第4章 ただのパティシエに何ができる?

第1話 気になって写生会

「うん」

 うなずきながらも答えず、あゆはシンクの反対側にかがむと、別の発泡スチロールの箱の蓋を取った。

 どかん、と今日も、アンコウを出す。

「うげぇぇえええ!」

 反射で逃げ出そうとする京旗。むんずと、あゆがその手を捕んだ。にへら、と笑う。

「まあ、今日は見て行け~。捨てるところがないんで、アンコウの七つ道具、なんて言われる素敵な魚だぞ~」

 うわぁっ、掴まれた手が魚臭くなったあ!! と泣きそうにパニックに襲われながら、京旗はその場を離れられなかった。

 怖いもの見たさか。金縛りか。

 最悪の眺めは、フクロと呼ばれる胃袋をきれいにするところだった。要するに中の汚いものを掻き出すわけで、消化されかけのイカとか、ドロドロの小アジの目玉とか、異臭を放つ内容物が、それはもう、出てくる出てくる。

「ときどき、人間の手とかも出てくるんだぞ~」

「うげぇぇえええっ!」

「こいつらなんでも食うからな~。それこそ、海底の砂の上に落ちたもの、ぜんぶ拾い食い~、ていうわけだ。で、それで!」

 ニヤァリ、と笑った視線が、京旗の手元を見た。赤い表紙のよれよれのパスポート。

「ま、まさか!!」

「ふっふっふ……洗っておいたけどね~」

「うぎゃああああああ!!」

 生臭いのはシンクの下のワタ桶のせいかと思っていた、大誤算に、全身の肌がワワワワワ、と泡立っていく。

 パスポートはちゃんと乾燥してはいるが、ぷん、と生臭い。

「盗った連中、黒人なもんで、日本人のパスポートなんて使えるかってんで、金目のもの抜いてカバンは海に捨てたってゆったそうでね~」

 京旗がひぃひぃと危うい呼吸を繰り返して、目を白黒とさせていたのは、数秒。直後、彼は、ダダダダ、と凄まじい勢いで厨房から逃げ出していった。

「あり? そんなに凄い反応するか~?」

とあゆが首をひねり、伊太郎のカラカラと笑う大きな声が厨房に響きだした。



「ったく、なんつーありがた迷惑な……」

 指先でぶら下げるように持ってしまう、異臭の漂うパスポート。鼻をつまむ。

 公邸の勝手口から離れた芝生で、一人になってから、はあっと、京旗はため息をついた。

 めいあの言っていたとおりだった。

 伊太郎はあゆの意図を知っていたから、ああ言った。

 あゆがマルシェで京旗を連れ回して悪びれなかったのも、道理で……

「小遣い貸せって……なんだよ、カッコつけやがって!!」

 誰も見ていないのに、カーッと顔が赤くなってくる。

 ヘンな義姉。とんでもない義姉。どうしようもなくマイペースで、ただただ天然そのものの義姉。そのうちに、腹の底から、笑いがこみあげてきた。

――くっそう、やられた~!!



――パスポートが戻ってきたのに、オレがまだこの国から出ないのは、兆胡サンの再婚相手の娘には会ったが、再婚相手のオヤジ本人にはまだ会ってないからだ。それだけだッ。

 心の中でブツブツと唱えながら、京旗は学校行事に参加していた。

 信じられないことに、ダメジャンの日本人学校では、写生会の授業もあった。

 しかも父兄や、在校生の下の兄弟の幼児たちも参加しての遠足の形で行われる。楽しそうと言えば楽しそうだが、京旗としては、やってられっかよ、と毒づきたくなるほど、かまびすしかった。

 間もなく国外待避かもしれない、という噂もあって、楽しんでおけるうちにいい思い出を作ろうという雰囲気も、確かにあった。わが子の写真やビデオ撮影に熱心なお父さんたち。いつもよりハイテンションな子供たち。お喋りに余念のないママさん集団。

 彼らの分乗したマイクロバスは、連なってジェセダ・マンションから、ダメジャンのはずれにある動物園へと走り出した。



 のどかな動物園のとある檻。白い柵の前に、いい大人の男が二人、同じ方向を向いて立っていた。

 片方は白人、片方は黒人。

 視線を合わせないまま、低い声で会話をしていることを、周囲は誰も気が付かない。

「いいんですか? そんなことをして」

 白人の指示した仕事に、国の西部から来た黒人は、笑って言った。

 きれいなフランス語だ。パリにあるアフリカ諸国の高級官吏養成のための学校「フランス国立海外高等研究所」に留学して、若い頃を過ごしたからだろう。この国の指導者で、いや、元宗主国をフランスとするアフリカ諸国の指導者で、その学校の出でない者はいないといっても過言ではない。

「いいんだよ。――では、別々に出よう。密会をしていたと誰かにかぎつけられるとまずいからな。キミ、先に行きたまえ。私はもう少し、彼を見ていく」

 赤毛のフランス人が、柵の中で動き回る「彼」から視線を逸らさないまま言った。

 苦笑しながら、ワール国人は、

「ムッシュー、アフリカ象がそんなに珍しいですか?」

 セザールがあらかじめ、誰かの忘れ物のように置いておいた紙包みに近寄って取り、背を向けると、ポケットに手を突っ込んで、去っていく。

 彼に聞こえないだろうことを承知で、セザールは返事をつぶやいた。

「適した環境にいると、こんなにいきいきとよく動くものなのかと、驚いてね」

――ここの暑い気候がお気に入りなら、パリやロンドンの動物園では、トロンとした目で、のそのそとしか動かないのも、道理なのだな。いや、思いがけず勉強になった。

 動物園の入場料は、三〇〇セファフランと安いものだった。

 三〇〇セファフラン以上の感銘を象からたっぷりうけとると、セザール・グディノーは歩き出した。

 今まで無意識にシャットアウトしていた騒々しい声が、耳に入ってくる。

 駆け抜ける小さな子供たち。ライオンの檻、ヒョウの檻、サル数種類、シカ数種類、イノシシ数種類。灰色の大きなインコ、鮮やかな青のオウム、赤と黄色と青に塗り分けたような鳥。たくさんのワニ。ごろごろしているゾウガメ。それらの間で画用紙と絵の具を広げて、座り込みはじめる黄色人種の子供たちが、目に付いた。

――ん? 日本人のスクーリングか……

 と、その中に、見かけた顔があった。ハッとした。

 何度も目をしばたき、確認する。

 そして薄笑いを浮かべながら、彼は、彼女に近付いていった。



 園内に解き放たれた子供は――大人も――、楽しい校外行事に浮かれていたが、こういうときもあゆはマイペースで、彼らの間をスタスタと歩き、誰も写生の対象に選ばないような小汚くてキバの曲がったシュールな顔の老イノシシの柵に真っすぐ近付くと、その前のベンチにすとんと腰掛けた。いつ描き出すのか、鉛筆を片手に握ったまま、ほけら~っと、ひなたぼっこでもしているように、イノシシを眺めている。

「えーと……あゆさんの親父さんて、今日は来てないそうですけど……どんな人なんすか?」

 京旗はシュールな顔のイノシシの向かいの檻に入っている、愛くるしい黄茶色の小型シカを描くため、ベンチに逆向きに座った。配られた画用紙に、さかさかと鉛筆を走らせながら、聞く。

「ん~? とーちゃんか……」

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