第3話 パティシエが調理人補助になったワケ
「…………!」
クレヨンが悲鳴をあげて折れると、ふたたび水彩絵の具が登場した。「ビリジアン」や「きんいろ」が。しかし、チューブから直接画用紙になすりつけられていく。チューブがしわくちゃのからっぽになると、あゆはプラスチックの長方形のパレットを掴み、垂直に立てて、その一辺を使ってスッ! キュイッ!と自在に躍動的なコラージュをしはじめる。目がすわっていた。
「ああ、こんな昔話、悪かったね。思い出したくないことだったかな? これでも、近所に住んでてキミをかわいいなあなんて思ってたお兄ちゃんとしては、あれからのキミを心配していたものでね」
「はーっ、はーっ、はー……」
爆発する芸術を、集中力いっぱいいっぱいを使って紙にこってりとたたきつけた疲れのせいか、あゆは、肩で息をしていた。だが作品を一心に見つめ、セザールの方を、ちらりとも見ない。
「今は、ここの日本人学校に通っているみたいだね。ふうん、ちゃんと登校拒否もしないで頑張ってるんだね……昔と違って」
「…………」
あゆは、面相筆で白の絵の具を薄く溶くと、まるでスコールが叩きつけるようなイキオイで、しゅうしゅうと流れる白糸の滝のような模様を中央のイノシシの上に……
セザールが言うだけ言って立ち上がったその一瞬、こちらに目を向けたような気がしたが、京旗だとは気が付かなかったようだ。声をかけることもなく、フランス人青年はきびすを返した。
彼が立ち去っていったあと、あまりに怖ろしい雰囲気が漂っていたので、京旗はその場でみじろぎすることもできなかった。じっとしているあゆの顔をのぞき込むこともできなかった。
と、そこへ図画工作の講師として日本人学校に登録されている、商事会社の駐在員の奥様が、運悪く見回りに来て、ひょいとのぞき込んだ。日本有数の商社の若手エリート社員と見合い結婚してワール国に来たこの若奥様は、結婚前は、高校の美術講師を腰掛けにしていた、美大卒業のお嬢様だった、とかそう言う話を、めいあが行きのバスの中で喋ってくれてた気がする。
「まあまあまあ、竹邑さん!!」
黄色い叫びが上がった。
――勘弁してやってくれ、オバさん!!
たぶん平静を保ってなんかいられない心境で、ついメチャクチャな絵を描くしかできない状況だったんだ。今だけは、京旗もさすがにあゆを弁護してやりたい気持ちだった。
図画工作講師は、
「なんってすばらしい!! 画面全体で獣性と神秘性を象徴的に描写しながら、対象物の躍動的な毛並み、筋肉の動きまでも緻密に描写しきるなんて……構図もすばらしいわ!! これは、これは……!」
彼女は両腕をねじりしぼり、体全体を使って感激を表現していた。
「これは、これは、ライオンねっ?!」
ずっと沈黙していたあゆが、突然、その絵を持ち上げると、ビリリとまっぷたつに割いた。さらにもう一度、ビビーッと割いた。
「た、たたたたたたたけむらさんっ! せっかくの力作をぉぉぉぉぉっ!!」
講師が両手で自分の顔をはさみ、ムンクさながらの顔になって、悲鳴。
はっと、あゆの両目に焦点が戻った。
「あ……」
今まで、その目は何をみていたのか、どこを意識がさまよっていたのか。
ライオンと言われて破ったわけではないらしい。
婦人講師の顔を見ると、あはは、とお気楽に頭をかきつつ、
「ありゃあ。やっぱ、破いちゃダメでしたか~?」
――とっ、トーゼンだろ……?
京旗と講師がだらだらと冷や汗をかいている間に、ディパックをごそごそかき回すと、取り出したガムテープを、びっと、右から左へ伸ばす。べっべっべっと三箇所、表から貼り付けて、
「はい~、どうぞぉ~」
恭しく、賞状贈呈のように婦人講師に提出した。ぺこんと、頭をふかぶか下げている。
「…………」
講師は絶句したままそれを受け取り、何か精力をそぎ取られたように、よろよろと、休憩所のほうへ漂っていった。
「大丈夫すか? 大使邸まで送りましょうか?」
お弁当を食べて解散したとき、まだよろりらと動いているあゆを見て、京旗は思わず、バイトに行くために一人別れ道を歩き出したあゆを追い、声をかけていた。
声をかけられて、あゆが振り向くまでに、間があった。
京旗に返ってきたのは沈黙と、じい、と真っ直ぐに見る視線だった。
「おかしい。一色が優しいなんて。なんか悪いものでも食べたか?」
「あのですね」
さすがに脱力する。と、あゆは、
「代わりに厨房の手伝いに行ってくれないか? あゆは今日、提出を絵までに提出時間するなんて大ワザをかましたので、知恵熱がひいた。大殿ごもるに自宅する。では、伊太郎だぞ~、頼むによろしくぅ~」
ふらふらと歩き出す。その背中に、
「頼んだぞ~、伊太郎によろしく、ですかもしかして?」
「そうそう、は三国志~」
うーむ、このオヤジ系ギャグは、魚屋だっていう祖父の影響かなにかなんだろうか。
後ろ姿は、バイバイ、というように絵の具セットを掲げて振って、そそくさと消えていった。
京旗はたっぷり彼女を見送ってしばらく経ってから、気が付き、一人、自分を指差して叫んだ。
「てか、厨房の手伝い?! オレがッ?!」
「あ、バカ。バカだねこいつぁ」
伊太郎のけなす声が、厨房に響く。からっとしているのが救いだが、言葉はキツい。
大使公邸とは言え、今日は晩餐会でないし、来客もなしで、簡単な調理補助だったが、なにしろ初めての厨房で、初めて組むシェフで、初めて菓子でないものを作るスタッフなんかやるので、やりづらいことこの上なかった。
次々に飛ぶ指示に従って質問しいしい下準備から仕込み、タイミングをあやまたず洗い場をこまめに片づけ、そこらを清掃し、皿を並べ、盛りつけに使う道具を構え、伊太郎の動きに合わせてバットを上げ下げする――それだけでも、目が回るほど大変だった。
初めてのシェフに、息を合わせるのは難しい。逆にシェフに合わせてもらう結果になるという、コックとしては最低最悪の醜態を晒した。
――う~、オレってこんなに不器用だったか~~~ッ?!
クタクタになった。怪我をしなかったのが奇跡だ。
後かたづけも全て済ませて、店でやっていたのと同じようにステンレス台の裏の裏まで磨き上げると、夜更けだった。
「ご苦労。さてと、送ってやるぞ」
従業員休憩室で、借りたコックコートから着替えていると、伊太郎が首をのぞかせた。車のキーをチャラつかせる。
「いいですよ。途中まで一緒に帰るヤツらもいますし――」
黒人の調理人たちのことを言い、
「それに、今から出かけて帰って来るんじゃ、伊太郎さんも面倒でしょ」
「いや、俺も今日は家に帰るし」
「え? 伊太郎さんて、ここに住み込みでしょ?」
伊太郎は、苦笑すると、
「いちおう、プラトーンの家が本宅なんだよ。ほとんど帰ってネェが。ときどき帰ってやらねぇと、カノジョがいじけるからよ」
からからから、と笑い声をたてる。
「そりゃあ……ごちそうさまです……で、いいんスかね?」
わっはっは、と伊太郎は笑っただけだった。
画板と水彩絵の具セットごと、京旗を乗せて、伊太郎の車はガタガタと走り出した。
ラグーンをひとつ回り込むようにして、プラトーン街区に入る。アッタが近付く。
マンションの玄関に降ろしてくれるのかと思ったら、スロープを下って、地下駐車場に乗り入れた。伊太郎は、遮断機の開錠キーを持っていた。
「ありゃ……同じマンションの住人だったんすね」
「そういや引っ越しソバを貰わんかったな?」
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