第4話 大使公邸料理人
なっ……!!
「まだ僕、なんとも言ってないっすよ?」
ひきつっているのを押し隠して、京旗は無邪気にニッコリ笑ってみせた。
「あっはっはっは!!」
男はからっと明るい笑い声を、ひとしきりホールに轟かせた。京旗の本心が読めていて、かつ、歯牙にもかけていない様子だ。
めいあが京旗に耳打ちする。
「公邸料理人の伊太郎さんよ。勝鹿伊太郎さん、二〇歳」
「こっ、公邸料理人?!」
この伊太郎という男は、東京の下町出身だが、大阪にある日本有数の料理学校に通っていて、在学中に、その頃ワール共和国に赴任が決まった大使に、学校から強烈に推薦されたという。首席で卒業と同時、大使に付き従ってこの国に来て、以来公邸料理人を務め、二年目だった。それは後で聞いた話だったが、
――この若さで、この実力……!!
京旗は、もう一度目の前のタルトを見やり、息を呑んだ。
しかも伊太郎はパティシエでなく、料理人。料理全般の中の一芸として菓子をたしなむだけなのだ。
デザートをドルチェと言ったことからして、専門はたぶんイタリア料理だろう。だが、日本大使公邸料理人に推薦されたというからには、オールマイティにハイレベルと思うぺきだ。
あゆによる京旗のシュークリーム評を思い出す。
<まずい>
<はぁっ?>
<うちのシェフが作るドルチェの方がうまい>
<パードン?>
シェフとは、伊太郎のことだったのだ。公邸料理人補助のあゆから見ての、公邸料理人。
京旗は、ガーン、となった。あのときは何を、と思っていたが、あゆの言うシェフ・伊太郎のドルチェを食べた今は、もう駄目だ。
確かに負ける。
親方は、こういう相手がいつか出てくるのを見越していたのか。これが親方の言っていた、オレの限界ってやつなのか?!
「ところでと」
伊太郎が、立てた親指で、厨房に続く廊下を指して、アゴをしゃくった。
「うちの調理補助が、奥で、オレの指示でないアンコウを山ほどおろしてるんだが、ありゃ、てめえのためか?」
きょとん、とするしかなかった。
「ななななな、なんで、あんなんがオレのためですかッ!」
「そうか、知らねぇのか」
人の悪い笑みを、ニヤリと浮かべる伊太郎。
めいあが、熱いコーヒーカップの中味をふーっと吹きながら、
「あゆちゃんって、すご~くワケわかんないこと、い~っぱいするけど、たいてい、後になってみると、ちゃんとそれなりの理由が分かったりするんだよね~」
「へぇ~、そうなんすか~」
と、京旗は平和的にあいづちを打って微笑して見せたが、
――誰が信じるかバーロー!
マルシェでの臭気と視覚の暴力の恨みもこめて、内心ではそう叫んでいた。
「ところでめいあちゃん、話の途中だった日本人学校のこと、聞きたいんすけど……」
めいあが何年生か聞きだしたいのだが、いきなり聞くとナンパのようなので、遠回しにした。
と、めいあは突然パッと立ち上がった。
「あっ! パパ! 来てたの?!」
大きな目が向くその正面には、ちょうど二階から階段を回って下りてくる、二人の紳士がいた。
片方がめいあの父の桑原、片方はレイの父でワール共和国日本大使――ここの主だった。
自己紹介して、少し緊張しながらの握手を京旗がすませると、桑原はめいあに、
「さ、帰るぞ!」
と、エントランスへ向かって小刻みな歩調で歩きだした。
「え? でもめいあ、まだ――」
遊んでいきたいのに、と顔に書いてある。
レイが助け船のように、あら、今日はあたくしと遊びにいらしたんですし、夕食までには車でお送りしますのに、と桑原氏に言った。
桑原は神経質そうに、
「何かと危険な情勢ですから」
決めつける父親に、めいあが、ぷうと膨れる。
父の桑原の代わりに大使が、めいあに笑いかけ、諭すように言った。
「北部の闘争が、激化しているらしいという情報が飛び込みましてね。お父様は、それで心配なさっているんですよ」
「でも、パパは心配性すぎなんだよ~」
確かに心配性すぎて、付き合いづらそうな親父だ。
京旗の頭を、ちらりと未来像がよぎる。桑原親子が兆胡・京旗親子に加わった家族像。
でもまさか、この男を、兆胡サンが再婚相手に選ぶか?
いや、あの人、意外にインテリで繊細な野郎も好きだし、あり得なくはない……
「でもめいあさん、心配しすぎるということはありませんよ。ここのところのごたごたで、日本の外務省も、ワール国への評価を落としているくらいでしてね。こんど、中部のヤムイモン市で、和平会談が予定されてはいるんですが……」
大使は、残念そうなため息をついた。日本本国の意向はともかく、彼個人はワール共和国をひいきにしたい様子だ。
「スーパーマンでも出てきて、紛争をやめさせてくれるといいのですが。現実には、そんなことは起きないですからね……」
そう言う大使と、JETRO――日本貿易振興会――の駐在員たる桑原とは、二階でその紛争激化情報についての意見交換をしていたのだろう。
桑原が、めいあへ、
「政情不安を理由に、ODA打ち切りも検討されているんだ。私見だが、そうなったら企業も団体も全て引き上げ、日本人はこの国から一人残らず出国ということになるだろうな」
「じゃあ引っ越すの?! 学校、変わらなくっちゃならないの~ッ?!」
めいあの目が、急に潤みだした。
桑原は眼鏡を押し上げ、
「もしもの話だが、現実となったら、それは当然だな。日本人学校も閉鎖か、すくなくとも休校になるんだからな」
京旗は思わず、
「いつ? いつから閉鎖になってしまいますか?」
大使が、おや、と目を向けたが、
「まあ、今日明日という話ではないよ。安心しなさい」
京旗は、なんだ、とホッとした。
悪いが、義妹と知りあうきっかけができた後なら、ここの小さな日本人学校がつぶれようと、知ったこっちゃない。何でわざわざ旅行先でまで学校に、と思っていた京旗にとっては、ぶっちゃけ、休校になってくれたほうがいいくらいだ。
意外だったのは伊太郎の反応で、
「しかし、そいつぁ参ったな……」
太い眉根をよせて、腕を組んでアゴをさすっていた。
「ヤツの人生にゃ、ここの日本人学校が、必要不可欠なんだがな……」
人生なんて、ずいぶん大仰なことを言う。と京旗が怪訝な顔で振り返り、伊太郎を見ると、
「おう、一色もそう思わぁな?」
「え? え、ええまあ確かに、学校がなくなるのは、困ってしまうかなーと……」
京旗は曖昧ながら、外面のいいところを見せる。だが、伊太郎の言うことは十分の一も分かっていなかった。「ヤツ」というのは……?
「っと、もうこんな時間か。ディナーの支度をしねえとな」
夕刻にさしかかった時刻を示している時計に気がつくと、伊太郎はさっさと厨房へ消えていった。
「そうだ、もうこんな時間なんだ。さあ帰るんだ、めいあ」
桑原も娘の手を掴んで、引っ張って歩き出す。めいあは眉をひそめて、実の父親を敵のように睨み上げていた。が、哀しいかな非力で、ずるずるとひきずられていく。
途中で精一杯の抵抗のように、
「あっ、一色さん! 一緒に帰ろう!! パパの車でアッタまで送るよっ?!」
ピタリと桑原が止まり、振り向いた。
「そうですね、お送りするべきでしょう。ついでですから」
眼鏡をクイと押しあげた。
――なーんかイヤなオヤジだな。
と思う京旗。なぜならば。
――娘が提案するからそうするが、本心はイヤだと思っていると、顔に書いてあるぜ、バーロー。
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