第4話 オーブンに火を、君に笑顔を
――もういいよ! 頼むから!!
日本語で絶叫するところだった。
ノッポは陽気に笑いながら、四輪で町中にハイステップを刻み、車の流れを踊り回ったと思ったら、とある通りに意外な滑らかさで入り込んだ。うってかわってソフトなブレーキングで、路肩につけた手並みが優雅なほど、鮮やかだった。
あっけないほど簡単に激しいドライブが終わって、がちゃっとドアを開ける。くらくらしながら舗道に降りる。
「グッナイ、シーユー!」
ノッポが無邪気に笑って手を振り、ばびゅんと車が発進した。またタップダンスを躍りだす、ボロ車のテール。
今おろされた舗道に面した店のネオン看板を見あげて、はぁ、と納得する京旗。
『Schechuan』『四川酒楼』
ため息をつく。市内に何件かある中華料理店の一つ。ココデイ地区。まあいいか。歩いて帰れない距離じゃない。
ふと見た、通りの向こうのビルの暗い窓に映った自分の姿。ぐしゃぐしゃの髪、浮浪児のようによれた服、泥の跳ねた臑と、泥を塗ったような顔。唖然とした。
礼を言い忘れたことに気がついて、振り返る。だが、謎のアラビア人の車は当然、見えなくなっていた。
――もしこんど会えたら何かお返しをするぜ。
――って言っても、オレにできるのはお菓子を作ることだけなんだけどな――
「もしもし? ――えーと、パスポートのお礼に菓子など馳走さしあげたいんで、よかったら少しおいでませんか?」
アッタに帰って、ただちに風呂場を使ってまともな日本人の一色京旗に戻ると、彼は台所に立ち、オーブンに火を入れた。
京旗にできることは、お菓子を作ることだけだった。
謎のアラビア人が笑って善行を施してくれたときでも、誰かが心を痛めて沈んでいるときでも。
『あはははは、おいでませんか、とゆー言い方は、珍しいな?』
電話の向こうでウケた様子で、笑う顔が目に浮かぶ。あゆは間もなく、京旗の家の呼び鈴を押しにやってきた。
型ヒキという、焼き型に溶かしバターの上澄みをムラなく塗って粉をはたく作業は、手際よく先にやっておく。材料の粉類もふるっておく――一回でもいいが、より軽く菓子を仕上げたいときは二度、ふるいを通す。
材料は卵白とタンプルタン、砂糖――できれば転化糖。
タンプルタンというのは、アーモンドプードルつまりアーモンドパウダーと、粉砂糖とを半量ずつ混ぜたもの。
転化糖というのは、もとはブドウ糖と果糖から成る砂糖を、加水分解加工して、ブドウ糖と果糖一対一の混合物にしたものだ。砂糖に比べてメイラード反応が高い。つまりタンパク質と加熱した場合に焦げやすい――ということは、タンパク質である卵などと混ぜてオーブンに入れたとき、焼き色が美しく出る。さらに吸湿性が高い。要するに、いいキツネ色で、しっとりとした食感のものを焼き上げたいときに最適な液糖が転化糖だ。
製菓材料店でしか手に入らない、と思うなかれ。実は世の中には天然の転化糖という便利なものが、意外なところに、ごくフレンドリーに存在している。ハチミツだ。ここワール国でも手に入る。
アーモンド・プードルは上質なものを使わないとふっくらさっくり焼き上がらないが、下等なものしか手に入らなくても、リカバーして固く仕上げない方法はある。
材料を揃え、レシピに従って計量すると――京旗の頭の中には、およそ一〇〇種の菓子の基本の配合が記憶されていて、メモなど開かずレシピを参照、計量することができた――泡立てることもなく、淡々とボウルで混ぜ合わせていく。天版に並べた型にリズムよく、きっちり等分に流し込んで、準備完了。きっちり等分にするのは、一個ごとに目方が違うと、同じ時間で焼き上げられず、釜出しの手間が増えるし出来上がりもバラバラになるからだ。
そしてこのフール・セックのキモのキモは、焼成とその後の取り扱いだ。
小さな焼き菓子は高温でサッと焼き上げるのが基本。それを、最初は高めの高温で、やがてただの高温に下げ、さらに中温ぎりぎりまで下げて最後はじっくり焼き上げ、それでも全部で五分から一五分で焼き終える。
焼き時間に幅があってはっきり定められないのは、釜の大きさ、暖まり具合、外気温が高いか低いか、釜じたいのクセの違いで、微妙な加減をするべきだからだ。
香ばしいにおいが漂いだすまでと、漂う間、片づけやコーヒーの支度を同時進行。
焼き上がった。
鮮やかな手つきで取り出して、天版を安全な台にバンとわざと落とし、軽くすばやくショックを与える。漂白された小麦粉を使うようになって以来、製菓業界では伝統となったひとワザ。菓子を成り立たせている細かい構造――気泡――の蒸気を一気に抜く。あとで蒸気がゆっくり冷えて収縮して、焼き菓子がへこんだりする現象を防ぐ。
軍手をはめた手で、天版から手早く金網に取って行くが、そのとき、必ず型ごとそこへ伏せる。
待つこと数十秒。この時間も湿度と外気温でやはり加減する。今日は一分三七秒くらいで、京旗の目がオーケーを出した。
竹串を片手に構え、片手で型をとり、サッサと型からはずしていき、そうしざまビニールの袋に放り込んでいく。
その前の型ごと金網に伏せている時間が長すぎても短すぎても、型からはずすとき苦労する。型の底に菓子がこびりついて、作業性がものすごく落ちる。今回も、京旗の時間調整はもちろん申し分なかった。アッという間に全てをはずし終えると、袋の口をふわりと菓子の下に押し込み、菓子自体の重みで栓とした。
次に菓子にさわるまでの間、そこらを再びかたづけ、拭き上げ、焼き時間の間に準備したコーヒーをカップに注ぎつつ頃合いを見計らって、袋をあける。これで外はカリッと、中はしっとり――になっているはずだ。自信はあった。手際よく皿に積み上げた。
「うわー……!!」
あゆは、台所から現れたキツネ色の山の皿に、感嘆の声をあげた。
「フィナンシェだぁ!」
「なんだ…… あゆサン、ご存じでしたか」
少しだけ、京旗は拍子抜けした。
「ん。ちょっとな~」
リビングのソファでなくダイニングのテーブルにはす向かいに座って、ど真ん中に皿を据え、どーぞ、と京旗が手のひらを向けると、あゆは遠慮なく、満面の笑みで手を伸ばした。一番上の角からつまんで、口に運ぶ。
フィナンシェを盛るには伝統的な作法があって、金の延べ棒のように積む。インゴットに似て台形に広がった長方形の菓子なので、煉瓦でも積むつもりで、隙間を置いて敷いた上に互い違いに置き重ねていってピラミッド化してもいいし、洒落たところでは円形に土台をあしらって、ドンジョンのような中空の円筒形のタワー型にするのも似合う。そういう見た目も楽しいお菓子だし、ディスプレイの妙も含めて、菓子とは「嗜む」ものだと京旗は信じている。
名前の由来も、知れば楽しめる要素のひとつで、フィナンシェは金塊に形が似ているので「資本家(フィナンシェ)」と名付けられた菓子だ。
資本家なんぞ、食ってしまえ……
あゆサン。
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