第6話 ひとつの結末、顧問の依頼

 用心していたつもりが、渡航してきて間もなさすぎて認識が甘かったのか、疲労で判断力が鈍っていたのか。同時に体の免疫力、抵抗力が低下していたのも災いした。

 食欲がなくなることはなく、ただだるさにとりつかれた、あの一ヶ月。桑原自身と、もともと元気で体力のあっためいあはやがて快復できたが……。とにかく時期が悪かった。

 調理したものしか口にせず、ミネラルウォーターのボトルだって自分の目の前で封を切られたものしか飲まなかったほど、疑心暗鬼に用心していたのに、商取引の現地人の邸宅での清潔なグラスに盛られたかき氷のもてなしで、知らず知らず……。

 あれほどめちゃくちゃ糖度の高いものが保存食でないとは思わなかったのだ。いや、じっさい保存食なのだが、しかし、安全でない保存食なんて。

 あとで思い返しても、なかなか思いつけなかった。記憶を何度も掘り返して、やっと、最後の最後に、あのときかき氷に添えられていたハチミツが怪しかったのだと思い定めた。寄生虫の来た場所。

 哀しみが強すぎて、それで自分を棚あげにして、桑原はワール国を、ハチミツを憎むことに没頭していた。

「アグーチのことだが…… 養殖できないと判断したのは、二年前のことだ……二年経って、その方法が開発されたのかもしれん……調べ漏れていた生産地があったのかもしれん……もう一度、調べてみよう……」

 めいあが顔を輝かせた。パパ、と呼んで、抱きつきにいった。

 それを見て、京旗もホッと胸をなで下ろした。

 顧問はうーむと呻り、染矢大使は涙をこぼさんばかりに、拍手を始めた。

 拍手は、やがて、レストラン中に伝染し、湧き起こった。



「さすが、アーティスト。芸術的でした」

 顧問が賞賛の言葉を送った。さすがファンで、雑誌に載った京旗の記事はチェックし、読んでいたのだろう。

 耳にくすぐったく、背中がもぞもぞするような気分の京旗。

「せっかくなんですが、あれ、取り消しますよ。パティシエはアーティストじゃない。――職人でもないっすけど」

「ほう?」

「パティシエってのは料理人で、料理人てのは、食べる人の家族たるべきなんでしょうね、きっと」

 そう言った京旗の顔は、掛け値なしに爽やかだった。

 どこの国の道ばたでも、料理人は、人を幸せにできる可能性をもっている。

 一人の料理人が幸せにできる人間の数は限られている。でも、たとえ食べられる相手が限られていても、食べた人全員を、いつでも、どんなときでも幸せにする、そんな料理人に、京旗はなりたい――と思うようになっていた。

「いい顔です」

 顧問は言った。

 出てきて隅に佇んでいた伊太郎も、うむ、とうなずいていた。

「いい顔だ。いい資質を持ってやがるぜ……」

「もちろんメジャーになりてえとかも、ちぴっとは思ってますけどね!」

「はっはっは……」

 顧問たちが破顔する中、染矢大使が、握手を求めに立った。

「どうでしょう、これらを、ヤムイモンでも作ってみませんか」

「い……?!」

「首相達に、同じ気分を感じて欲しい。思い出して欲しい。国の誇りを。そして、若い頃にこの国のために尽くそうと志したことを……思い出させて欲しいのです。ムゴド大統領、カザクリ首相、ビトオ将軍、エキオリ党首のみなさんに」

 四者協議の首領たちだ。

「この国に和平をもたらすには、現在、それしか方法がないでしょう」

 染矢大使は、顧問に向いた。

「フランスがおいでなのに、日本がしゃしゃり出るのは恐縮ですが、食事会だけ、持たせていただきたい。この国に関しては、TICAD(アフリカ開発東京会議)がらみで、日本のイニシアチブがまだ認められているはずですしね――最後の行使になるかも知れませんが。やらせてみたいのです」

「やれますか?」

 顧問は、染矢大使にではなく、京旗に聞いた。

 京旗に聞くからには、レミュール顧問は、染矢大使の提案に乗るつもりがあるということなのだろう。

「実は……」

 ニッと、京旗は笑った。

「アイデアは、もうあります」

「なんと!!」



「ねぇねぇ! どうやるの?!」

 めいあの声が追い掛けてきた。ほとんど毎日。

「オテル・ワールとは別のスペシャル・メニュー?!」

 元気いっぱい、他の日本人学校の生徒も、声をかけてくる。

「こんどはどんな作戦だー?!」

「教えて~! 一色せんぱーい!!」

「ないしっょッすよ~」

 京旗は日本人学校の教室に余裕で登校していたが、決してアイデアは話さない。

 日本人会の大人たちも、そわそわと気にしていた。

 桑原についてよく知り、よく考えてミエルのジュレを出したように、このパリから来た少年は、こんどヤムイモンに集まる四者についても勉強した口振りだったが、<もうアイデアはある>とは、どんな食卓を演出するのか。どんなデザートで湧かせるのか。

 皆がはらはらして、あるいはわくわくして、知りたがっていた。

<やれるっすよ。ただ、少し変則的な仕掛けが必要です。顧問か誰かにお手伝いいたけると助かるんすけど>

<それなら私が。――喜んで引き受けよう>

 レミュールとの間でそんな会話を交わしていたが、どんな手伝いで、どんな仕掛けだというのか。

 レミュール顧問からもさかんに京旗になにか提案している、という噂も流れ、日本人会は、この国に和平をもたらそうという少年パティシエに、不思議な信頼と期待をよせていた。



「はふぅ……それにしても、すごい演説だった…… 一色は、ハッタリもかますけど、ちゃんとやることやるんだよなー……えらいなぁ……」

 独り言がぽろぽろ漏れるのは、頭の中だけで考えきれないかららしい。

 あゆは、はりはりと頭をかいていた。

 オテル・ワールでの晩餐会の成功後、ヤムイモンでの和平会議に出発するまでの、とある一日。

 ひびわれた堤防。港の桟橋。外海の、白く泡立ち、激しいペールグリーンの大波と、ラグーンののどかな波。立ち並んでいる大きな倉庫。

「一色は、ヤムイモンの準備で忙しいから、邪魔しちゃ悪いしなあ…… あゆ一人で、行くしかないよな~……」

 橋の近くで釣り仲間に聞いてきた、港近くの小さな船員バー。あゆはひとりごちながら、ほてほてほて……と近付くと、オープンエアの卓の間を通り、せまいフロアへ入った。

 冷やかしの声と、好奇の視線が飛ぶ。

 世界各国の漁師や、商船、タンカーの船員が集まる港では、それぞれがたむろする店をもっているが、ここは小さいながら、割と雑多な種類の海の男が気ままに出入りしている店だった。

「えーっと……サファイア・プリンセス号の連絡挺の人、いますかぁ?」

 あゆが聞いたのはフランス語だったので、黒人のバーテンが店の片隅に向かって、英語に通訳して喚いた。

「なんだい、お嬢ちゃん」

 すぐに端から声をあげた紳士は、五○がらみ。白人、金髪。いいものを食べているのか少し太っていて、それとは関係ないがすこし頭頂部が薄くなっている。英語は豪州訛りだった。

 ほけら、とあゆは笑い、まずは握手の手をさし出しながら、近付いた。

「竹邑あゆ。日本人~。大使公邸料理人補助だ~」



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