわてたように顔を上げ、「あのっ、もし良ければ面接だけでもお願いできないでしょうか」と言った。本間と長友は菜々未の顔を覗き込んだ。

「多分、この方、私の中学の時の先輩だと思うんです。一度、すごく助けてもらったことがあって……。本当に悪い人ではないと思うので。もし、社長のご理解をいただけるなら……」

 なぜか菜々未は赤くなった。

 長友が「先輩? よく知ってたの? どんな感じだった?」と尋ねた。

「えっ……」

 菜々未は一瞬言葉に詰まった。

「えーと……。私の地元では有名な不良で『川野の雷神』と呼ばれていました……」

 本間と長友は同時にため息をついた。

「あっ、でも、それには理由があって……。お父さんとうまく行っていなかったとか……」

 菜々未は急いで説明した。

「なに? 反発してたの?」

 本間がよくあることだと言うように尋ねた。

「いえ、なんかもうちょっと深刻で。お父さんの DV がひどかったらしく、中二のときにはガラス瓶か何かで殴られて、こう、眉毛と目元と、あと、手に結構目立つ傷がありました」

 菜々未は顔の左側と左手を指しながら言った。二人は顔をしかめた。

「でも、学校では暴走族とやりあってできた傷だってもっぱらの評判だったんですけど」

「だから写真が無いのかぁ」本間が履歴書を見ながら言った。「じゃあ、でも本当にお父さんにやられたかどうかわからないじゃない」

「あ、私の姉が中二と中三のときに鳴沢先輩と同じクラスで、結構、仲いいって言うんじゃないんですけど。姉は生徒会長をやっていて、鳴沢先輩が学校にちゃんと来るようにいろいろ気にかけていたりしたので、姉には多分本当のことを言っていたと思うんですよね」

「ああ、じゃあ、それはお姉さんから聞いて」本間が言った。

「そうです」菜々未は肯いた。

「それにしてもすごいね。雷神とは」長友が軽口をたたいた。「じゃ風神もいたりして」

 菜々未は再び肯いた。「……いました」

「えっ、いたの?」長友は思わず身を乗り出した。

風間伸司かざましんじっていう同級生の先輩がいて、その人と二人で『川野の風神と雷神』でした」

「じゃ、お姉さんは『風神と雷神』と渡り合ってたわけだ。観音様みたいだね」長友は笑いながら言った。

「で? じゃ、その雷神くんに『助けてもらった』って言うのは?」本間が口を挟んだ。

「あ、それはですね……」

 菜々未は少し言いにくそうに上目遣いで本間を見た。

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