第6章 少年パティシエが何かを変える

第1話 桑原父娘

「…………! 桑原さん……!」

 大使が、息を呑む。事実だとしても、それを言っていては始まらない、というのがODAを施す国側の暗黙の大前提だ。

 めいあの父親は、この国が嫌いなのかも知れない。

 前からそう思っていたが、京旗は今のセリフでそう確信した。

 困ったもんだ。

 この国を救おうと思っていない桑原とは、組めない。

 さあどうやって説得するか。

――考えろ、オレ!!

 しかし、そんな京旗に、染矢大使は、ため息まじり、告げがたいところを告げた。

「一色くん。実は、その日本からの視察団なのですが……、情勢不安定のため、一時延期になったところなんです。一時延期といっても、じゃあ、いつに延期かというと、次のめどはたっていない……つまり、実質上の、とりやめということです」

 京旗の目が、愕然と見開かれた。

 桑原がさらに口を開く。その言葉が、京旗を絶望的な気分へ落ち込ませていく。

「あと、頼りになるのはフランスですが、彼らすら、今回は内政干渉してくれない。そりゃあそうですよね。国際社会でのコンセンサスも得がたい昨今、動くわけがない。こんな価値のない国のために」



 念のため、ワール国の特別のとりはからいで、警察の二四時間警護が付けられ、黒人の警官二名に付き添われて、京旗はアッタへ帰った。

 けれどあきらめられなかった。

――価値がないないって言うな!! 

 価値がないなんてあり得ないだろ?! 世界でいちばん沢山のチョコレートのもとを作っている国がッ!!

 しかし手の中には、イベリア航空のチケットが一枚。今日の最終便、二三時五五分マドリッド行き――ヨーロッパへ帰れというチケットは、大使からの強制退国命令ではなく、善意からのプレゼントだった。

 家に帰って荷造りをして、すぐにダメジャン空港へ向かえという。



「桑原貴史さんですね」

 ムサ・フランセだったが、どこの手下かはすぐに分かった。車窓から、ライフルの銃口が突き入れられたからだ。構成員に、銃器を渡せる資金力――。

 ジェセダの手前の門で止められたタクシー。下手な身動きは、敵を刺激する。桑原は、眼鏡を押し上げたい気持ちをどうにか抑制した。

 夜更け、日本大使館から解散しての帰り道。隣には、愛娘が乗っていた。

 危ないというのに、めいあは、これ以上一人でジェセダの家で待っているのはいやだったからと、自分でタクシーを呼び、迎えに来てしまっていた。

 まだ十三歳の小さな顔が蒼白になって、赤い唇がわなないている。見開いてまばたきを忘れた大きな瞳。

「何が望みだね?」

 桑原は、小刻みに痙攣するように震え、脂汗を浮かべながらも、精一杯の虚勢で重々しく言った。

「日本貿易振興会に、この国から撤退して頂きたい。さもないと――」

「は……ははははは! お安い御用だ!!」

 桑原は、明瞭に約束した。相手の脅し文句が出るより早く。

「すぐにでも、撤退を推進したい旨の報告書を書くよ。明日の朝にでも本国にメール、いや、今夜中にも仕上げよう!」

 積極的に約束した。

「間もなく、本部から命令して貰えるだろう。私も、こんな国とはおさらばできて、せいせいする!」



 めいあは、ぶるぶると震えていた。

 脅迫者から無事解放され、マンションのエレベーターホールへ入ってから、彼女の怒りは爆発した。

「パパのばかっ! ほんとうにそんなことしたら、ほんとうにこの国にいられなくなっちゃうじゃない!!」

 父を見上げて金切り声をあげた娘の顔に、桑原はポカンと口をあけた。

「めいあは、この国に、いたいのか……?」

「いたいよ!! すっごい不自由だけど、この国にいるのが好きだよ!! 学校や日本人会の人たちが好きだよ!! ずっとそう言ってるじゃない! なんで知らないの? なんでいっつも聞いてないのッ?」

「お前のためだ。お父さんは、お前のために――」

 桑原の確固とした言葉を、めいあは思い切りぶったぎった。

「嘘だっ! 何がめいあのためなの? ちゃんとめいあの目を見て言ってみてよ! なんでめいあを見てくれないの?!」

 狭く薄暗いホールに、わんわんと絶叫が氾濫した。

「ご近所迷惑だ。静かにしなさい。いい子にしていなさいと、いつも言っているだろう」

 いらいらしながら、桑原は、降りてきたエレベーターに、娘の背中を押して乗り込んだ。

「めいあのことは、いつも見ているよ。見ていないなんてどうして思うんだ。こんなに心配しているのが、何故分からないんだ……!!」

「うそ!! パパはめいあじゃなくて、めいなを見てる!!」

 はっと、桑原の体がすくんだ。めいあは長いこと親子を呪縛していたタブーを侵して突っ走った。

「めいなとママばっかり見てる!! めいあの中に!! めいあを素通りして、めいなとママのことばっかりいつも考えてる!! 見てよ! めいあを見てよ!! めいあの気持ちを、ちゃんと見てよ!!」

 言い捨てると、階について開いたエレベーターから飛び出し、自分で鍵を出して家に入った。

 住み込みのメイドが驚いて廊下に出迎えてくる脇をすり抜け、逃げるように部屋に駆け込んだ。バタンと乱暴にドアを締め、誰も入ってこられないようにガチャリと鍵をかけた。

――言っちゃった……!!

 わんわん泣きながら、めいあは電話に飛びついた。

「迎えに来て! レイさんのところへ、連れていって……!!」



 電話に出たあゆは、目をあっけと見開いたまま、停止していた。

「えーと……」

「どーした」

「伊太郎、これから、ジェセダに車を出して欲しい。めいあが、なんか、泣いてる」

「また、面倒な…… よその家族のことに口をはさむのは、あんまし、まずいだろ」

 それに、こっちはこっちでこいつの問題もあるし……と、伊太郎はアゴをしゃくった。

 そこには、京旗がいた。警護の警官二名は、戸外にいる。

 京旗との相談の途中だった。伊太郎は、

「ともかく事情をきいて、落ち着かせろ。こっちまで泣き声が聞こえて来んぞ?」

 受話器を通していても、めいあの興奮したわめき声は、破壊力絶大だった。

 あゆはおずおずと、電話に向かい直した。

「えーっと、めいあ?」

『なにっ?!』

「人に喋りまくると、案外落ち着くぞ。あゆはあんまり聞き上手でないが、その話、たぶん学校のみんなは聞きたがると思う。全員にかたっぱしから電話をかけてやれ。味方にしてしまおう」

『あ、あゆちゃん……。それって、自分は聞く耳もたないってかんじじゃないっ?! お友達として、あまりにあまりな冷たいお言葉じゃないッ?!!』

「あ。それそれ。めいあはそうやって怒っているのがめいあらしい。ホッとした」

 あゆはマイペースに、ほけら、と笑った。

 めいあは一瞬黙った後、噴火した。

『あゆちゃん!! もおっッ!!』

「あはははは~……」

 あゆはひきつりつつ、頭をかきかき笑っている。

 だいたいの事情は察した。京旗は、電話が向こうからガッチャンと切られないうちに、あゆから電話を取り上げた。

「大使に泣きついても、状況は変わらないっすよ」

『そんな……じゃあ誰に頼めばいいの!?』

「そうっすね……日本の大人達にあたって砕けるのは、オレが先に実践しちゃいましたんで……」

『ひっく……じゃあ、あきらめなくっちゃだめなの……!?』

「ここはひとつ」

 京旗は、提案した。

 決してあきらめないことを。

 決してあきらめないパティシエに、命運を賭けてみることを。


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