後章 道を大きく踏み外した日
1 偽り
一人暮らしを始めた理由はできる限り桜野隼人という人間をリセットしたかったからだ。
実家に居れば嫌でも滅血師の事を考えなければならなかった。周囲の人間のほぼ全員が滅血師なのだから無理もない。
そしてそもそもその場所にいるというだけで、過去の事は勝手に脳裏を駆け巡り、心身に重い負荷を掛けるから。だから家を出た。
結果幾分か滅血師の桜野隼人という人間を自身から遠ざける事に成功した様に思えて、実家暮らしを続けていた頃と比べればいくらか気は楽になった。
とはいえ自身の全てをリセットできたかと言えば、そんな訳がないけれど。
『で、分量間違えて盛大な量のカレー作っちゃったんで、今日の夜とか持ってっていい?』
「え、やだよ。俺昨日一昨日自分でカレー作って食べたし」
夕方。出かけようとした所に掛かってきた電話にため息を付きながらそう返す。
電話の向こうの相手は藤堂綾香。
綾香は今年に入って人事異動に巻き込まれる形で別の地区に配属になったのだが、その地区というのが偶然にも隼人が引っ越した県であり、住まいもまた割と近所だった。
それであまり顔を合わせる機会がない雄吾や両親の代わりに、気紛れで様子を見に来る。
故に結局滅血師との関係は保ったままだ。
そして両親や雄吾とも不定期に連絡を取り合ってはいるから、環境のリセットはともかく関係のリセットまではできなかったと言える。
とはいえ電話で雄吾達と話していてもあまり滅血師というのを意識はしないし、綾香は綾香で直接会っても滅血師と会っているというよりは、近所の姉ちゃんと会っている感があまりにも強くて気にはならない。
寧ろリセットしようと言っていながらも、一人でいられる程メンタルは強くないという自分で考えても面倒で仕方がない人間性をしていたので、こうやって電話をくれたり暇な時に家に来たりというのは助かっているのだが……それでもカレーは駄目だ。
『えーいいじゃない。3,4日連続でカレーになっても。このままだと私が3,4日連続でカレーの刑になるんだよ』
「いや今自分でいいじゃんって言っただろ。だったらいいじゃんカレーでも」
『良い訳ないでしょ馬鹿!』
「はい俺も良い訳ないです」
と、無理矢理電話を切る。正直それだけは真剣に嫌だった。違う物が食べたい。
「……まあ気ぃ変わったら連絡するか」
あまり変わる気はしなかったけれど。
とにかく一旦カレーの事は思考回路から外し、スマホを仕舞い外へ出た。
二日間のカレー祭りが終了し三日目の突入を回避した今、夕飯の買い出しの必要が出た。
と、そこで再びスマホに着信が来る。
(……だからカレーはもういいって)
てっきり綾香かと思いスマホを取りだすと……液晶には冬野の二文字が刻まれていた。
「……」
一人暮らしを始めてもリセットはできなかった関係性がもう一つ。
桜野隼人が滅血師を止めてからも何も変わっていない唯一の関係性。
「もしもし」
『あ、桜野君。今大丈夫だった?』
「大丈夫大丈夫。今日仕事休みだし」
仕事。
滅血師としての仕事。
とっくの昔に廃業している仕事。
故に虚言。
冬野にはとっくの昔に自分という人間が圧し折れている事を告げていなかった。
そんな虚言を口にする度に自分自身への嫌悪感が募っていく。
全部投げ出したのに、それでも何食わぬ顔をして関係性を保ち続けているのだ。
募らない訳がない。
だけど壊したく無かった。
これだけは壊したく無かった。
壊れてしまうのが怖かった。
だから今日も……白々しく冬野との会話を続けていく。
「で、どうかした?」
『毎度の事だけど用無くたっていいじゃん。とりあえずアレだよ。バイト終わってよっしゃ解放されたーって気分になってね。それで桜野君何してるかなーって』
「何もしてねえよ。すっげえ暇してた。冬野は……バイトしてたんだったな」
『そうそう。いやー大変だね働くのって。でもまあ頑張らないと欲しい物は買えないので。滅血師のお仕事で大金が預金通帳に振りこまれている桜野君とは違うんだよ』
「いやリスク考えたら全然大金じゃねえよ。いやまあ学生にしちゃ大金なのは間違いねえけど……あ、でもアレじゃね? お前の親父さんお前に無茶苦茶甘いからさ」
半ば冗談半分で冬野にそう言ったのだが、一瞬冬野が言葉を詰まらせた。
「……ごめん、俺なんか変な事言ったか?」
『あ、ううん違う違う。まあ気にしないでよ』
冬野は笑ってそう言った後、改めて隼人に言う。
『まあお父さんは結構、お金に関しちゃ厳しいんだよ。そういう教育方針って言うのかな? 前にお小遣いを上げてくださいって頼んだら、金銭感覚狂うから駄目って怒られたし』
「……ほんと、基本的にまともなんだよなお前の親父さん」
『基本的に?』
「あ、うん、何でもない」
冬野が転校するまでの間、何度も顔を合わせる事になった訳だが、時々殺意を向けてくる以外は基本的にはどこにでもいるような常識人な父親という感じなのだ。吸血鬼なのに。
思えば冬野の父親も懐かしい。
冬野とはこうして連絡を取り合っての交流は続いているが、当然の事ながらその父親はそこには介入しないから、ほんと色々と懐かしい。
そしてこの先も暫く顔を合わせる事も無いだろう。
滅血師時代の貯金も豊富で、遠方である現在冬野が住んでいる県にも結構気軽に行けたりするだけの金銭的余裕はある。
時間だって滅血師時代の時よりも作れる。
だけど勇気がない。
今の圧し折れた自分を冬野の前で隠し通して、白々しく会話をできる自信が無いから。
だからあの一件から。
圧し折れたあの一件から、もう冬野とは顔を合わせていない。
ずっとこんな調子だ。
『……しっかしあっついね』
「夏だからなー。こっち今日三十五度あんだけど。死ぬわこんなの」
『なるほど無茶苦茶強い滅血師になっても夏の暑さには勝てない訳だ』
「勝てない勝てない。夏の暑さも冬の寒さも無理。無理無理無理無理全部無理」
本当に何も。滅血師として強くなっても、結局何も勝ち取れなかった。
『ついでに桜野君は学業も無理だし……」
「舐めるな冬野。お前から正しい勉強のやり方を教えてもらったおかげで、学年順位中の下ぐらいにはなってんだからな!」
『中の下くらいで威張るなー。まあ赤点取って無いだけいいか……取ってないよね?』
「やっぱ俺日本人だから。英語はアルファベットの羅列にしか見えねえよな」
『謝ってよ他の日本人に……ってマジかー。取っちゃったかー』
「でもギリギリ。ギリギリ赤点だから大丈夫。追試でどうにかなる」
『赤点取ってる時点で大丈夫じゃないんだけど……まあいいや』
どこか諦めたように冬野は軽くため息を付く。
『私にはどうやって桜野君の学力を向上させるかよりも、考えるべき事があるんだよ!」
「考えるべき事?」
『今日の夕飯を何にするかという、かなり重大な問題だね!』
「なるほど……確かに重大だ」
父子家庭の冬野家では食卓の八割を冬野が担っている。
腕前も中々なもので、実際バレンタインで義理と念押しされながらえらく気合いの入ったお菓子を作って来た時はもう市販のと比べていい意味でレベルが違ったのを覚えている。
『そんな訳でヘイ! アイデア頂戴桜野君!』
「そうだな……あえてクーラー全開にして鍋とかどうよ」
『なるほど、アリだね。よしアイデアの一つに加えるよ』
「あとさ――」
もう無難に冷やし中華とかどう? と言おうとした所で唐突に通話が切れた。
「……しまった」
何事かと思えば完全に自分のミスだ。バッテリー切れ。充電器に挿すのを忘れていた。
(……完全に一方的に電話切った感じになったな。まあ察してくれるだろうけど)
とまあそう願いながらスーパーマーケットへと足取りを向けた。
自分を偽り続けてでも維持したかった関係だ。
こんな事で拗れてたまるか。
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